2013年10月20日説教「人と自然の保持―神の怒りと憐れみの中で―」                                市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)

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20131020日説教「人と自然の保持―神の怒りと憐れみの中で―」                                市川康則牧師(神戸改革派神学校校長)

聖書:創世記9章1~17節

1 神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。2 地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。3 動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。4 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。5 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。6 人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。7 あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」8 神はノアと彼の息子たちに言われた。9 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。10 あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。11 わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」12 更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。13 すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。14 わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、15 わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。16 雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」17 神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるしである。」

 

(説教要約 文責近藤)

【人と自然の保持】

今読みましたところはノアの洪水物語のところですが、新しい会堂に来て、洪水で神様は心を真っ白にして下さった心持ちです。洪水物語は聖書のよく知られた箇所になりますが人と自然が保たれ保持されていることは神の憐れみである。同時に神の怒りもまた交錯しております。

 

【人も家畜も空の鳥も滅ぼそう】

今お読みした創世記9章1~17節は創世記69節「これはノアの物語である」との書き出しで始まっております。

物語とは聖書の他の箇所では系図とか由来と言われます。ともかくノア物語の締めくくりのところであり、クライマックスであります。これが今日のこの箇所です。

その直前6章1節から8節、そこに神様の思い、あるいは計画が凝縮して記されています。それは創世記65節「5主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。

そして7節「7 主は言われた。『わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。』

人だけでなく家畜も空の鳥も這うものも滅ぼそう」。

動物はかわいそうですね。人間だけが一掃されたらいいのに、家畜や空の鳥、地を這うものは罪を持ってないのになぜでしょうか。神様の怒りはそこまでエスカレートするとは、なぜ神様は人間以外のものも滅ぼし尽くそうとされたのでしょうか。

 

【人は地を支配するために造られた】

創世記1章~3章から分かる様に、人は他のすべての造られたものの代表です。人だけが神の像(かたち)に似た者に造られ、他の被造物を支配するために造られた。その人間が罪を犯したら、他の被造物も同罪だと。

罪は継承されるだけなくエスカレートします。人間の文化はそのまま継承されません。変化、発展します。良い方向にも悪い方向にもエスカレートします。原子力を見てください。昔はなかったが今はあります。しかし人間が創造したわけでありません。その元は神様が造られたのです。

文化が増大すると同時に罪も増大します。それで神様の怒りも増大します。

 

【神の裁き】

6章1~8節に人が罪で地を満たしたとあります。神様は恵み深い憐れみ深いお方でありますけれども、しかし聖なるお方、義なるお方ですから罪を放置なさいません。きっちりと後始末を付けられます。それが裁きです。

 

【ノアは主の好意を得た】

ただしその人間の中で8節「6:8 しかし、ノアは主の好意を得た」とあります。ノアは罪がなかったのではありません。彼もアダムの子孫ですから罪があることに例外ではありません。しかしノアは神を畏れ神を信じる人でありました。9節「6:9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」。

古い訳ではノアは正しい人であった。それで神はノアに好意を寄せられた。

すべてのものを滅ぼされるのですが、ノアとその家族と一つがいづつの動物を方舟に入れ守られます。

6章9節から始まる物語の締めくくりが先ほど朗読した創世記91~17節です。

 

【ノア契約】

まず第一に神様はノアに契約を与えられるに際して最初の天地創造をもう一度念頭に置かれます。

神様は罪に対して厳しく裁かれますが神様は逆上されるお方でありません。

大洪水をもって地を滅ぼさんばかりに裁かれるのですが文字通りゼロにするということをなさいません。それだったら初めから神様は地球を作らなければよかったわけです。

神は罪に対して厳しい方ですが、すべての被造物、ことにご自分の像(かたち)に似せて造ったほどに人を愛された。罪を放置はできないけれども被造物そのものを神様は根絶しようと言うのではありません。活かす道も残しておられた。

 

【人は地の管理人】

神様は人間に他のすべての被造物を正しく管理し、支配するようにと命じられた。

 

創世記 1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」

創世記 1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」、

 

【エデンの園では菜食】

神様が人に与えられた仕事は造られた被造物を維持管理するということですが、神様はエデンの園にある野菜、果物を人間の食料としてお与えになった。人間は植物を食べ肉は食べなかった。

 

