「復活した主を見た」大西良嗣・滋賀摂理教会牧師2011.6.19

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聖書:ヨハネ20章11~18

【はじめまして】

おはようございます。滋賀摂理伝道所から参りました大西良嗣と申します。

本日は、関西地区伝道協議会内の講壇交換ということで、めったにない機会を与えられて、西谷伝道所の礼拝で奉仕をさせていただけることになり、感謝をしております。神学生時代には、毎年、近藤長老に健康診断をしていただいて、お世話になりましたが、西谷伝道所の礼拝に出席させていただくのは初めてです。少し前までは、西谷集会所と呼んでいたと思いますが、少し前に伝道所となられましたね(中会に伝道所開設の届が出された時、わたしはその時、中会の副書記をしておりましたので、中会議場で挨拶された方々のお名前を書き留めたことを憶えております。)そして、今は会堂を取得することに取り組んでいらっしゃるということをうかがっておりまして、ぜひ訪れてみたいと願っておりました。

 

マグダラのマリアに起こった変化

ともに御言葉から教えられたいと思います。

今日の個所では、マグダラのマリアという一人の女性に起こった変化に、特に注目をして読んで行きたいと思います。

この変化は、いわば「信仰的な」変化です。その変化は、復活されたイエス・キリストとの関わりの中で起こりました。

 

マリアとイエス・キリストとの関わりをたどることで、この「信仰的な変化」が私たち一人一人にも起こる可能性があること、この「信仰的な変化」が自分自身にも与えられている希望であることを確かめたいと願っています。

 

 

 

【悲しみの中にあるマリア】

マリアは、イエス様が葬られた墓の外に立って泣いています。

「マグダラのマリア」と呼ばれるマリアです。イエス様が十字架にかけられ、死なれたので、墓に葬られました。そして、三日目の朝(日曜日の朝)に、イエス様の墓へ行ってみると、墓の入口をふさいでいた石が取りのけられ、イエス様の遺体が無くなっていました。

マリアは、イエス様が十字架につけられて死なれたことだけで、大きなショックを受けていたことでしょう。心から尊敬し、愛し、慕っていた人を失うことは、大きな悲しみです。それだけでも、立ち直ることができないほどに、心に大きな負担がかかります。

 

しかも、その方の遺体が、何者かによって取り去られてしまいました(少なくともマリアは、そう思っていました)。ですから、さらに大きな戸惑い、悲しみに襲われていたに違いありません。「何ということか?いったい何が起こってしまったのか?こんなことがあって良いのだろうか?」そんな戸惑い、憤りにも似た悲しみに、心が支配されてしまっていたのではないでしょうか?

マグダラのマリアは、イエス様が葬られたはずの墓まで戻って、その外に立ちすくんで、泣いていました。

 

泣きながら、イエス様が葬られた場所を、もう一度、確かめるようにして、身をかがめて、墓の中を覗き込みます。

11「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、」

 

すると通常ではありえないことが起こります。

12「イエスの遺体の置いてあったところに、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。」

 

何と墓の中に、白い衣を着た天使が座っていたのです。

しかし、マリアは、この天使たちの姿を見ても、驚いた様子がありません。

天使たちに、「婦人よ、なぜ泣いているのか」13節前半)と尋ねられても、何か特別なことが起こったと悟る様子もありません。

「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」13節後半)

ただ自分の悲しみの理由を告げるだけです。天使を目にしても、彼女は、自分の悲しみの中に留まったままです。深い悲しみ、心がえぐり取られるような傷を受けてしまった人間は、たとえ天使を目にしたとしても、すぐに心を切り替えて、希望を見出すということは、できないのかもしれません。マリアは、ただ、自分の悲しみの理由を告げるだけでした。

14節を見ますと、このように言いながら、イエス様のお姿を見たことが記されています。

14「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」

 

すっかり希望を失ってしまっているマリアは、イエス様のお姿を目にするという事態が起こっても、それがイエス様だと分かりませんでした。泣いていて、涙のために、お姿をよく見ることができなかったのかもしれません。あるいは、顔を良く見てみようという思いさえも起こらなかったのかもしれません。

いずれにしても、絶望の中にあるマリアは、イエス様のお姿を見てさえも、すぐに希望を見出すということがありませんでした。

 

15節でイエス様がマリアに語りかけられます。

「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」

イエス様の声を聞いても、イエス様が生きていらっしゃるとは夢にも思っていないのでしょう。その声を聞き分けることができませんでした。

マリアは、目の前に立っているイエス様が、イエス様であるということが分からず、その園を管理している園丁だと思って答えます。

「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」15節後半)

