2013.6.9.説教「試練に出会うとき」姜 世媛(カン・セオン)先生(WEC派遣宣教師)

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2013.6.9.説教「試練に出会うとき」姜 世媛先生(WEC派遣宣教師)

聖書:ヤコブの手紙11~12:

1 神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。

9 貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。

10 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。11 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。

12試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。

 

説教要約(文責近藤)

 

【自己紹介】

わたしはWEC宣教団で働いている宣教師で滋賀県からきました。日本にきて4年目です。4年目の安息年として1年間の休暇が与えられ、その間、神戸改革派神学校で主人とともに学ぶことにしました。主人は特別研修生ですので試験もありますが私は聴講生ですから試験はありません。1年間伊丹教会に派遣され今日は西谷伝道所で奉仕することが叶えられ感謝です。

 

【ヤコブ】

今日はヤコブの手紙から御言葉に聞きたいと思います。新約聖書には4人のヤコブがいます。この手紙を書いたヤコブは主イエスの兄弟でした。主が生きておられた間はただの人間の兄弟として主を見ていましたが主イエスが復活されたあとは神様と信じ受入れました。

 

【ヤコブの手紙について】

この手紙はペテロの手紙やヨハネの手紙と同様に公同書簡と言われ宛先は多くの教会になっています。ヤコブの手紙のあて先は国外に散らされているユダヤ人クリスチャンです。1世紀に書かれています。

 

このヤコブの手紙はクリスチャンの良き行いが強調されていることから歴史的にみて宗教改革者たちからは聖書の中で一番低く見られていました。何故かと言うとパウロの手紙などのように信仰によって救われると言うことを強調していません。行いを重要視しているように思われています。しかし最近はヤコブの手紙は新約聖書の箴言と言われ信じる信仰を実践する事の大切さを教えて見直されています。

 

試練に出会うとき神様が私たちに願っておられる3つのことを今日は考えましょう。

 

1番目、試練に出会うとき喜びなさい】

 

ヤコブの手紙12節から4節を読みましょう。

2 わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。

 

2節「いろいろな試練に出会うときは」とあるように誰しも試練に出会います。試練という言葉は辞書的に信仰の強さを試すもの、またその時受ける苦難だと言われることは適切だと思います。信仰の強さや実力を厳しく試すことが試練の持つ意味です。

 

今日のヤコブの手紙には試練と誘惑という二つの言葉が使い分けてありますが、しかし同じ言葉の翻訳もあります。原語聖書も韓国語も同じ言葉を使い韓国語では試験と言ってます。

 

愛する兄弟姉妹。私たちはいろんな試練に出会うと書かれています。これは認めなければなりません。クリスチャンになっても試練はあります。

試練は人によって違います。どんな試練がありますか。

 

病気、経済的、人間関係などいろんな試練があり、その時の反応は「何で?」と言う思いで、神様に疑いを持ちます。しかし聖書は理不尽な試練に会うときも2節後半「この上ない喜びと思いなさい」と勧めます。

 

使徒パウロはフィリピの信徒への手紙 44 「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と言っておりますが、この手紙を書いたのは牢獄の中からでした。

 

彼が喜ぶことが出来たのは信仰の成長があったからです。34節「3 信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。4あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」。

 

皆さん。試練の中にある方は全てのことを神様に委ねて喜ぶ努力をしませんか。今の試練は私たちの信仰の成長の為だと信じませんか。神様は私たちを待っておられます。

 

2番目、試練に出会った時祈ること】

 

ヤコブの手紙5~8節を一緒に読みましょう。

5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」。

 

【知恵を求める】

5節は私の好きなことばです。韓国で学生時代キャンパスクルセ-ドで活動しました。ここで勉強の前に読んだ詩編とヤコブの手紙が自分の信仰と生活に非常に有益に働いたと思い返します。

 

5あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」とありますが知恵は本当に必要でしょうか。

 