【肉食と人間の支配者性】

洪水のあとも多くのことは受け継がれております。しかし新しいことが1つあります。それは命あるもの、即ち肉を食べても良い、生き物を食べて良いという事です。

ここに初めて洪水後に肉を食べることを許されました。これは人間の支配者性を確認するできごとであり、保証するためであります。

神の国で、我々が天国に行ったとき肉食があるでしょうか。想像の域ですがおそらく肉食はないと思われます。罪が起こりまして改めて人間が他を支配すると言うことが確認されるときに、人は、神様を別として、被造物を支配する支配者性の確認のために肉を食べることを許された。

 

【命は命をもって償う】

人間の支配者性を裏から眺めると95節「5 また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。

人の命である血が流された場合、神は賠償を求められる。罪を犯したからもう人間でないものになった訳ではありません。確かにキリストを信じて救われるまでは真実の神様を知りませんし、神様に祝福されませんけれども、それでも依然として人間なのです。捕虜や囚人に対して人体実験などをしてはなりません。

もし人の命が奪われ、血が流されるなら神様は賠償を要求される。これは神がなさることです。

復讐することは神がなさる事ですから、短絡的に死刑制度が、戦争が、良いとか悪いとかは言えません。それはまた別の議論です。仮に人が殺人し、そのものが復讐を受けるとしても、それは神がなさることです。命はそれを造られた神の所有物であるという事を覚えなければなりません。

 

【動物は血を含んだまま食べてはならない】

人間は動物を新たに食べることを許されたわけですが、一つ条件がありまして、4節「9:4 ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」。

動物の血は命であるから血を含んだまま食べてはならないという事です。それは一面医学の発達してない時代、衛生上の面もあったかもしれません。生ま肉を食べると悪いという事もありました。

 

中心的な事は例え動物であってもそれを造ったものは神様でありますから、命の源であると思われていた血を一緒に食べてはならない。こう言う制限付きでありますが生き物を食べることが確認されております。

 

【主従契約】

二つ目のこととして覚えることは、神様はノアと契約を結ばれますが、この契約は上下主従関係の契約であります。今日契約と言うと対等の契約、国と国、企業と企業、個人と個人、たとえば日米安全保障条約、一応これも対等ですが、その他、物を買う売買契約も対等契約です。契約を辞めるのもお互いの同意があればいいわけですが、聖書にある契約はときに国と国との契約もありますけれども、概ねは上下主従関係の契約です。

神様と民との間に結ばれる契約は上下主従の絶対的服従関係の中で結ばれます。その契約を守る限りにおいて命を保証するという契約であります。

旧新別なく聖書は契約と言う概念で貫かれております。旧約、新約の約は契約の約です。契約が最初に出てくるのがこのノア物語です。これは特定的に救いを目指す契約ではありません。

【救いの契約】

救いの契約はノアの何代か後のアブラハムから始まります。それは諸民族の中で神の民とする特定の民族と神との契約であります。

救うという契約、救いの約束は聖書の中では最初にアブラハムと結ばれましたが、息子イサクの時に更新され、孫ヤコブの時にまた更新され、代々更新されました。そして最終的にイエス・キリストにおいて成就したのであります。

しかしこのノアの契約には更新はありません。一度結ばれたら世の終わりまで一貫して確かであり、神はそれを守られます。

ノア契約の中身は何かというと二度と地を滅ぼさないということです。アブラハムから始まる救いの契約は、何度も言いますが罪からの贖いで、キリストにおいて成就しましたが、それを目指しての契約であります。

 

【神の民イスラエルと異邦人】

救いはイエス・キリスト出現まではイスラエルに限られますが、その後、その救いはイスラエルに限らず全世界(異邦人)へと広がってまいります。それまではイスラエルに限局され、諸民族の中でイスラエルだけが神の民とされたのです。

ところがノアの契約は初めの時点で神はすべての肉なるものと契約を結ぶと言われております。つまり動物も入っております。すべてのもの、ノアとその家族が中心ですが、その後の子孫も含めて、動物も、すべての造られたものが契約の対象であります。

 

改革派教会ではこの契約を一般恩恵などと言っておりますが私は神の一般恩恵というのは曖昧であるので使わないことにしています。端的に保持恩恵と言っております。普通教会で恵と言いますのはほとんど独占的にイエス・キリストにある救いということを恵と言います。

