「光の中を歩く」伊丹教会長老 城下忠司 2011.9.25.

聖書:ヨハネの手紙Ⅰ・15節~10

 

◆神は光

        5:わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。

6:わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。

7:しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。

8:自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。

9:自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。

10:罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。

 

【はじめに:光と闇について理解する】

聖書は、私たちに、多くの箇所で比喩を使って、分かりやすく、神さまのみ心を伝えてくれます。今日のみ言葉で語られる光と闇という言葉の意味も良く分かる言葉となっていると思います。ヨハネは光と闇とを比較してその深い、内側に隠された意味を教えてくれます。

初めに、光と闇について、私たちの感覚で比較して見てみましょう。今の時代、都市に住む人たちは、真っ暗闇というものを経験することはできません。田舎でも今は光の無い場所は中々見当たりません。人気の無い山の奥に入り込まなくては星の観測は出来ない時代です。真っ暗闇の不安、恐ろしさを経験することも出来ないと思います。

 

【かつて私の経験したこと】

かつて私の経験したことですが、弟と二人で旅行から田舎に帰る途中のことです。鉄道も無く、バスの回数も少ない時代でした。そのバスの終点から家までは30キロあまりありましたが、二人とも高校生でしたので、歩いて帰ることになりました。どんなに暗くても星の光さえあれば、なんとか進んでいけるものです。しかし、その日はあいにく曇り空で、日暮れてからは全く何も見えなくなってしまいました。文字どおり真っ暗闇となり、道は狭くそのうえ、片側は小さな川が音も無く流れているという環境でした。一旦歩き出した二人です。這いつくばるようにしてほんとうに手探り状態で歩き続けました。30分程歩いた時でしょうか、前方にかすかな明かりが見え、近づいてみると農家の灯りであることが分った時のその安堵感、その喜びは忘れられません。幸い、その農家に泊めてもらって翌朝のバスに乗って帰ったという経験を思い出します。闇についての恐ろしさの経験でした。

【聖書の教える光と闇について】

光は人類の初めから生きるために必要でした。人々は光を神さまとして崇めることは世界中で見られるものです。暗闇の恐ろしさについては悪魔のいる国などと考えられていましたし、太陽を日本ではお日様といって敬い、日の出に向かって手を合わせて拝むことは、今でも残っています。

神さまが光であるという表現は聖書の中にも沢山見られます。

創世記1章の3節では、初めに神さまが光をお造りになったと語ります。『神は言われた。「光あれ」こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇をわけ--------

ヨブ12:25『光も無くかれらは闇に手探りし、酔いしれたかのように、さまよう。』

ハバクク3:4『威光の輝きは日の光のようであり、そのきらめきは御手から射し出る。御力はそのなかに隠されている。』

詩篇104:2『光を衣として身を被っておられる。天を幕のように張り、』

詩篇27:1『主は私の光、私の救い、わたしは誰を恐れよう。主は私の命、砦、わたしは誰の前におののくことがあろう。』

コヘレト2:13『私の見たところでは、光が闇にまさるように、知恵はおろかさにまさる。』

 

また、闇についてのみ言葉も沢山あります。

ヨブ10:21『暗黒の闇の国に---

詩篇18:29『わたしの闇を照らしてくださる。』

 

そして、新約聖書では

ヨハネによる福音書1:4,5『命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。9節その光は真の光で世に来てすべての人を照らすのである。』

Ⅱコリント4:6『闇から光が輝きでよ』と命じられた神はわたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。

黙示22:5『もはや夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。』

 

【光なる神】

神さまが光そのものであるということは、私たちに様々なことを考えさせてくれます。命の源であるということ、すべての物が神さまに依存していること、また、知識や知恵も神さまから来るということ、何よりも総てのものは神さまの目に明らかであること、また、何よりも神さまは総てのものの造り主であることを、私たちに教えてくださいます。

 

【暗闇について】

さて、暗闇について、もっと深く考えてみますと、暗闇には、恐れや不安、さらには罪悪といった道徳的なこと、さらには死というものが匂ってきます。

 

【命の光】

一方、光は、命の光と記されているように、神さまから豊かな祝福の命、永遠の命まで与えられていることを教えています。

 

【恐ろしい光】

また、別な見方もあり、光は旧約聖書では焼き尽くす火、裁きの火として、人々に示されることがあります。出エジプト記にでてくるモ-セは神さまを直接見ることはできませんでした。

