2012年4月15日「子どものようにさせられて」片桐耕治神学生説教奉仕

2012年4月15日片桐耕治神学生説教奉仕;

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マタイによる福音書17章24 彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。
25 ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。
26 ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。
27 しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。
18章1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。


説教要約「子どものようにさせられて」 2012.4.15.片桐耕治神学生            
聖書:マタイ17:24~18: 5

天の国で誰が一番偉いのか
【神殿税を納めることについての議論】
弟子たちの中で、「天の国で誰が一番偉いのか」という議論になりました。
私たちの国でも、税金をたくさん納める人は、国にとって大切な人であります。2005年までは「高額納税者」を公表する制度がありました。もうその制度はなくなりましたが、高額納税者を公表することは、たくさんの税金を納めてくれる人ですので、国にとってはありがたい存在で、その人に対して「ありがとう」という意味もあったそうです。しかし、新聞やテレビでこの「高額納税者」を見る時、長者番付としてテレビを賑わし、国が「ありがとう」と言うより、誰がたくさん税金を払っているのか、つまり誰がどのくらいたくさん稼いでいるのかが気になってしまうところであります。

誰が一番偉いのか
誰が一番偉いのか? そのには、当然自分もその会社組織の中にいますので、自分はどの位置にいるのか?自分は周りの人と比べて出世が早いのか遅いのか、その思いは、自分の所得は多いのか少ないのか、そういった問いにもつながります。無意識的に比較してしまうわけです。この比較というのも、ともすれば、自分が周りの人と比べて、上から見たいそういった思いから、比較し、また上から見たいがために周りの人と競争するのであります。

18章1節の"その時"
18章1節を見ますと、「いったい誰が、天の国でいちばん偉いのですか」という問いがあります。弟子たちは、それまで税金を納めることについて話し合っていましたので、いろいろな思いがあったでしょう。イエス様につき従っている私たちの間で誰が偉いのか?誰が一番天国で神様に近いのか?
弟子たちの思いでは「私はあの弟子より偉いぞ」とか「あの弟子よりいっぱい働いているぞ」とか「私はたくさん頑張っている」「私が一番だと認められたい」「わたしはあの弟子より上なのか下の弟子なのか」などいろいろな気持ちがあったでしょう?

しかしイエス様の答えは、弟子たちの思いとは全く違う答えでした。まるで「質問に答えていない」と言いたくなってしまうような答え方です。
子どものようにならなければ、というイエスの答え
「心を入れ替えて子供のようにならなければ決して天の国に入ることはできない」
心を入れ替えて...「心の向きを変えて」とも訳せる言葉で書いてある、この言葉、今まで思っていたその、そんな誰より上なのか、誰が一番上なのか気になってしまう心の向きを変えなさい。その心を入れ替えなさいと イエス様は言われたのであります。
子どものようになる、ここでは税金を払わなくても良いと言われているので、「その集団の中では大切でない者」と考えられるような存在、小さい存在・無価値な存在と言えるようです。そういった小さい存在になる。それが大切だと言われるのです。
弟子たちが考えていたことは、自分を大きくする、または大きく見せるそういったことでした。弟子たちはこのあとも、誰が一番偉いのかというこの問題について何度も議論をするのでありますが(マタイ2017-21、ルカ2224)、その心を入れ替えて小さいものになる。そうでなければ、天国に入ることはできないと イエス様は言われたのでした。

私たちの生活の実際(他人との比較・自分が全てである)と、それに対する聖書の言葉
これには私達が生活していく上でとても大切なことを示していると言って良いでしょう。私たちが生きている世の中で、どの人が価値があるかを気にするのであります。能力の高い人、たくさんのことが出来る人、こういったことばかりを大切にするあまりに、能力のない人、自分で生活することが出来ない人、そういった人を無視するまたは、排除しようとしてしまうのです。障碍者に対する政策などもそうでした。

 聖書の御言葉はこれに対してから反対するのであります。どんなに能力がないように見えてしまう人も、(この能力が無いように見えてしまうというのも、結局は人間の発想でありますが)、どんな人も神の家族の一員であり、神様の造られた人間なのであります。
イザヤ書43章4には皆さんご存知の「わたしの目にあなたは値高く、貴く、私はあなたを愛し...」といった言葉があります。私たちは、神様に愛されて神の家族の一員とされているわけです。

 人間の目、これは罪ある人間の目と言えるでしょう、人間の目には大切には見えない存在の人に仕えることが大切なのであります。しかし、私たちはすぐに自分より、弱い者、自分より低いものを探す、または探して排除しようとする、そういった人間であることも事実なのであります。弱い者を排除するのではなく、その人の下になって仕えなさい。と聖書は教えるのであります。

自分を低くして子供のようになる
18章4節には「自分を低くして、子どものようになる」と聖書には書かれています。「自分を低くする」とは、謙遜な状態を表しています。相手を大切にして敬うのであります。「相手を敬う」この態度がある所では、誰が一番偉いのか?という問いからも解放されるのであります。

小さき者とは
この「小さい者」と言われる者のうち最も小さい者とはいったい誰でしょうか?
それは、この教えを約2000年前に話されたイエス様です。このイエス様は、もっとも小さい者として、地上を歩かれました。生まれた時には、宿もなく、動物の餌を入れて置くための飼い葉桶に寝かされました。時に殺そうと計画されました。弟子たちにも裏切られました。(マタイ2656)時に顔に唾を吐きかけられました。こぶしで殴られました。平手で打たれました(マタイ2666)。棒で叩かれました(マタイ2731)。 自分は犯してもいない罪状をつけられそして十字架につけられて死という状態までに小さくなられました。
そのような最も小さい姿になられたのです。

 私たちは自分自身でこの小さい姿になる、つまり謙遜になることはできません。自分の姿を小さくすることはできません。しかし、イエス様はこの私たちの罪の姿のために、十字架に付けられて私たちの代わりに死んでくださいました。このイエス様を受け入れ、私には力が無いと認め、ひたすら神により頼むときに、神様はそれを喜ばれ、天の国に入れられるのです。

 私たちはすでに、信仰者として神により頼むことを始めています。イエス様につき従うことを始めています。子供のように神様に近づくことを始めています。神様に自分自身を明け渡すことを始めています。神様はその私たちを喜んでいてくださいます。神様の憐れみにより、謙遜さを身に着けていくことが赦されるのであります。

片桐耕治神学生プロフィール
信仰歴:1977年9月16日生まれ。同年12月25日岐阜加納教会にて幼児洗礼。1993年12月19日同教会にて小峯明牧師の司式にて信仰告白。
2002年12月22日 日本キリスト改革派高蔵寺教会に転会。2005年執事任職。
2011年4月1日 神戸改革派神学校入学。
学歴:1996年3月岐阜県立岐阜北高等学校卒業。2002年3月愛知県立看護大学卒業。
職歴:2002年4月愛知県東加茂郡旭町役場就職。2005年4月愛知県豊田市役所就職。2009年3月同市役所退職。
家族:2009年6月13日妻奈々姉と結婚。長男 大地君2歳0ヶ月、次男 潤君 0ケ月

2012年04月16日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

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