救いは神の恵であると、その通りですが、神の恵を救いの事だけに当てはめると他のものを恵とみなさなくなります。

神様の保持なさる、神が無から創造されたものを神様が保つ、これを神の恵と見なくなる傾向があります。それは神に対して忘恩であると思います。確かに保持することはそれ自身救いではありませんが、しかし保持がなかったら救いも起こりません。

 

救いの契約という事は全く神様の憐れみであります。アブラハムの時に結ばれましたが、神様がノアの時に建てた契約を保持するという約束があればこそ、ノアから何代か後のアブラハムとの間でその救いの契約が叶えられました。

 

【私の場合】

わかり易くそれを言いますと私はクリスチャンホームでは生まれたのではありません。家には仏壇や神棚がありました。そして20歳になるまで、そういう環境で育ってまいりました。遠縁には神主がおりますし、母方の叔母は住職であったりという環境で育ってきました。大学に入ってクリスチャンとなって二十歳前に洗礼を受けました。

キリストを信じて救われるのですが、ともかく二十歳近くまで生きてきました。それまで生きてこなかったら救われようがありません。私は勉強は嫌いでしたが日本語はそれなりに理解でき大学に入って教会に連れて行かれ牧師さんの説教を聞いて信じるか信じないかは別として、何を言ってるか分かりました。私は大病はしたこともなく健康でした。キリストへの信仰が与えられたというのは、そして救われたと言うことは言うまでもなく神様の業ですが、しかしそれまで20年間健康が守られ日本語が読めた、聞くことができた、理解できた、それは神様の憐れみ、神様の恵であります。救われることに劣らない神様の恵であると見なければなりません。

【自然法則?】

恵を救いだけに当てはめますと神が創造されたことを恵と見なさないわけです。ではどう見るか、代表的な言い方をするとそれが「自然」ということになります。乱暴な言い方ですが自然なるものはありません。それは神様が造ったもので、自然法則なんてありません。神が造られた法則以外ないわけです。自然とはこれを支えておられる神様の意思なのです。自然法則とは人間が作ったものです。これは変わるものです。戦争は代表的なものです。神様が作られた現象は変わりません、天動説までは太陽が地球の周りを廻りました。地動説になっても現象は同じです。何千年かたってその両方が間違ってるということになるかもしれません。それはともかくも創造する、そしてそれを支えるという事はこれは救いに負けず劣らず、いや救いに先立って神様の根本的な恵であると思います。

ノアに対して二度と地を滅ぼさないとの約束、それはやがてアブラハムなる人物を特定的に召し出して救いを実現していくと言う備えとしてこの契約をお与えになった。だからこそ私たちは日常の生活の中で健康、学校の勉強など、そこに神様の憐れみを見て神様との関係でそれを正しく管理しなければならないと言うことが分かります。

信仰があれば身体なんかどうでもいいという訳ではありません。身体がなければ信仰もありません。

 

【王と高官のために祈れ】

三つ目のことですが、これは先の二つの延長線上になりますが、それに続く救いは神様の恵でありますが、それに先立つ保持とか維持も神様の恵であります。

その思いは新約聖書にも受け継がれます。

使徒パウロはローマの信徒への手紙13章でローマの信徒に勧めております。ローマの官憲、政治指導者、警察に従うようにと勧めます。

当時のことですからその権力者はイエス・キリストのことをほとんど知らないわけです。それでもパウロは従いなさいと。同じ事はテモテやテトスにも言われております。高官と王のために祈りなさい。彼らに従いなさい。もちろん彼らが「キリストの信仰を捨てよ、ナザレのイエスを信じるな」と言われたらその限りではありません。その場合は逆らわなければなりません。王や高官に従うことはその国や町が制度秩序を保って生活を続けていくことができるためであります。そのために彼らを神が用いておられるのです。神様に従う具体的一環として王や高官に従うこともまた求められます。こうすることが秩序ある平穏な生活を送る上に大切なことです。

 

普通に考えても分かることですが、いつも国や街が政情不安であるときには信仰生活はしにくいですね。平和、正義、秩序これが保たれる事はよい信仰生活を行う上で必要なことであります。同時に官憲を用いて世界の秩序は保たれる。これも神様の御手のうちにある恵であるとパウロは承知しておりましたのでローマの信徒あるいはテモテに言うことができたのであります。