私の持っている辞書には「知恵とは人生に対する実際的洞察力で、多くの試練に忍耐をもって打ち克つときに得られる」と書かれています。知恵は単なる知識でなく私たちの様々な経験が積み重なって得られる広いものです。5節で知恵を求めるということは私たちが直面している様々な問題に必要な力を求めるということです。

 

日本のことわざに「苦しいときの神頼み」というのがありますが普段は信じていないのに苦しいときに神に頼ると言うことです。世間の人でも何か大変なことがあると普段信じていない神様に頼ります。私たちにはこの世の神に勝る本当の神様がおられます。

 

使徒パウロは試練に出会ったとき祈りました。

使徒言行録1623~26節を読みましょう。

23 そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。:24 この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。25 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。

26 突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」

 

パウロはフィリピで占いをする女奴隷から主イエスの名によって悪霊を追い出したために牢屋に入れられました。

 

パウロとシラスが牢屋のなかで歌った讃美や祈った祈りはどんなものだったでしょうか。

彼らは牢から出る事よりも何よりも神様に感謝を捧げ神のご存在をほめたたえました。

 

【心が定まらない人】

時には祈っても答えられないことがあります。なぜでしょうか。試練にあった時、人は神様を疑うこともあります。

 

聖書はヤコブの手紙16~8 6いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です」と語ります。

 

【二心のある人】

今日の箇所の8節「心が定まらず」疑う人のことを新改訳聖書は二心のある人、英語でDouble mindedとも言います。信仰と不信仰が分裂している人、神と神以外の者に信仰が分かれている人、二股を賭けると言う言葉もあります。不倫を行う人もそうですが、聖書に姦淫を犯すと言うことは真の神様を信じると言いながら神様以外の偶像を礼拝する人のことを言います。

 

そのように心に疑いを抱くときは神様は祈りに応えられません。

 

マタイによる福音書 7 7求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」。

 

私たちを愛する神様は必要なら奇跡をも行うことがおできになる全能の神様で、無から有を作り出された神様です。そのような神様が私たちの祈りに耳を傾けておられます。「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に」全てのことを委ねて試練を乗り越える知恵を神に願いませんか。神様は待っておられます。

 

3番目、試練に出会ったとき耐え忍ぶこと】

 

今日の手紙ヤコブ1章の12 「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」

 

聖書は試練を耐え忍ぶ人は幸いだと言います。なぜでしょうか。試練を耐え忍ぶ人は神様から約束された命の冠を戴くからです。ここに書かれている「約束された命の冠」とは何でしょうか。これは主イエスの十字架の死の贖いによって取り換えられた新しい命のことで主イエスが約束してくださったものです。

 

ヨハネによる福音書1125~26「イエスは言われた。『25わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。』」と。

 

【ヨブの試練と忍耐】

旧約聖書のヨブの試練を思い起してください。ヨブは神の前に真実な人でしたが彼は試練により子供も財産もすべて失った。しかし決して神様に恨み言を言わず神様を讃美しました。

 

旧約聖書ヨブ記120~22節を見てください。

20 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。

21 『わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。』22 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」。

 

また家族も財産も健康も失ったヨブに対して三人の友人からもヨブは神様のまえに隠れた罪があるはずだと彼の心は鞭打たれました。しかしヨブはこのような酷い試練にあっても決して神様を非難せず耐えました。神様はヨブの忍耐を喜びその信仰を認められ試練により失ったものを2倍にして返しヨブを祝福された。

 

ヨブのことをヤコブの手紙511 で語ります。

「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」

 

【命の冠を受けるために】

皆さんは試練に会っておられますか。どうしても解決できない問題で涙しておられますか。神様はすべてを御存知です。神様は慈愛と憐れみをもって私たちを顧みてくださいます。神様が準備しておられる命の冠を受けることを期待しながら今日も与えられた道を神様と共に歩みませんか。神様は私たちを待っておられます。私たちが試練にあっても、喜ぶこと、祈り求めること、耐え忍ぶことを神様は願っておられ、聖霊様の助けをもって励ました下さいます。(おわり)

 

 


2013年06月09日 | カテゴリー: ヤコブの手紙 , 新約聖書

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