「神からの義」ウイリアム・モーア2011.4.3

聖書;ローマの信徒への手紙1章16−17

 

【受難節】

私たちの受難節の旅路が大分進んで参りました。後2週間で受難週に入り、そして24日のイースターに私たちは大きな喜びをもって主イエス・キリストの復活を全世界のキリスト教会と共に祝います。

             

今の受難節に私たちには必要な心の準備の機会が与えられています。すなわち、自分にとって主イエスの十字架の死の意味を新たに覚え、また、唯一の救いの恵みをより深く経験します。言うまでもなく、主イエスの十字架の意味が十分に悟れないと、イースターの蘇りの喜びは不完全なものになります。ですから、今日御一緒にキリストの福音の根本的になる事についてもう一度学びたいと思います。

 

その目的を果たす為に今日与えられた御言葉はとても相応しいです。ローマの信徒への手紙は聖書の中でどこよりも神の福音と我々の信仰の内容をきちんと説明します。使徒パウロは大昔この手紙をローマにある教会に書きましたが、神の聖霊の導きによりそのメセージは全世界の教会の為の大事な御言葉になり、キリストに従う者私たちにも欠かさないお便りになりました。

 

【ローマの信徒への手紙1章14−15】

パウロはローマの教会を訪ねた事はまだなかったけれども、その機会が与えられるように願っていました。なぜなら、彼はどうしてもローマへ行って神の福音を述べ伝えたかったのです。パウロはこう書きました。「私は、ギリシア人にも、未開の人にも、知恵のある人にも、ない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」(ローマの信徒への手紙1章14−15)

 

それでは今日の個所をもう一度お読みましょう。ローマの信徒への手紙1章16−17。「私は福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者全てに救いを齎す神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、始めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」

 

【私は福音を恥としない】

パウロは先ずこう宣言します。 私は福音を恥としない。」ここでの「福音」と言う単語の意味は難しくはありません。ただその時代のギリシア語の「良いお知らせ」です。それは別に神学用語でもありません。福音とは日常的に使われる単語で、例えば、友人に、「福音がありますよ。就職がやっと決まりました」と言えました。そして、天使たちが主イエス・キリストの御降誕を羊飼いたちに発表した時、こう言いました。「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたの為に救い主がお生まれになった。その方こそ主メシアである。」(ルカ2:10−11)その「大きな喜びを告げる」という表現はその同じギリシア語の「良い知らせ」になります。

 

【福音;良い知らせ】

そして神の福音は真に善いお知らせです。実は、それは良いお知らせの中の一番素晴らしいgood newsです。福音は人間に対する全能の唯一の神の愛と憐れみの啓示です。つまり、イエス・キリストの贖い死を通して神は私たちの全ての罪を赦して下さると言う素晴らしいお知らせです。主イエスを信じる者は神に和解され、この世にも死後にも神の恵みの内に生きられます。これこそが良いお知らせです。実は、その福音以外にもっと良いお知らせはないのです。

 

そして、使徒パウロは神の福音についてこう書きました。 私は福音を恥としない。」神の福音はとても良いお知らせですが、実はその中に聞きづらい真理があります。それは我々人間は全て罪人です。更に、神の憐れみがなければ、その罪の報酬は滅びと永遠の死であります。また、私たち人間は自分の力で罪の力を壊し、神の好意を勝得る事は出来ません。実は、それは全く不可能です。

 

【躓き】

多くの人々はその真理に躓きます。自分が善い人だと思い、別に神の憐れみが必要ではないと信じこんでいます。自力で自分を改善し、神の裁きを耐えると思いたいのです。また、そう言えるのは、少なくとも、自分の善行は悪行より多いから、また周りの人に比べると私は人々に施しをしているから、それは十分だと主張します。

 

【十字架につけられたキリストのみ】

しかし、神の福音は全く別の救いの方法を啓示します。人間のただ一つの救いは神の御子イエス・キリストのみであります。完全に清い、罪のない主イエスは私たちに代わって罪の報酬、滅びと死を十字架の上で支払い、罪深い私たちの為に永遠の救いを獲得しました。

 

当然、自分の力と義を信じる者には福音はとんでもありません。コリントの信徒への第一の手紙1章23−24にパウルがこう書きました。「私たちは、十字架につけられたキリストを述べ伝えています。すなわち、ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうが、ギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを述べ伝えているのです。」

 

【福音は救いをもたらす神の力】

周りの人々はいくらでも福音を軽んじ、ばかな事だと思っても、使徒パウロはその良いお知らせを恥としませんでした。逆に、素晴らしい誇りだと信じたのです。何故なら、16節の後半に書いた通りに、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者全てに救いをもたらす神の力だからです。」福音には神の力があるからこそ、パウロは周りの者と違って福音を恥としませんでした。そして、神の力は罪深い人間の為に救いをもたらせる唯一の方法なので、彼は福音を誇って、信じたのです。結局、それは人間が作り上げた失敗ばかりのやり方ではなく、愛する全能の神の力強い方法なのでパウロは信じて、出来るだけそれを多くの人々に伝えたかったです。

 

愛する兄弟姉妹、私たちも使徒パウロのように、「私は福音を恥としない。信じる者全てに救いをもたらす神の力だからです」と心から宣言します。私たちは全く足りない自分自身の力の代わりに、神の救いのみに頼り、誇って、信じるのです。

 

【神の義】

17節のところを見て下さい。「福音には、神の義が啓示されています。」私たち人間と万物をお造りになった全知、全能の神との健全な関係に入るのなら、義が絶対に必要であります。ですから、主イエスはこのように言われました。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5章48)

 

しかしながら、私たちはいくら頑張っても自力で完全になり、義となれません。ですから、神の義、すなわち、神からの義を頂かなければなりません。そして、御自分の御子の十字架の贖い死を通して神は私たちにその必要な義を自由に提供して下さいます。その神からの義はプレゼントになります。

 

【信仰により生きる】

しかし、私たちはその自由に提供された貴重なプレゼントを自分のものにする為には、受け取らなければなりません。どんなプレゼントでも同じです。届いた贈り物を自分の手に入れ、それを開けて使う時初めて、それは自分の物になります。逆に、届いた贈り物をただ倉庫に入れ、忘れたら、あまり意味がありません。持っていない物と殆ど変わりません。

 

神の義と救いは同様です。自分のものになる為、私たちはその賜物を受け取り、自分の生活に生かす必要があります。そのプロセスは信仰と言います。神から頂いた義と救いを信じ、神の助けでそれに頼ると、主のプレゼントは私たちの生活に実現されます。すなわち、キリスト者になります。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」と記された通りです。また、神からの義を頂いた私たちは、つまり正しい者とされた私たちは、神の恵みを信じ、その内に生るのです。

 

【聖餐式】

愛する兄弟姉妹、間もなく私たちは聖餐式にあずかろうとします。私たちの救いと義を得させる為に、主イエス・キリストは御自分を死に至るまでも犠牲して下さいました。ですから、主イエスの体と血のシンボルになるパンと葡萄酒を頂くと、新たにその賜物を自分の為のものとして受け取り、そして信仰を通して毎日の生活にその素晴らしいプレゼントを実現して行きましょう。(おわり)

             

2011年04月03日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙

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