このことは私たちの信仰生活にも当てはまります。私たちの信仰を否定することを要求することには従うことはできませんが、日本の国民として、あるいは市民として日常生活の中でその市民としての務めを果たさなければなりません。義務があると同時に権利もあります。選挙とか。日常生活とキリストによって救われることは別々のものではありません。それは一貫している一つのことであります。こういう理解が必要であります。

通常契約という言葉は救いに用いられることですか、それにもかかわらず私たちには救いでないことに契約という言葉がここに用いられていることは大変意義深いことであります。

 

【私たちに起こる災害】

最後に一言、このことを付け加えます。洪水は地を滅ぼすいう神様の怒りが心頭に達した結果でありますが、何度も言いますが神様は単なる逆上をされたと言うのではありません。

ある計画・意図をもってこのことをなさいましたから滅ぼし尽くすことをなさいませんでした。

洪水のあとのノアたち家族と方舟に入った動物が守られ、洪水が終わった後も、方舟に入った動物は守られる。そして洪水が終わった後また植物が繁盛する。

一方で厳しい裁きを招きながら神様は保っておられることから、私たちは軽々に言うべきではありませんが、非常に深いところでは包容できるのではありませんか。なぜ私たちの周りに、また私たち自身に災害が起こるのかということです。

一昨年の例の東北大震災、非常な大震災です。10数年前にも阪神大震災がありました。もちろんそれを神の裁きと短絡的に言う事は出来ませんし言うべきではありません。少なくとも被害にあった人が会わなかった人以上に罪があるとか罪深かったとか、そんな事は決して言えません。

【災害とは神様の意思表示】

しかし高所大局的に見るなら、なぜそれが起こったのか。わたしたちには分かりませんが地球規模で見ますとやっぱり神様の意思表示だと見ないわけにはいきません。

人間が長い居住を許されている地を汚しているという事、これに対する神様の裁きと見るべき神の意思表示ではありませんか。そういうことが往々起こったということを非常に重く受け止めねばなりません。

何度も言うようにその地域がそうでない地域より罪深いと言うことではありません。これは震災だけでなく社会の犯罪もそうです。ネットが悪用されて付き合って嫌われて殺されるということが頻繁に起こっております。被害にあった人がそうでない人よりも神様の前に悪いとはそんな事は言えません。

【神は全てご存知】

しかしこういう出来事を見る時に一方で神の存在、神の恐ろしいお方であるということを改めて私たちは慄然とさせられます。が同時に逆説的に、これを神様が引き起こされたとは言いたくないんですが、神の知らないところで起こっているわけではありません。これに対して神様がお手上げと言う訳ではありません。

聖書の神は全能で厳しいけれども恵み深い神様であるという事を信じればこそ、そこにも尚、愛と希望があるということです。

【神に希望を】

震災直後に神が酷いといった人もあります。その気持ちが分からないわけでありません。あるいは神はいないんだと言う人もありました。神がいなかったらあのような悲惨な出来事をよりよく説明できるのか。よりよくそれに対処できるのかと言いますと事柄は全然正反対です。神がいなかったら、居たとしても無力な神なら、また冷酷な神だったら、こんな神はいない方がいいですが、神が居てほしいなら一方で全能、そして恵深い神様、そういう神様の支配の下でああいう災害犯罪が起こるということを信じる時にだけ、ここで私たちは立ち上がり、それに対応することができるのであります。

【生きる力の源】

神が酷い、神はおられないと言うのは、その気持ちよくわかりますが、実はそうではない。神様は全能で恵み深いお方であるということを信じるからこそ私たちは困難に対して再び生きる力を与えられ、希望を持って対処できます。私たちが天に召されるまでにどういうことに遭遇するか分からない、いつ何が起こるか誰も予断ができません。

しかし、全能の恵み深い、正しくかつ恵み深い神様を私たちは見ている。その神様に私たちは取り扱われているという信仰があるときに何があっても耐えることができるということをこの大洪水から学ぶことができます。

大洪水に多くの人ビックリしたでしょう。しかし神様はノアには約束されました。それは自然の猛威とか脅威ではなく神様が起こされた。だからノアは神様を信じることができた。私たちも既にイエス・キリストによって罪許された。それゆえ私たちはイエス・キリストを信じて神の国の相続者とされております。この信仰を持って歩み続けたい。(終わり)

2013年10月20日 | カテゴリー: 創世記

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