マリアは、イエス様を目の前にしても、なおも、イエス様が死んだままであることを前提にして話しをしています。イエス様が死んでしまったことも悲しいけれど、遺体までも失ってしまうことは、もっと悲しい。せめて遺体だけでも自分に引き取らせて欲しいと申し出ます。

 

今回の東北の震災でも、発見された遺体を、遺族の元に返すということが、重要な働きの一つとなっていました。もう、死んでしまっている体であったとしても、遺族としては、行方不明になっているよりは、近くにおいておきたい。丁寧に葬りたいという感情があるからでしょう。

宗教的な背景が違いますので、遺体に対する考え方がまったく同じというわけではないでしょうけれども、マリアにも似たような感情が働いている様子を見ることができます。イエス様の体が行方不明になっていることは、耐え難い悲しみ、苦痛であったわけです。

 

【イエス様は、呼びかけられる】

しかし、次の、イエス様の一言で、事態は一変します。

16「イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。」

マリアは、この時の出来事を、後になって、何度も何度も人々に語り伝えたのかもしれません。新約聖書はギリシア語で書かれていますが、「ラボニ」という言葉だけヘブライ語で(厳密にはアラム語でしょうが)、マリアが実際にそのときに行った言葉の通りに記録されています。マリアが、人々に語り伝える時、この「ラボニ」という言葉を印象深く語ったのではないでしょうか?臨場感あふれるように、その時の発音のままに、語り伝えられ、記録されたようです。

 

それだけ、この瞬間が特別なものであったことがわかります。

それまで、マリアは、天使の姿を見ても、イエス様の姿を見ても、悲しみの中、絶望の中に留まっていました。

「わたしの主が取り去られました」「あの方を運び去ったのなら」という具合に、イエス様のことについて語っていましたが、復活されたイエス様に出会っていませんでした。

しかし、「マリア」と声をかけられて、マリアは我に帰ります。イエス様が、生きて、そこにいらっしゃったのです。「ラボニ」(先生)と呼びかけます。

 

第三者として「あの方」ついて話をしていたところから、「マリア」「ラボニ」と呼びかけあう関係に、「わたしとあなた」という向き合った関係に変わりました。マリアは、復活されたイエス・キリストに出会いました

 

ほんの少し前には、深い悲しみのために、心が堅くなっていました。天使やイエス様を目にしてさえも、心が変化することがありませんでした。天使やイエス様に声をかけられても、悲しみに押し込められてしまった心が和らぐことがありませんでした。

しかし、イエス様から「マリア」と名前を呼ばれた瞬間に、マリアの心は驚きと喜びに満たされました。「ラボニ」と答えただけでなく、イエス様にすがりついた様子です。

 

何をもってしても、悲しみに打ちひしがれたマリアの心を変えることができないかのようでしたが、イエス様はマリアの心を瞬時に変えられました。深い悲しみの中から、喜びの光の中へと引き出されます。

復活されたイエス様は、マリアの心に、明らかな「信仰的変化」を起こされました。名前を呼ばれることによって、マリアと、「わたしとあなた」の関係を取り戻し、喜びの光の中へと入れられました。

 

【イエス様は、言葉を与えて派遣される】

イエス様は、そのような変化の起こったマリアを、そのままにしては置かれません。「「信仰的な変化」が起こってよかったね」では終わらせられません。「悲しみから喜びへと入れられてよかったね」で終わりではありません。

 

イエス様は、マリアに、言葉を与えて、マリアを遣わされます。

17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

 

マリアは、イエス様にすがりついて、もう離したくないという思いであったかもしれません。しかし、イエス様は「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われます。手を離して、わたしを父なる神様のもとへ上らせるように言われるわけです。(実は、父なる神様のもとへ、イエス様が行かれたならば、もう、イエス様から離れる必要がなくなります。聖霊なる神様が遣わされ、私たちは世の終わりまでイエス様と共にいることができるようになります。イエス様が私たちの内にいてくださり、私たちがイエス様の内にいることができるようになります。イエス様が私たちと共にいてくださる「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」とイエス様は約束してくださっています。)

 

そして、イエス様は、マリアを遣わされます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい」と遣わされます。

「わたしの兄弟」というのは、イエス様の肉体的なつながりのある兄弟のことを指すのではないことは明らかです。18節を見ますと、「わたしの兄弟たち」のところへ行くように言われたマリアが、イエス様の「弟子たち」のところへ行ったことが分かります。つまり、イエス様は、自分の弟子たちのことを「兄弟たち」と呼んでいるわけです。先生と弟子の関係ではなく、兄弟同士の関係として、弟子たちを取り扱っていらっしゃるわけです。

 

【私たちの父】

さらに、イエス様は、「わたしの父であり、あなたがたの父である方」という言い方をされています。つまり、イエス様と、イエス様に従う弟子たちは、一体となり、兄弟となっているので、父なる神様のことを、どちらも同じように「自分の父」と呼ぶことができる関係になっているのだと言われていることになります。

