2014年1月12日説教「神が望まれるもの」金田幸男牧師

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2014年1月12日説教「神が望まれるもの」金田幸男牧師

 

聖書: 旧約聖書、詩編147篇

1 ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。

2 主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。

3 打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。

4 主は星に数を定め/それぞれに呼び名をお与えになる。

5 わたしたちの主は大いなる方、御力は強く/英知の御業は数知れない。

6 主は貧しい人々を励まし/逆らう者を地に倒される。

7 感謝の献げ物をささげて主に歌え。竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。

8 主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え/山々に草を芽生えさせられる。

9 獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば/食べ物をお与えになる。

10 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。

11 主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人。

12 エルサレムよ、主をほめたたえよ/シオンよ、あなたの神を賛美せよ。

13 主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし/あなたの中に住む子らを祝福してくださる。

14 あなたの国境に平和を置き/あなたを最良の麦に飽かせてくださる。

15 主は仰せを地に遣わされる。御言葉は速やかに走る。

16 羊の毛のような雪を降らせ/灰のような霜をまき散らし

17 氷塊をパン屑のように投げられる。誰がその冷たさに耐ええよう。

18 御言葉を遣わされれば、それは溶け/息を吹きかけられれば、流れる水となる。

19 主はヤコブに御言葉を/イスラエルに掟と裁きを告げられる。

20 どの国に対しても/このように計らわれたことはない。彼らは主の裁きを知りえない。ハレルヤ。

 

(説教要旨)

【主を賛美する礼拝】

詩編147もハレルヤで始まっていて、ハレルヤ詩編といわれます。ギリシヤ語訳旧約聖書では1-11節と12-20節を分け、二つの別個の詩編とされていますが、主題からも、内容から特別に分割する必要がないと思われます。ただ形の上では、主を賛美する促しの呼びかけ(1,7,12節)から、三つの部分からなっている詩編と見てもよいと思います。その三つの部分とは、1-6節、7-11節、12-20節です。

 

神を賛美せよ、ハレルヤと、賛美を促しているのは詩人の役割ですが、この詩編を学ぶものも互いに主を賛美するように呼び出されています。賛美は、神礼拝の重要な要素です。神を礼拝するとは、神を賛美することに他なりません。その賛美の方法は、讃美歌を歌うこと、祈りの中で神を賛美することなどです。

 

【喜ばしい礼拝】

詩人は、冒頭の1節で、神を賛美することは、喜ばしく、うるわしく、快いと記します。だから、神礼拝は喜ばしいのです。礼拝は喜びに満ちた礼拝でなければなりませんし、礼拝者は喜びをもって神を賛美し、ほめたたえ、礼拝するように導かれています。

 

喜ばしく、楽しく、快活になるような礼拝を守る。この課題は多くの教会の礼拝で思案され、試みられています。

 

【コンテンポラリーな(現代的な)礼拝】

そのひとつがコンテンポラリーな(現代的な)礼拝といわれているものです。形式ばった、伝統的な礼拝形式から脱皮して自由な礼拝を守ろうとされます。古い讃美歌ではなく、現代的な音楽をもって賛美を歌い、オルガンだけではなく、リズミカルなさまざまな楽器を用い、説教者も説教壇を取り払って、ジェスチャーを多用したり、説教の中で会衆と会話したり、礼拝堂もいろいろのアイデアで装飾されます。これらは礼拝を喜びに満ちたものとする工夫に違いありません。わたしは新しい礼拝の守り方をもって、礼拝そのものを喜びに満ちたものとするあり方をことごとく否定するものではありませんが、礼拝は教会の営みの中心にありますから、これを変革することは教会にとって慎重な判断と決断する勇気が必要です。

 

【心に喜びが溢れ出るには】

礼拝を喜びに満ちたものとするためにどうしたらよいのでしょうか。喜びは心の問題です。喜びに満ちた礼拝を守るための工夫は、まずは、礼拝するものの心に喜びが溢れ出るようにしなければなりません。どうしたら、心から喜ばしい礼拝となるのでしょうか。