 

私たちの世界でも強烈な光は、目をくらし、直接に見ることの出来ない、恐ろしい光として現れることもあります。『その日、多くの人が光を見た。その光を間じかに見て、生き延びた人はまれだった。』この言葉は、広島の原子爆弾の光のことを表現した言葉です。

 

【私たちが自分の罪を言い表して、光の中を歩くなら、何が私たちを待っているのでしょうか】

7節で『互いに交わりを持っている』と語ります。罪を言い表して、光の中を歩くなら、御子イエスさまの十字架の血潮によって、あらゆる悪から、不義から清められて、罪を許されて、歩むことのできる教会の交わりに入れられているのだ、と言うのです。毎週もたれる礼拝は神さまと、兄弟姉妹との愛に満ちた交わりとして、いただいたものです。

 

【闇の世界よりの解放】

私たちは、かつては、この世を支配するもの、闇を支配するものの霊に誘われて過ちを犯していたものです。しかし、イエス様の愛は私たちを死から新しい命を生きる者に変えてくださったのです。イエスさまを信じる者が、互いに愛の交わりを与えられている、ということなのです。イエスさまが死者の中から復活され、一人一人に愛が与えられているということなのです。この教会の交わりはこの世のどのような人間同士の交わりとは全く異なるものです。サ-クルや趣味の同じ者同士の集まりではなく、あるいは血縁的な肉親とのつながりでもなく、それらを超えた、イエスさまを中心にして、生き生きとした豊かな愛と喜びの交わりが生まれていくのです。

ヨハネはこの手紙を書く目的を、『わたしたちの救いの喜び、この喜びが満ち溢れるようになるため』であると、キリスト者のすばらしさを記しています。また、ヨハネの手紙Ⅱの5節に『さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めから私たちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです。』とも記されています。

 

私たちは罪を言い表し、信仰によって神さまから救いをいただきました。しかし、洗礼を受けた後でも、なお罪のなかに捉われる者でありますから、絶えずイエス様によって清められ続ける必要があります。私たちがイエスさまの光の中を歩く時に気付かされることがあるように思います。心の中の全てが明らかにされます。残り続ける罪、罪の残滓は神さまの愛によってしか許されるすべはありません。ヨハネはイエスさまと交わりを持つことであり、兄弟姉妹との交わりにおいて、互いに許しあって生きることを教えてくれます。相手を許さない、相手を自分より尊ぶことがない限り、わたしたちはこの世の人と何ら変わることが無く、実際、光の中を歩んでいることにはならないのです。許しも慰めもない交わりは悲しい交わりです。わたしたちはこの世の交わりとは異なる、祝福された信仰の交わりに入れられていることを感謝します。

 

闇の中を歩くと言うこと

私たちが神さまとの交わりをもつていると言いながら、自分には罪がない、罪を犯したことが無いと言い、闇の中を歩いているようならば、それは自分に嘘をついていることになります。それはまた、神さまを偽り者とするのであり、従って、神さまの言葉は私たちのうちにはありません。さらに、私たちが真理を行っていないことを現しています。罪を隠し、あるいは罪を感じない者は闇の中を歩いている者とはっきり語ります。この闇の中を歩き続けると言うことは、真理は私たちのうちには無いし、真理を持つことが出来ません。

また、闇の中を歩くと言うことは、肉に従って歩くと言うことです。目に見えない心の中だけではなく、言葉や行い全てに罪の暗闇に覆われていることを意味します。その人は聖なる教会生活の交わりを避け、真の教会の交わりに入ることも出来ないのです。

 

3章の20節には「『そして、その行いが明るみに出されるのをおそれて、光にこようとはしない』と語られています。教会の初めの頃から、誤った考えの人たちは沢山出てきました。たとえば、「肉体は魂を宿す単なる器に過ぎない。肉体がどんな行動をとっても魂は何の影響も受けない。神との交わりは肉体的行為や道徳的性とは無関係に存在する。」と言う考えがありました。

 

しかし、聖書は人間全体が神さまから尊いものとして作られたことを教えています。ヤコブの手紙の214節を見ますと、次のように記しています。『私の兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着るものがなく、その日の食物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら信仰はそれだけでは死んだものです。----ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役にたたないということを知りたいのか、----人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。----魂の無い肉体が死んだものであるように、行いの伴わない信仰は死んだものです。」

