「父の愛の中で」城下忠司(伊丹教会長老)2011.5.1

聖書:ヨハネの手紙Ⅰ・228節~35

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【父の涙】

私、最近歌の歌詞を、特別気にするようになりました。讃美歌についてだけではなく、この世の歌全てについてもそうです。何年か前に神戸長田教会で、岩淵まことさんという福音歌手のコンサートがありました。その折に聞いた「父の涙」という歌がとても気に入りまして、その後、この歌が大好きになって、自分でも歌えるようになりました。どんな歌詞かを紹介します。

1、心にせまる父の悲しみ

愛するひとり子を十字架につけた

人の罪は燃える火のよう

愛を知らずに今日も過ぎてゆく

「十字架からあふれ流れる泉

それは父の涙

十字架からあふれ流れる泉

それはイエスの愛」

2、父が静かに見つめていたのは

愛するひとり子の傷ついた姿

人の罪をその身に背負い

父よ彼らを赦してほしいと、(繰り返し)

 

【父なる神よ】

今日与えられた御言葉から教えられたいと思います。

天の神さまに向かって、イエスさまは語りかけたり、あるいは祈ったりする時には、いつも神さまを父と呼んでおります。山上の説教の中には、17回も神さまは父であるという言葉が用いられていると言われます。福音書の中のイエスさまの言葉をみますと、天の神さまを御自分の父であるとの言及があちらこちらに出てまいります。たとえばイエスさまがまだ子供のころのことですが、神さまを礼拝する神殿で「自分の父の家にいる」(ルカ246)と答えられています。また、十字架の上のことですが、「父よ、私の霊を御手にゆだねます。」と祈られたことが記されています。

 

【私たちの祈り】

さて、私たちについてはどうでしょうか。祈りの初めに出てくる言葉は、人によってそれぞれ異なりますが、「天のおとうさま」「天の父なる神さま」「主イエス・キリストの父なる神さま」もっと詳しくは「恵みと憐れみに富んでいらっしゃる、父なる神さま」そして最

も簡単に「父よ」「お父さま」という言葉で、いずれも、私たちの父としての神さまへの呼びかけから祈りは始めるのではないでしょうか。この初めの呼びかけは、天におられる神さまが、私の父であるという信仰によっています。父である神さまに、すべてを委ねている姿がそこにあるからです。また、私たちはイエスさまが私の心の中に居てくださるとの信仰を持っているから、天にいます神さまを「私の父」として祈ることが出来ているのです。

 

【私たちは神さまに愛された子ども】

天の父なる神さまは、私たちを神さまの子と呼んでくださるほどに愛してくださるお方です。

神さまが、私たちをどれほど愛してくださっているか、を知ることの出来る聖書の箇所があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ316)と語られているとおりです。

 

【なぜ私たちは神の子か】

私たちは今、「神の子」と呼ばれ、「神の子とせられている」その理由は、ただ一つのことに掛かっているのです。イエスさまは「おのれを低くして死に至るまで従順であられました。十字架の上で、私たちの受けるべき罰をすべて引き受け、神さまの怒りと、呪いから私たちを救い出してくださった。」と、御言葉は告げています、

 

私たちは自分の心の中で「私は神さまの子供である」と言う思いが、自然に生まれてきたのではありませんでした。あるいはまた、人に教えられて、勉強してそのことを信じたのでもありません。そして、私たちは自分では「神の子」と呼ばれるような清い、すばらしい何かを持っているわけでもありませんし、さらに、私は信仰の弱い者、怒りに値する罪人であることを自覚するものです。

 

【私たちを知らない世の人】

ひるがえって、世の人達は私たちのことを何者だと呼ぶのでしょうか。私たちが教会に行って、讃美歌を歌い、聖書を学び、神さまを礼拝していることは知っています。でも、私たちを「神の子」とは決して呼ぶことはありません。むしろ、ちょっと変わった人達であると考えているかもしれません。世の人達がキリスト者のことを知らないのは、私たちを正しく見ることができないのは当たり前でしょう。世の人達は「創造主なる神さまのことを」知らないからです。『世がわたしたちを知らないのは御父を知らないからです』1節後半に記されています。また、イエスさまは弟子たちに次のように諭されました。「はっきり言っておく、心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と。

 

【イエス・キリストによって私たちは神の子である

私たちは今「私は神の子である」とはっきりと告白できるでしょうか。また、告白して、神の子としてどのような生き方が出来るのでしょうか。

私たちは、罪を悔いては犯す、真に愚かな信仰者であります。さまざまな悪に陥りやすく、いとも簡単に罪を犯します。霊の力において全く弱い者といえます。信仰生活において、神さまの真の子供としての、栄光の姿とは、似ても似つかない哀れな姿を見出すばかりではないでしょうか。ヨハネは信者の現実の姿を見なかったのでしょうか。私たちの弱さをよくよく知ったうえで、力を込めて教えるのです。「神さまはイエスさまを通して、素晴らしい愛を私たちに注いでくださった。」と。私たちが「神の子と呼ばれるほどで、事実またそのとおりです。」と語るのです。

 