 

礼拝者が、礼拝している方はどういうお方かを深く知るようになれば、つまり、私たちの礼拝をしている神が喜びに値する神であることを知り学べば、それだけ喜びに満ちた礼拝となるでしょう。

 

【礼拝で聖書の神を知る】

神はどういう方か、どんなことをしてくださったのか。この答え。キリスト教信仰においては、創造主であり、イエス・キリストの父である神、神の子、つまり神ご自身である御子、イエス・キリスト、そして聖霊なる神とその働きは、聖書から明らかにされます。聖書のみ言葉から、私たちは神とその大きなみ業を知ることができます。教会で、その礼拝で、私たちはその神を繰り返し、またさまざまな方向から知ることができます。礼拝のたびに私たちは聖書の神を知らされます。

 

【詩編147篇の主題】

詩編147篇から私たちはどのような神を、そしてその神がなさったことを教えられるのでしょうか。

 結論から申し上げますと。二つのことです。ひとつは私たちの神は贖いの神、回復の神であること、もうひとつは神は被造物を支配し、守り、支える神だということです。

その被造物とは、無生物である自然であり、被造物の冠である人間です。このふたつの真理を知ることが神賛美の基礎です。

 

【回復する神】

回復する神であることは、エルサレム再建という歴史的事実によって証明されます。

この詩編は、紀元前586年のバビロンによるエルサレム滅亡とその後のエルサレム再建を背景にしています。

エルサレムの破滅。列王記下やエレミヤ書、エゼキエル書に、その惨状が描かれています。空前絶後、言葉で記すことができないような悲惨な破局を経験しました。なぜそのような苦難がイスラエル、エルサレムを襲ったのか。聖書は一貫してイスラエル、ユダの罪のせいだと強調します。

偶像礼拝、あらゆる社会的不正義、神の掟の無視、神への背反、霊的汚辱が、エルサレムの惨劇を招きました。

神は長い忍耐のあと、厳しいさばきを下されたのです。それで神はイスラエルを忘れてしまったのでしょうか。見捨てたままにされるのでしょうか。そうではなかったのです。

エルサレムは再建され、捕囚として遠くの地に散らされた民が戻されました。このことは、神がただ憐れみによってイスラエルの過去の罪を許し、贖われる神であることを物語ります。

同様に、神は私たちの罪を赦し、神ご自身との関係を回復し、私たちにいのちを約束されます。

 

契約を再び思い起こし、恵みと憐れみを示されます。歴史の中であったように、私たちの個々の人生においても、現実に回復し復興されます。私たちは罪の結果である悲惨を背負っています。

 

【「打ち砕かれた心」】

3節の「打ち砕かれた心」は罪がもたらす悲しみ、苦しみに傷ついて破断された心という意味です。神から離れて、結果、災いと不運を味わい、立ち上がれないほどまで傷ついている私たちの心と思いを回復されます。罪に沈み、神との交わりを失い、霊的にさ迷うものとなった私たちを贖い出す方です。この神を知れば知るほど、そして、この神を礼拝し、賛美していることをしっかり弁えるのであれば、きっと私たちの心は喜びに満たされるでしょう。

 

【被造物を維持する神】

また、神は被造物を維持する神です。4-6節では、星と貧しい人が出てきますが、神の被造物を代表するものとして描かれます。

星は、満天の星、その数を私たちは数え上げることができません。神はその数を知り、それだけではなく、名前を与える。これは神が世界の隅々まで知り、統治していることを意味します。神の支配下にないものは一切存在しません。神はすべてを治め、調和させられます。

 

また、人間の中で貧しさは人間の弱さを示します。しかし、神はその弱いものを守られます。

 

以上の二つの神のみ業は以下でも繰り返されています。

 

