2014年2月2日説教「神の啓示による福音」金田幸男牧師

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2014年2月2日説教「神の啓示による福音」金田幸男牧師

 聖書:ガラテヤの信徒への手紙1章10-12節新約聖書

10 こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。

11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。

12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。

 

(説教要旨)

【人に取り入ろうとしているのか】

まず、10節でパウロは、人に取り入ろうとしているのか、人に気に入ろうとしているのかと自問を繰り返します。パウロがこのように批判されてきているのではないかと推測されます。

 

 人からとやかく言われる場合、全く心当たりのない、的外れな批判、非難もあります。それは大変悔しい思いをさせられます。しかし、10節の場合、パウロには非難されるような言動があったかもしれません。むろん、それはいわれない批判でありましたから、パウロはそれについて明確に反論をしようとしていることは明らかです。

 

【割礼問題】

パウロが批判されるような言動は、ここからは明確に語られていませんが、想像することはできます。その中のひとつは割礼問題ではなかったかと思われます。そして、それはガラテヤの信徒への手紙の主題である、律法の行いに関わります。

 

 パウロは、忠実な仲間であったテモテには割礼を受けさせました(使徒言行録16:3)。そこではユダヤ人の手前、割礼を受けさせたのです。ところが、伝道者の一人であり、同僚であったテトスには全然割礼を受けさせるようなことをしていません(ガラテヤ2:3)。

 

【テモテの場合】

パウロはユダヤ人として、当然割礼を受けています。そして、割礼を否定していません。テモテには彼が半ユダヤ人(父はギリシヤ人、母がユダヤ人)であるという理由だけではなく、ユダヤ人の手前、つまり、ユダヤ人伝道のために、割礼を受けさせたのです。割礼を重視しているように見えました。ところが、ガラテヤ5:6では「割礼の有無は問題ではない」と言います。

 

【テトスの場合】

そして、テトスには何ら割礼について要求などしませんでした。このようなパウロの言動は矛盾している。あるいは、首尾一貫しない。言行不一致。二枚舌。異邦人に媚を売るような行動に過ぎない。いったいパウロは何を考えているのか。あれやこれや言われていたのだろうと考えられます。こうして、パウロに対する批判を生んだのだと思われます。

 

【律法と信仰】

律法の問題はユダヤ人にとっては重大問題でした。だから、パウロは割礼の問題を軽視していたわけではありません。しかし、信仰にとって死活問題というのではありません。パウロは救いに関して律法や割礼が根本問題ではないというのです。これがガラテヤの信徒への手紙の根幹に関わる主題です。

 

キリスト教に対する偏見は、キリスト教は大変偏狭だという批判があります。キリスト教では、あれをしてはいけない、これをしてはいけないという制約が多いので、好きになれない、自分はキリスト者になりたくないというものです。改革派信仰はもっとそれがひどいとされます。

 パウロは割礼問題では、首尾一貫しない。あちらでこう言い、こちらでは別のことを言う。それは人に取り入って好意を得ようとしている人気取りだと批判されていました。特にユダヤ人同胞を裏切って異邦人の好み、あるいは、傾向に迎合しているとされたのかもしれません。

 

【福音宣教】

パウロが言おうとしていることは、人に迎合するためという動機で福音を宣教しているのではないと強く語ります。人に媚を売るためにだけ、あるいは人が受け入れやすいように福音を語っているのであれば、パウロ自身キリストの僕ではないと言い切っています。

 

彼にとって、救いに関わる福音に関しては妥協などしないと言おうとしています。それ以外のことでは、彼は妥協している、曖昧だと言われても自分の正当性を強弁するようなことはなかったと思います。

 

【救いの本質】

このようなパウロの生き方は私たちがキリスト教信仰に持っているイメージを壊してしまうものに違いありません。キリスト教的な生き方において、救いの本質に関わらないこともたくさんあります。そういうことをあたかも信仰の本質部分だと主張することはパウロの立場ではなかったのです。このような考え方はファリサイ派の出身であるかつてのパウロには想像も出来ない生き方、歩み方であったといわざるを得ません。

 

どちらでもいい問題にこだわり、救いに関わる福音を曖昧にすることは許されません。パウロの姿勢はこのようなものであったといえるのです。

 

 救いの福音に関しては、妥協しません。福音は、彼自身の発明ではありません。また、ほかの使徒から伝えられたものではありません。つまり二番煎じではないというのです。今問題となっていることは救いはただ神の恵みにより、信仰によってであるという点でした。割礼を始め、律法の行いによって救われるのではない、これがパウロの堅い信念であり、確信でした。

