「御言葉を実践する人」ウイリアム・モーア2011.7.17.

聖書;ヤコブの手紙1章19−27

 

【説教は済みましたが、まだ行われていません】

ある男の人が礼拝の為に結構遅く教会に入り、案内係にこう聞きました。「説教はもう行われましたか。」そうすると、案内係は賢明にこう返事しました。「今日の説教はもう済みましたけれども、まだ行われていません。」それはとても良い答えだと思います。神の御言葉の解き明かしを聞く事は大事ですが、毎日の生活に於いて御言葉を実践する事もとても重要であります。つまり、御言葉は私達の行動を通して行うものです。

 

【ヤコブ】

今日の個所はヤコブの手紙の一部です。ヤコブと言う人物は主イエス・キリストの弟であり、エルサレムに於ける教会のリーダーでした。そして、ヤコブは自分の手紙に信者達の霊的な成長を強調しました。すなわち、イエス様の教えを実践する事によっての霊的な成長を教えたのです。

 

【聞くに早く、話すに遅く、怒るに遅くあれ】

言うまでもなく、御言葉を行う為に私達は先ず御言葉を素直に聞いて、受け入れなければなりません。今日与えられた個所の19節から21節をもう一度読ませて頂きます。

ヤコブの手紙1:19を見て下さい。

「私の愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。だから、あらゆる汚れや、あふれる程の

悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉はあなたがたの魂を救う事が出来ます。」

 

「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」愛する兄弟姉妹、それは私達にはとても良いアドバイスです。人間同士の間は勿論、神様との交わりの為にも、それは必要な態度ではないかと思います。特に、神の御言葉を受け入れる為にまずそれを素直に聞かなければなりません。しかしながら、「 聞くのに遅く、話すのに早い、また怒るのに早い」事は多くの場合、私達の姿ではないでしょうか。

 

それは私達の生まれながらの自己中心的状態ですが、そうすると、この世では神の御言葉を行う事どころか、主の御言葉を聞く事も難しいです。なぜなら、自己中心的態度と「怒りは神の義を実現しないからです。」

 

 

【主イエス•キリストの怒り】

主イエス•キリストはこの世を歩んだ間にたまに怒りました。しかし、その怒りは御自分の為ではなかったのです。例えば、侮辱されても怒りませんでした。迫害されて怒らなかったのです。十字架に掛けれて言い尽くせない程の拷問を受けた時さえも怒りませんでした。

 

その反面、主は立場の弱い人に対する不正と、宗教の指導者達の偽善と、不正に儲ける為に神殿で売買する商人を見ると怒りました。それは自己中心的ではなく、また御自分の為でもなく、それは正義的な憤慨でした。それは赦されています。ある場合は必要です。

 

しかし、この個所に於ける「人の怒り」は自己中心的ものです。自分を守る為の怒りと人を潰(つぶ)す武器のような怒りは赦されていません。 そのような「人の怒りは神の義を実現しないからです。」つまり、そのような怒りは神の国には何も役に立たず、却って、その怒りは自己中心的な罪であります。

 

更に私達は21節にこう教えられています。「あらゆる汚れや、あふれる程の悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉はあなたがたの魂を救う事が出来ます。」神の助けで、私達は自分の恨(うら)みや、妬(ねた)みや、心の痛みや、自分の全ての罪などを処分する為に、主イエス•キリストの御元に置いて、これから御言葉中心的に生きる決心を現すべきです。そこにのみ永遠の救いと、平安と、人生の誠の意味と生き甲斐があります。

 

我々キリスト者は聖書に於ける神の御言葉の最高の権限(けんげん)を認めます。そして、神の助けと力で、私達は毎日の歩みに於いて御言葉の教えを行います。それは22節の意味です。「御言葉を行う人になりまさい。自分を欺(あざむ)いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と記されています。いくら素晴らしい教えであっても、自分の生活に実践しないと、自分にも、相手にも、神の御国の発展の為にも何も役に立ちません。ただ勉強の為の勉強です。

 