【大地を潤されるお方】

第2部、7-11節では前半で、神が大地に適切な雨を与える方だといわれます。聖書の舞台となっている地域は乾燥したところ、砂漠も含まれます。水は貴重であり、いのちを支えるものです。

 

過酷な自然環境の中でも、神はみ手を伸ばされます。だから、野獣もからすをも守れられ、食物を備えられます。まして、人間を憐れまれないはずがありません。

 

イエス・キリストも同じことを語られています(マタイ6:25-34)。私たちは食べることで心配をします。明日どうなるのだろうと不安に襲われます。しかし、私たちは神を知り、神に信頼し、神に希望を抱き、神を信じるときに心安らかになり、喜びに満たされます。

 

【神が喜ばれるもの】

後半(10-11節)では、神の御心が示されます。神が好まれるのはいかなる力強さ、人間的な力ではありません。神が喜ばれるのは信仰、神への恐れ、希望なのだといわれます。神はこのような人を救い、神の国に受け入れてくださいます。

 

【神が築かれる神殿】

第3部ではどう記されているでしょうか。神はエルサレム、その丘シオンに神殿を築かれます。古代世界では都市は堅固な城壁に囲まれていました。敵が町を包囲しても容易に占領することはできませんでした。しかし、構造上の弱点があります。それは門です。

 

門を破れば退去して兵士が突入し、町は破壊されます。神は門のかんぬきを堅く守られ、敵がどんな攻撃をしてもその町の中にあるものは安全なのです。敵がどんなに強力でも、神が守られる城壁のうちは平和で、繁栄を享受できます。

 

【私たちの敵とは】

私たちはどのような敵に囲まれているでしょうか。私たちの敵は何でしょうか。病気、事故、不運な出来事、災害、経済的社会的混乱、さまざまな不幸、愛するものとの別離。さまざまな敵は私たちを囲み、私たちを滅ぼそうとしています。神はそのような敵の侵入を許されません。

 

最大の敵は死です。罪の呪いは死です。この敵に抵抗できるものはいません。しかし、神はこの強大な敵から、私たちを守られます。

 

【冷たい気候】

15節以下では、雪、霜、氷が挙げられています。聖書の世界、パレスティナではめったに雪は降りません。ですから、ほとんどの人、特に社会的に弱者とされるような人々、戦争難民などはその備えをしていませんので、ひとたび降雪などになれば人々は凍えてしまいます。過酷な環境に耐えなければならなくなります。私たち以上に冷たい気候は人を苦しめます。

 

 私たちの人生においても、さまざまな冷気が襲い掛かってきます。過酷な人生経験をしている人にとっては、多くの艱難、困難に苦しめられます。

 

【人間関係の冷たさ】

私たちの心を冷え冷えとさせるものがあります。人間関係の希薄さ、そして、孤独、心無いことに傷つけられること、今の時代は「自己責任」の時代です。言葉はきれいですが、お互いにそ知らぬ顔ですれ違う関係を肯定しているだけです。人間関係の冷たさは、友人知人関係だけではなく、血が繋がっている家族にも及んでいて深刻になってきています。人間は意図しないまま、冷酷な存在になりもします。

 

この人間と人間の間にある冷たさを暖かくして癒すものがあるでしょうか。心の冷たさを融解させるような暖気、温風は吹いてくるのでしょうか。

 

【心を暖かくする御言葉】

詩編の作者はそれが神の御言葉であると語ります。御言葉は速やかに冷たい世界に流れ込み、たちまち世界を暖めます。このような神の業を経験するものは世界中、他にないと詩人は宣言し、だからこそこの主を知り、心を暖かくする御言葉が語られる礼拝できることこそ喜び根源なのだと私たちに示し、神賛美を促すのです。私たちはこのように神を礼拝し、喜びに満たされるようになります。(おわり)


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2014年01月12日 | カテゴリー: 詩篇

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