2013.6.16.説教「神が共におられる人生」田村英典牧師(北神戸キリスト教会)


2013.6.16.説教「神が共におられる人生」田村英典牧師(北神戸キリスト教会)

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旧約聖書ヨシュア記1( モーセの後継者ヨシュア)

1 主の僕モーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに言われた。

2 「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。3 モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。4 荒れ野からレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。5 一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。6 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。

8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。

9 わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」

 

(説教要約 文責近藤)

【モーセの後継者ヨシュアの不安】

旧約聖書ヨシュア記12~10節は古代イスラエルの指導者ヨシュアに対して語られて神様のお言葉です。

天地を創られた神様のお導きのもとにイスラエルをエジプトの奴隷状態から救った偉大なる指導者モーセ。彼が死んで後継者に立てられたヨシュアはイスラエルの民を約束の地カナン(今日のパレスチナ)に導くのに大きな不安を覚えたでしょう。イスラエル民族自身にも問題点があり、そういう民を神様の約束の地に導かねばならない。モーセに比べなお小さな存在でしかないことを知っていたヨシュアはどんなに不安だったでしょうか。

 

ヨシュアはイスラエルを率いて目の前の水量豊かなヨルダン川を渡らなければならないしヨルダン川を渡ったとしてもそこにはどんな国があってどんな困難が待ち受けているかも知れないと言う沢山の不安に襲われました。彼はその民を率いてカナンの地に定住させることが自分の使命であることは分かっていました。でもヨシュアはどんなに不安であったでしょう。私たちにも彼の気持ちが分かります。問題が沢山待ち受けていて解決すべきことが余りに多い。どうやって解決すべきかと鉛のような心の重荷を感じ、心が塞ぎ、絶望感に陥ります。出来ればこんな状態から逃げ出したい気持ちに襲われます。しかしそんな無責任なこともできません。

 

今日は人生のこのような不安を覚えるときにヨシュアに与えられた神様の御言葉から3つばかりのことを覚えたい。

 

【1、神が共におられることを信じること】

もう一度5節後半からお読みします

5わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。6 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。」

 

第一に教えられることは何でしょうか。

神は偉大な信仰者また指導者であったモーセのような人物とともに居られたように、9節から分かるように、うろたえ、おののくこともあるヨシュアのように小さいもの、弱いもの、足りない者、そしてその欠点をいやというほど知っている信仰者とともに居て見放すことも見捨てることもされないということです。

 

神様は断言されます。5節後半「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。」と。

 

神様は偉大な信仰者とともにおられるだけでなく、神様は弱い、小さくて頼りない、ちょっとしたことに大きく動揺するような私どものような信仰者とも確かに共におられる。これは何と大きな慰めに満ちた事実であり、約束でありましょう。この点をもう一度確認して心に深く刻んでおきたい神様のお言葉です。

 

【サタンの力】

困難に襲われ心が弱って不安な時には必ずサタンはこれを煽りますので心は乱れ自分自身をコントロールできない状態にします。そういう時にこそ神がヨシュアに言われた御言葉と約束、5節後半「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」との御言葉を思い起こしたい。

 

こういう不安な時こそ信仰を働かせて、状況に流されてはならない。今こそ信仰を働かせるのです。目に見えないが主イエス・キリストが、父なる神様が、聖霊なる神様が私どもと共に居てくださることを自覚的にもう一度信じ直すのです。信じるよう自分自身に命じたいのです。そのように自覚的に神様に信頼したいと思います。

 

詩編426 「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/『御顔こそ、わたしの救い』と」。

 

困難な中で詩編作者は振り回される自分を放っておかないのです。彼は自分に尋ねる「わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め」と。私たちも自分に尋ね神を待ち望むことを勧めるのです。

 

自分と議論し、自分に命じるのです「神を待ち望め」と自分に促すのですことは大事です。

辛い状況に流されることなく信仰により自分と議論し、自分に尋ね、自分に命じることが全てのクリスチャンの務めです。クリスチャンは牧師でなくても自分自身に御言葉により説教が出来るのです。困難な時こそ私たちはこの信仰を用いたい。

 

【2真剣に祈り求めること

二つ目の点は神様がヨシュアとともに居られたように私どもと共に居て下さることをキリストへの信仰をとおして一層真剣に祈り求めることです。

 

【ヤコブの信仰】

創世記32章はイスラエルの先祖のヤコブが兄のエソウを裏切って逃げていたのですがその兄と再会する前に兄の復讐を恐れて不安から一晩中ペヌエルで祈ったとあります。

 

神が共におられることを信じていないわけではありませんが、兄から逃げた時は一人でしたが今や彼は妻や子供と多くの一族に増えていたので彼らが安全で居れることを一晩中激しく祈ったのです。それは神の天使と一晩中格闘したような激しい体験で、そのためヤコブは腿の関節を痛めたほどです。

 