【神は愛なり】

ある説教者は、神さまの愛を次のように語っています。「私たちの悲惨や罪責にぐずぐずこだわるのではなく、自分自身を超えて十字架を---神が一切の悲惨や罪責をご自分に招き寄せ、ご自分で背負われ、そしてその重たい重荷としてになわねばならない者を一人残らず、神の愛がすべて受け止めてくださった---その十字架を、見上げることである。人間の悲惨や罪責、そして神の恵みと愛---これは互いに繋がっている所、そこにはまさにいよいよ多くの神が積み重なっている。言い換えれば、人間が全く小さく弱くなるところで、神はご自身の栄光を啓示された。強者の下にではなく、保護されている人々の下にでもなく、義人と称する人のもとにではなく、かえって神に向かって叫び声をあげる悲惨な者の罪ある人々のもとにこそ、神の愛はある。」

聖書は次のように語っています。『私たちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。』(Ⅰヨハネの手紙410)

 

私たちが今の信仰生活において、自分ばかり見て、「私は神さまの子供に相応しくないのではないか」と考えているとするならば、それは、神さまの愛を小さく、小さくしていることになります。パウロはローマ人への手紙8章の中で、「この霊こそは、私たちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証してくださいます。」と記しています。

 

私たちが神さまの子供であるということは、天国の国民であるということを意味します。天国の国民は新しく造りかえられた者たちであります。新しい命を与えられた者たちです。新しい命と言うことは、神さまの命を頂いたと考えることもできます。ですから、新規まき直しとか、疑わしいものを捨てるとか、単に罪を捨てるということではありません。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と、パウロはⅡコリント517で語っています。

 

【キリストに似る物とされる恵み】

神さまの子供とされた者は御子が清いように自らを清くして生きる

私たちが、父である神さまをより深く知ることができるのは、イエスさまを通してであります。イエスさまの中に父である神さまを見ることが出来るからであります。マタイは次のように語っています。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知るものはなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知るものはいません。」(マタイ福音書1127

 

今の私は、「神さまの子供というには、真に相応しくない者である」と思うことが多いかもしれません。でも、「今、既に神さまの子供です。」とのみ言葉は天地創造の前から、イエスさまを通して約束されている恵みであります。私たちが神さまの子供であっても、私たちは神さまのことはどれほども知っているとは言えませんし、おぼろげにしか知ることはできないかも知れませんが、パウロは「私たちは、今は鏡におぼろげに写ったものを見ている。だが、そのときには顔と顔とをあわせて見ることになる。私は、今は一部しか知らなくとも、そのときにははっきり知られているように、はっきり知ることになる。」(Ⅰコリント13:12)で語っています。

 

【イエス・キリストに倣う】

世の終わりの時にすべてが明らかになります。欠けだらけの消えそうな信者ですが、聖霊なる神さまは、私たちを栄光から栄光へと変えてくださり、遂に、全くイエスさまに似たものとしてくださると言う約束を信じて歩む者とされている幸いを思います。すべてが完成される時まで、私たちの信仰生活は、神さまの愛に答えて生きることであり、イエスさまに従って生きることであります。パウロは2:6節では次のように命じております。「神の内にいつもいるという人は、イエスが歩まれたように、自分も歩まねばなりません。」と。

 

完全に聖なる者

私たちの人生は目的のある人生です。神さまに愛されている子供として、どう生きるかの責任が与えられていると言うことが出来ます。私たちが罪無きお方イエスさまに似る者となれるように、約束の日に向かって、信仰生活を送りたいと願う者です。Ⅱコリント7:1でパウロは次のように勧めています。「愛する人たち、私たちはこのような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」父なる神さまの愛の中でだけ、私たちはバウロのこの勧めを受け取ることができるということを覚えたいと思います。

 

【祈り】

天の父なる神さま、尊い御名を讃美いたします。

私たちは先週、主の復活をお祝いするイ-スタ-礼拝を守ることができて感謝いたします。教会においては、今は全てを理解することはできませんが、確かに天国の味わいをいただいております。どんなに大きな試練が与えられても、失望に終わることなく、あなたの愛の確かさを信じることができ、慰められ励まされ、私たちに与えられる天国への希望を抱くことが出来る幸いを感謝いたします。

今、会堂が与えられようとしています。このことは神さまの恵みであります。御心にかなった西谷教会を建て上げるために、さらに大きな導きとお守りをお願いいたします。人は計画を立てますが、それを実行してくださるのは神さまです。御心にかなって全てを進めて行くことができますように豊かな恵みをお祈りいたします。

また、今大きな災害にあって苦しみ、涙を流し、不安の中にある多くの人々の上に、神さまのお守りをお祈りいたします。世界を支配し、いまも愛をもって導いておられる神様を教会を通して信じる者を興してください。この地の神さまの民を教会へ導いてください。

-ア先生の旅行をお守りください。会員一人一人をこの週もお守りください。その家族の方々を憐れみ、その上に信仰をお与えください。主イエス・キリスト御名によってお祈りいたします。ア-メン(おわり)

2011年05月01日 | カテゴリー: ヨハネの手紙一 , 新約聖書

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