 

【私たちの神】

さらに「わたしの神であり、あなたがたの神である方」という言い方もなされています。イエス様と、イエス様に従う者たちが、一体となって、同じ一人の神をあがめることになります。

復活されたイエス様は、ご自分の兄弟のように親しく、御自分と一体の者として、御自分に従う弟子たちを取り扱われるのです。

 

マリアは、このような親しい関係へと招く、イエス様のメッセージを携えて、弟子たちの下へ遣わされて行きます。深い悲しみから、喜びへと移されたマリアこそが、このメッセージを携えていくのに、ふさわしい者であると、イエス様が判断されたわけです。このような信仰的な変化を経験したマリアだったからこそ、このメッセージが託されたのだと言えるでしょう。

 

18「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主が言われたことを伝えた。」

その時、マリアの顔は、どんなにか輝いていたことでしょう。「わたしは復活された主に会いました。イエス様は、わたしの名前を呼んでくださり、わたしは「ラボニ」と呼びました。主は、あなたたちを「兄弟たち」と呼んで、このようなメッセージを託されました。「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」と。あなたたちを「兄弟」とする、一体のものとする、すばらしい関係をイエス様は与えられます。それを完成するために、父であられる神様のところへ上られます!」

 

【おわりに:東北の被災地訪問】

今月の初めに、東北の被災地を訪問して参りました。津波の被害が大きかったところへ行くと、言葉を失うような光景が広がっていました。親しい人を失った人、ほとんどの財産を失った人、職業を失った人、どれほど多くの人が、そのような厳しい現実の中に置かれていることでしょうか?人生をすっかりダメにされてしまったという感覚かもしれません。加えて、原発事故による放射能の不安もあります。関西にいますと、新聞で発表されている各地の放射線量が、0.1マイクロシーベルト増えたか減ったかなど、ほとんど気になりませんが、現地にいる人たちはやはり過敏にならざるを得ない様子でした。

 

自分が実際に行動してみたり、考え方を変えてみたりすれば、事態が好転するのなら良いのですが、人間が自分の行動や考え方を変えることによって、事態が好転するとはとても思えない困難な状況が、厳然として、大きく横たわっているように感じられました。

クリスチャンとして、あるいは教会としてできることを考えてみても、あまりにも小さな力しか持ち合わせていないことを痛感せざるを得ません。

 

人間が、絶望から希望へと移ることは、そう簡単ではないことを思わされます。東北のような特別な状況でなかったとしても、私たちは日常の小さな躓きで、簡単に心をくじいてしまう弱さがあります。

どうしようもない絶望から、もし人間が逃れることができるとすれば、それは、イエス・キリストによるしかありません。しかも、第三者としてのキリストについて語るのではなく、名前を呼びかけてくださっているイエス様に、「ラボニ」イエス様と、呼びかける関係による以外にありません。

この方に「すがりつく」以外にありません。もうすでに、イエス様は、父なる神様のもとへ行かれたのですから、私たちはイエス様にすがりついて、決して離れることなく歩ませていただくことができます。

 

もし、希望を失っている人が私たちの周りにいるならば、イエス様の招きのメッセージ(イエス様が、本当に親しい関係に招こうとされていること。兄弟として、一体的な関係に。「わたしの父は、あなたの父である」「わたしの神は、あなたの神である」と宣言してくださるほどの親しい関係に招いてくださっている)、そのメッセージによって、その隣人がイエス様と出会い、イエス様の呼びかけに「ラボニ」イエス様と答える関係に入れるように手助けする。それ以外に、私たちにできることはない。あるいは、「それ以上に」私たちにできることはないように思います。イエス様は、そのために私たちを遣わされます。

 

福音が必要とされている時代に、私たちは生きています。自分たちでは、どうしようもない状況が、新しい形で姿を現しています。希望は、イエス様以外にありません。イエス様の呼びかけに応じ、イエス様の招きのメッセージを伝えたいと願います。

 

【祈り】

イエス様

 あなたが、私たち一人一人の名前を呼んでくださっていますことを感謝します。イエス様、あなたの名前を呼びます。イエス様、父なる神様のもとへ上られたあなたが、今、この場にも共にいてくださって、ありがとうございます。

 復活されたあなたの招きのメッセージを携えて、私たちも、あなたが遣わされる人のところへ遣わされて行きたいと願っています。あなたは、今週、私たちを誰のところへ遣わされるのでしょうか?私たちに、どうぞ、あなたの意図を、その場で教えてください。その人が、あなたの名を呼び、あなたと出会って、希望を得ることができるように導いてください。

 イエス様の御名によって祈ります。アーメン(おわり)

2011年06月19日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

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