2013年2月3日説教「信仰とは何か」ウイリアム・モーア

201323日説教「信仰とは何か」ウイリアム・モーア

聖書:ヘブライ人への手紙11章「1 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。2 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」。

 

(説教要約 文責近藤)

 

【ナイヤガラ滝の綱渡り】

19世紀後半に目覚ましい活躍をしたフランス人の綱渡師ブロンダンが1859年にナイヤガラ滝の上50メートルの高さに340メートルの長さのロープを張ってカナダ側からアメリカ側に綱渡りを決行しました。ロープの上を猫車を押して見事に渡り切りました。大勢の見物客に向かって、「わたしはもう一度出来ると思いますか」と聴きました。人々は「イエス、イエス。勿論できます」と答えました。「それでは人を猫車に乗せて渡ることが出来ると思いますか」と質問しました。見物客はまた「イエス、イエス、勿論」と答えました。ブロンダン氏は「それでは誰かひとり猫車に乗ってくれる人はいませんか?」と尋ねました。しかし誰も前に出る人はいませんでした。実際世界一の綱渡りを見たけれどもその猫車に自分の命を乗せることは別の話でした。

 

信仰について今日はお話ししますが人々に誤解されていることがあります。

信仰の意味について先のストーリーは信仰の根本に焦点をもたらします。

 

【信仰とは】

綱渡り師の能力を信じていたら誰も前に出たはずですが、そこには信頼が不足していたのでブロンダン氏の前に誰も出ませんでした。

 

信仰とはこの話の比喩的猫車に乗ることです。

信仰とは簡単に言えば神の愛、神の約束を信頼することです。

 

私たちは日常生活において周りの者を信頼しています。例えば

朝起きてライトを点けるときは電力会社を信頼して電気が流れていることを疑いません。

手紙をポストに入れるときは郵便局を信頼して手紙が必ず届くと信じています。

建物に入るときは設計者と建築業者に信頼します。そうでないとビルに入れません。

薬局で薬を買うときはその薬は体に毒でなく良い効果があると信じて買います。

 

このように毎日の生活でこのような基本的信頼がないと生活ができません。

 

信頼の対象が神様である時、それを信仰と言いますが毎日の生活と違うことは神様は見ることが出来ないと言うことです。

パウロはこう信仰を次のように定義しました。

ヘブライ人への手紙111 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。

 

今日はこの御言葉を中心に考えましょう。

 

まず1節前半「信仰とは、望んでいる事柄を確信する」ことです。

キリスト者は神の愛と力と約束を信じ信頼します。例えばキリスト者は永遠の命の希望が与えられていますが今はそれは見ることが出来ないので希望と言います。

 

主イエスは言われました、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。(ヨハネによる福音書 1413)」と。

 

約束された事柄を望んでいるなら、その約束は真実な神の御子の約束ですから私たちは確信できます。

主を信じる者はこの世が終わると神の力によって愛する主の御許で永遠に主の大きな恵みと祝福を楽しむことができます。信仰によってこの不動の確信を持つことが出来ます。

 

【ロマ法王ヨハネス・パウロ】

ロマ法王ヨハネス・パウロは8 5歳で召されましたがこの世の生活は病気ばかりで楽なことはありませんでした。しかし彼はいつも変わらず最後まで立派に職務を遂行し大きな平安をもって死に直面する姿をマスメディアから見ました。なぜなら彼は自分の苦難より周りに思いやりを持って配慮しました。なぜなら神の約束を信じ永遠の命を確信していたからです。

彼には死は天国の入口との確信がありました。法王は確信をもって平安と歓びをもって召されました。彼は比喩的な猫車に乗ってナイヤガラの滝をわたりました。それこそが信仰です。

 

【ハドソン・テラー宣教師】

私たちは神に祈るとき望んでいることを確信すべきです。

1854年、ハドソン・テラーは22歳で中国に宣教するため帆船で5か月半の過酷な船旅を余儀なくされました。ある時は風がなく船は全く進みません。食人種のいる島に近かったので、船長はテーラー先生に神の助けを祈ってくれるよう頼みました。テーラー先生は船長に「まず帆を上げて下さい。そうでないと祈りません」と言いました。船長は「風もないのに帆を張るのは自分が笑いものにされる」と初めは従いませんでしたが、しぶしぶテーラー先生の言う通りにしました。テーラー先生が一人部屋で祈りました。

しばらくして急ぎ足で船長がやってきて「テーラー先生、まだ風のために祈ってますか。どうか祈りをやめてください」と頼みました。風が激しく吹いて、これ以上吹かれると危険だと恐れたのです。

 

祈りをする者はすでに叶えられたと信じなさいとの主の教えにテーラー先生は従った。テーラー先生は「信仰とは、望んでいる事柄を確信」すると言う信仰をもって比喩的ナイアガラ滝の上の猫車に乗りました。

 

【神の見えない事実】

使徒パウロの信仰の定義の後半に行きます。1節後半「・・見えない事実を確認することです」について

人は五感で何かを見なかったら存在しないと思うのですが、それは大きな傲慢です。私たちの五感は全てではありません。

神は霊でありますので五感では見ることはできません。しかし信仰によって神を実感できます。

 

神様は必要な時に必要なものを与えて下さると信じると、神のご存在を確認することが出来ます。あるときは苦しみの中で平安が与えられて自分が災いから守られると神様の存在が分かり祈りが応えられた時も神様の存在を確認できます。

 

【長女セーラ】

数か月まえ、長女セーラが深刻な病気の宣言を受け、私たち両親はショックと悲しみを覚えました。しかしセーラは病気を前向きにとらえました。高校1年生のときに信仰告白し、この難しい悩みの時だからこそ、神様に繋がっていることを感謝しました。周りの人々の祈りに支えられていることも大変感謝し神の大きな愛に気付かされました。彼女は病気で自分の世界観が変ったと言いました。神は娘を主の証人として生かせてくださいました。

 

人生にはいろんなことが起こります。他の人に起こることは当然自分にも起こります。

私たちキリスト者は逆境のときも一人でなく主なる神が共に居てくださいます。娘は今後どうなるかもわかりません、その長い道を主が共に居てくださいます。

 

信仰によって五感で見えない神の御臨在も確かめられました。信仰は見えない神の事実を確認することです。

 

 

【信仰がなければ、神に喜ばれることはできません】

今日の御言葉の続きに次のように記されています。

 

ヘブライ人への手紙11章「6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。

 

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」とあります。神は何故私たちの信仰を喜ばれるのでしょうか。神は人の両親のように子供の信頼を求めて親しい交わりを喜ばれます。交わりの条件は信頼と信仰です。信仰がなければ神に喜ばれることは出来ません。私たちの信仰は未熟であっても心から信仰を豊かに望むなら愛である神は私たちを助けてくださいます。

 

信仰は神様の賜物ですが、その賜物を望む必要があります。「わたしたちは信じます。けれども信仰のない私たちをお助け下さい」は私たちの祈りになります。

 

愛する兄弟姉妹「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。(おわり)

 

2013年02月04日

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