夜が明けようとして神の天使が彼から離れ去ろうとするのですがヤコブは天使を掴んで「私を祝福してくださるまではあなたを去らせません」と必死に願いました。

神様は彼の願を聞き入れました。結果、彼ヤコブに事を冷静に見極め、賢く対処する知恵を与え、兄の心を和らげるように導かれました。こうしてヤコブと一族は危機を乗り越えました。そののちの生涯に於いても困難はありましたが父なる神様はヤコブと共に居られたのです。私たちも同じです。

 

【真剣な祈りの例】

確かに主イエスはマタイ福音書67節に「祈るとき異邦人のようにくどくどと祈るな、彼らの真似をしてはならない」と教えられた。時間をかけて祈ればよいと言うようなものではありませんがイスラエルの先祖ヤコブのように、また預言者サムエルの母、ハンナの祈りもそうでありましたように熱心に祈りたい。

 

列王記下427節の自分の子供が死んだときに預言者エリシャの足に縋り付いたシュネムの婦人のように辛いとき、苦しいとき、悲しいとき、不安で心配でたまらないときに私たちにご自身の力、愛、憐れみを示して下さったイエス・キリストの父なる神様に私たちと私たちの愛する人たちとともに居て下さることを真剣に祈り求めたい。

 

私たちは祈って神様をねじ伏せると言うことではなく、最終的にすべてを神様に委ねて、熱心に、あっさり祈るのでなく、しぶとく真剣に神様に神が共に居て下さるように、ヤコブのように真剣に祈りましょう。

 

【3、神様と共に生きる】

神様が共に居て下さることを信じ、共に居て下さるように熱心に祈ることの次には私たちの方も神様から離れず神様と共に居るように生きることを覚えましょう。

 

ヨシュア記 1章7~8 節で神はヨシュアに言われた、

7 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する」

 

ここで決して救いは良き行いを熱心に守って得ると言う律法主義的に捕えることのないようにしてほしいのですが、なぜなら救いはただただ主イエス・キリストを信じる信仰によるのですから、私たちも神様の御恵みに感謝して神様から離れないで、思いを尽くし精神を尽くし力を尽くして神様とともに居るように背一杯努めることです。信仰に立って聖書に書かれていることを忠実に守り喜んで生きることで全知全能の神様から離れないということです。

 

【神が共に居て下さるように祈り生きること】

自分の思い通り、考え通りに生きて神が共におられることを願うのは身勝手です。そうではなく私たちの方も神様から離れないで生きる、朝も昼も夜も、夜寝るときもそうです。私たち夫婦の祈りですが、眠っている間、私たちは神を忘れていても神様の近くに居ることが出来るように、また神様が近くに居て下さいと祈ります。勿論、私たちは天に召されるまで不完全ですから神の近くに居ることは出来ませんが、ただ願いにおいて神様のお側に居させてください、どんなときにも神様の傍らに居らせて下さいと祈るとき神様の方も喜んで私たちとともに居られ祝福してくださいます。

 

ヤコブの手紙48節「 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」。

 

【神が共に居て下さる者の幸い】

独り子を十字架に架けられた神様、私たちを創られた神様は私たちの髪の毛一本をも支配しておられる。その神様がどんなときにも私たちとともに居てくださいますので私たちは安心です。

 

私たちはあと何年生きられるか分からない。いや何年神様に生かされるのでしょうか。誰も明日のことは分かりません。明日死んでも神様が共に居て下さると言うことは何という平安でしょうか。

 

【クリスチャンはこの世の勝利者】

主は新約聖書ヨハネによる福音書1633節で「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と言われた。主イエスはこの世では悪魔が働いていることを御存知です。

 

ペトロの手紙一 5:8 「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」この事実を決して忘れてはなりません。同時に私たちの主は断言されました。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」私たちは世に勝たれたキリストとともに居るのです。

 

私たちは最終的に滅ぼされないで罪と悪魔と死に勝利できると言うことをキリストは今日このヨシュア記を通して教え約束しておられます。

 

【信仰の成長のために】

大きな困難のときは勿論ですが日頃の積み上げが大事です。生活習慣病という言葉もあります。体のことばかりでなく精神的なこともそうです、ちょっとした困難な時にすぐ逃げるか、ごまかすか、それともぶつかっていくか、失敗しても誠実に謝るか、そのちっちゃな精神のあり方の積み重ねが私たちの人格、性格を形造るのです。

 

信仰も同じです。一つ一つの習慣の積み重ねが大事です。くせ、神は人にくせを与えて下さっていますが神様はそれをプラスに生かしてそれらを祝福してくださっています。

 

どうか毎日を始める当たって何があろうとも私たちのような小さな者にも、1、神が共にいてくださることを確信し、2、そのことを覚えながらひと時ひと時一層神に真剣に祈り求めて、3、我々自身も神さまの御言葉を固く守り行う、失敗しても悔い改めを決意して神と共に生きることです。(おわり)

 

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2013年06月16日 | カテゴリー: ヨシュア記

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