 

数年前に亡くなった池田晶子さんという哲学者が若者の姿を次のように紹介しています。

「若者たちの心の闇とよく言われますが、むしろ逆で、彼らには闇がなくなってしまつたのです。死は生きるための最大の気付きなのですが、闇が無いから光にも気付かない-------

死ぬことを考えてみれば、生きることへの驚きに必ず気付くはずなのです」

 

【罪があるのに気付かない人】

若者だけではないでしょう。人は罪があるのに気付かないのです。神さまの光に気付かないのです。私たちの周りには沢山の心を動かすもの、楽しませてくれるもので満ちています。数々の感動、肉の喜び、しかし、これらの中には見せかけのもの、偽りのもの、やがて消えうせる数々のものがあります。そこに本当の光が必要なのです。そこに神の光が差し込むと真実のものが現れてきます。

 

もし、闇の中に留まるならば、おのずから光を嫌い、顔を背け、自分の居場所もわからず、自然のなかにある安らかさを求めるようにもなるのではないでしょうか。

 

【光のなかにある生活】

私たちが信仰に生きると言うことはイエスさまの福音の真理を知り、納得したということに留まるものではありません。日曜日ごとに礼拝を通して、豊かな交わりに加えられて、罪を知らされ、怖れや暗闇をきれいに取り払っていただき、天国の前味である平安と喜びが与えられるのであります。さて、多くの周りの人々は、教会に行くといつも私たちを罪人扱いする、と言います。彼らは闇の中、神さまのいない場所を歩いているから、自分は正しい、罪なんか犯したことは無い、と思っています。

 

私たちの喜びが教会のなかに満ちるとき、み言葉に聞き従う時、おのずから周りの人々も私たちに注目するのではないでしょうか。ある牧師はこんな言葉を語っています。『私たちの心には未だに多くの闇があります。そして、それ故に、私たちはこの世界にも同じくらい多くの闇があるように思っています。しかし、光があるならばそれら全ての闇は退けられ、追い出されてしまっているのです。影は慌てふためきながら逃げ去っていきます。そして、地上の生は光の中の祝祭となるのです。それこそが信仰における生活です。』と。

 

私たちはイエスさまご自身が光であることを知っています。イエスさまの中に私たちを喜ばせる沢山の宝があることを知っています。これは信仰生活の全てにある宝です。この宝は永遠の宝であります。                   

 

【まことの光の中を歩く】

最後に私は次のような言葉を見つけましたので紹介します。

『光について本来的な事柄が理解されうるのは、イエスが同時代に「わたしに従うものは暗闇の中を歩かない。」とかたられたことを思い巡らす時です。そこで重要なのは、私たちが歩くということです!時の中を移動しているのです!そして、歩くことが出来、道を見出すことが出来、歩いているうちに石にぶつかったり、躓いたりすることが決してない、ということです!それは光が在る時のみかのうなのです。それ故に、イエスは特に言われたのです。「わたしが世の光である」と、彼のおかげで我々は時の中に道を見出すことができるのです。』

 

私たちは清くされる道をイエス様に導かれながら、救いの完成に向かって歩いています。イエスさまの十字架の血潮によって、信仰生活すべてに渉って、私たちは悔い改めの心がおこされて、歩むことができます。真の光、光の中の光であるイエスさまは闇を滅ぼし、全ての人に救いをもたらして下さるお方であります。この一週間もイエスさのという真の光の中を歩いて行くことができますよう、お祈りいたします。

 

【おいのり】

十字架の上で神さまの救いを成し遂げてくださった私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、御名を賛美いたします。礼拝をとおしてあなたの御心を与え続けてくださいます恵みを感謝いたします。イエスさまの光に照らされ、今日も良き交わりに加えていただき感謝いたします。私たちはあなたによって選ばれ、救い出されました。それゆえに、私たちもまた、福音をこの地で語る特権に与っている者です。建物が与えられ、いよいよ教会として整えられて、この群れが光り輝くものとならせてください。モ-ア先生のお働きをお守りください。アン夫人の賜物も尊くお導きください。

信者とその御家庭の上に、求道者のうえに、この地の多くの神さまの民を起こし、豊かな導きをお祈りいたします。この一週間一人一人に信仰の歩みを豊かにお与えください。

われらの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アアメン(おわり)

2011年09月25日 | カテゴリー: ヨハネの手紙一 , 新約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/559