 

【キリストの啓示】

この福音の出所はどこか。パウロはそれがキリストの啓示によると断言します。

 

啓示とは暗闇に光が差し入り、そこにあったものが明らかにされることを意味しています。闇の中では何も見えません。しかし、一条の光が差し込むとき、目の前にすべてが明らかになります。

 

神の啓示はそれまで暗い霊的状態にあるものの心に入ってきて、すべてが明らかにします。

 

死の影の谷に歩んでいたものが今や光のうちを歩むことが出来るようになります。罪の結果である悲惨に沈んでいたものを神はいのちの光に生かされます。

 

悪が支配する世で、神の啓示により、真理の道を歩むことが出来るようにされます。私たちの心の闇は、啓示による、まことのいのちに至る真実によってだけその闇は打ち払われます。

 

【パウロの回心】

パウロが啓示を受けたのはいつか。使徒言行録9章1-19に記されている経験であることは確かです。彼はキリスト教迫害者としてダマスコという町に向かっている途中、イエス・キリストと出会います。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という呼びかけの声を聞くのです。サウルは目が見えなくなり、人に手を引かれてダマスコまで行くのですが、そこで、アナニヤという人物に導かれて洗礼を受け、また宣教者として働きを始めます。この経験がパウロにとってキリストの啓示を受けた瞬間であったと思われます。その後、パウロがキリストの啓示を受けた経験は使徒言行録では若干ありますが(例えばマケドニア人の幻=使徒言行録16:6-10)、頻繁にそのような特別な経験があったのかどうか、記されません。

 

パウロが書簡を書いているとき、いわゆる恍惚状態で書いたということはほとんど可能性はありませんが、そのとき、キリストの啓示とは無関係であったとも考えられません。とにかく大切なことはパウロの宣教している福音は神からの啓示であるということです。そこに真実性の根拠があります。

 

 繰り返して申しますが、この福音はパウロ自身の作り出した宗教的確信というのではありません。また、ほかの使徒から学んだことではないとも言います。むろんパウロはアナニヤという神からの働き人を遣わされた経験をしています。しかし、福音そのものはキリストから直接教えられたことだとパウロは強調します。この点は決して譲ることは出来ないとします。

 

その点、パウロが宣教する福音は独自のものというわけではありません。そうであれば、キリストの12人の使徒たちと異なった福音を語ったことになります。むしろ、福音そのものは同一であって、それゆえに、使徒たちとパウロは同等の権威を持っていると結論できます。福音の真理性に関しては決して他の使徒に劣るものではありません。

 

パウロが語った福音

パウロの語った福音は、今私たちが聖書によって知らされ、また信じています。私たちの信じているこの信仰はパウロという宗教的天才の考え出した教説ではありません。また、パウロが異邦人を獲得するための方便でもありません。おそらくパウロはそのように批判されていたのでしょう。パウロが語った福音を信じるとは、キリストからの啓示による真理を信じていることであってこれは確かな信仰です。

 

この価値は忘れられてはなりません。私たちが信じている信仰は誰かの作り物ではありません。出来栄えがいくら素晴らしくでも所詮人間から発生した教えは人間を永遠の命に導いていくことはありません。キリスト教が優れているというのであれば、その教えはあらゆる哲学よりも卓越していたり、優秀であっても、所詮人間由来の教えは救いにとって危うい根拠の上に立っていると言わなければなりません。

 

教会はパウロの教えを自らの宣教の内容としてきました。この教えはキリストの啓示によるというパウロの証言に根ざしています。

 私たちはパウロの経験と同じ経験をすることはできません。何か特別な体験や経験をしているわけではありません。しかし、だからといって私たちが信じている信仰が頼りないものだということにはなりません。

 

【聖霊のお働き】

パウロの語ったことを、真実と受け入れることが出来るようになったのは、そこでキリストの働き、特に聖霊の業を抜きにして考えることができません。聖霊は、私たちが福音を信じるように導いてくださいました。だから、福音を信じることができるようになったのは、私たちの個人的な決断や決心だけによりのではありません。私たちの存在を無視して神は働かれるわけではありませんが、キリストの御霊は私たちに「奇跡的に」働かれます。だからこそ、頑な不信仰に凝り固まった私たちの心を打ち砕いて、キリストは福音受容に導かれます。

 

だから、私たちの確信は、福音そのものが持っている特質、その素晴らしさに動かされたという側面を無視できませんが、同時に、上から聖霊が特別に、そして個人的に働かれたという、言うに言えない不思議というべきなのです。(おわり)

 




2014年02月02日

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