恐らく、主イエス•キリストの中心的な教えは愛の掟です。ある日、ユダヤ人の律法学者が主にやって来てこのように尋ねました。「『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』イエスはお答えになった。『第一の起きては、これである。『イスラエルよ、聞け、私達の神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。』」(マルコによる福音書12章28−31)

 

 

愛する兄弟姉妹、私達は毎朝起きるとこの愛の掟を覚えるべきです。そして、神の助けを祈りながら、一日中、掟を行う機会を探し、具体的に行います。自己中心的な自分を捨て、神を愛する事と隣人を愛する事に集中します。そうしますと、人生が変わるのです。自分を捨てると、自由になり、神の人として人間らしく目的を得られます。そうすると、神に支えられ、嵐の中にいても主から平安を頂きます。神の御言葉を行う事は大きな恵みが伴います。

 

【御言葉を聞くだけで行わない者】

その反面、「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれ付きの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます」と23と24節に記されています。

        

御言葉を聞くだけの者は、聞く間、ある程度自分の目的と、神の前の自分の姿と、神の子として自分が為すべき事を見られます。しかしながら、この世に出て行って、御言葉を行わずにいると、キリスト者として自分の姿をすぐに忘れてしまいます。この世の人々と同じように行動するからです。しかし、御言葉に従って毎日生きると、その御言葉は自分のものになり、忘れられません。

 

【外国語を習得するには】

外国語を習うのも同じ事です。教室で一生懸命に分からない言葉を勉強します。単語と文法を暗記して全ての宿題をします。しかしながら、教室から出て行って、その外国語を外国人と使わないと、なかなか身につきません。そして、学校を卒業すると、ある程度の単語の意味を覚えても、その単語の使い方がさっぱり分からず、外国人と自由に話す事はちょっと無理です。つまり、実行しないと自分のものになりません。逆に、積極的に習ったものを生かしたら、なかなか忘れられません。25節に記された通りです。「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」

 

はやり、御言葉に正しく導かれた人は幸せです。この世で毎日、協力者として神の働きに参加出来る特権が与えられています。また、神の御言葉の行いを集中する者は、神と隣人に対する犯した罪が少なくなるはずです。

 

【具体的な行い】

最後に、ヤコブは御言葉を行う具体的な例をあげます。一つは消極的と、もう一つは積極的です。26節から朗読します。「自分は信心深い者だと思っても、舌を制する事が出来ず、自分の心を欺(あざむ)くならば、そのような人の信心は無意味です。みなしごや、やもめが困っている時に世話をし、世の汚れに染(そ)まらないように自分を守る事、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」

 

【舌を制する】

恐らく、舌を制する事は何よりも難しいです。特に、私達は怒ると、舌の監督が困難です。ですから今日の個所の19節にヤコブはこう書きました。「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」更に箴言にこう記されています。「口数が多ければ罪は避けえない。唇を制すれば、成功する。」人の罪を数えると、一番多いのは唇と関わりがあると思います。言ってはいけない事をしゃべる事と、話すべき事を言はない事もあります。ですから、御言葉を行おうとすると、特に舌をコントロール必要があります。

 

【弱い立場の人の世話をする】

そして、御言葉を実践する私達は弱い立場の人の世話をするべきだと記されています。「みなしごや、やもめが困っている時に世話を」すると、私達は御言葉を行います。その時こそ、私達は隣人を自分のように愛します。神はそのような信仰を高く評価し、認めます。

 

【世の汚れに染らぬよう自分を守る】

終わりにヤコブはこのように私達を教えます。 世の汚れに染(そ)まらないように自分を守る事、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」

 

言うまでもなく、この世の影響と誘惑がとても多いです。しかし、毎日の生活に於いて、神の御言葉とその行いに集中すると、この世の汚れに染まる暇がないはずです。

 

愛する兄弟姉妹、何よりも神の御言葉を行う人になりましょう。聞くだけで終わる者になってはいけません。

これで、今日の説教は済みますけれども、まだ行われていません。(おわり)

 

2011年07月17日 | カテゴリー: ヤコブの手紙 , 新約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/551