「神の前の私たちの態度」ウイリアム・モーア2011.4.10.

聖書;ルカによる福音書18章9−14

 

【一番小さいパン】

ある気前のいいパン屋さんが毎日沢山の食パンを焼いて、その中から20個を残して、町の貧しい子供達に施しました。しかし、厄介な問題がありました。それは子どもたちがいつも一番大きいパンを取る為に激しく争っていました。ですから、ある日パン屋さんは密かに金の硬貨を一番小さいパンの生地に入れてから焼きました。そして、その日、いつもと同じように子供たちはパンを頂く為にパン屋さんへ行って、一番大きいパンを取る為に争って、感謝の言葉一つも言わずに帰りました。しかし、ある小さい女の子は皆に押しのけられ残された最後の一番小さいパンを手に取って、パン屋さんに、「伯父さん、ありがとう」と言ってから帰りました。

 

その晩の夕食でパンを裂くと、金の硬貨が出て来て家族皆は驚きました。とても貧しい家庭なのに、それはきっとパン屋さんの何かの間違えだと思い、次の日女の子は値打ちの高い硬貨をパン屋さんに返しに来ました。そして、パン屋さんは、「それは間違いではないよ。硬貨は貴女の御褒美だよ」と言いました。

 

 

【人の態度】

言うまでもなく、私たちの日々の態度はとても大事なのです。人は自分の態度によって立ち上がり、また倒れる事があります。態度によって人生が素晴らしい賜物になり、また悪夢のようにもなります。態度によって人間関係がスムーズになり、また心配の種にもなります。

 

【神様の前の態度】

それは人生に於いての人間相手に対する態度だけではなく、私たちの神様の前の態度もとても大事であります。何故なら、神様に対する態度は何よりも私たちの心が反映されるからで、私たちの霊的状態の尺度にもなります。

 

【二人の人が神殿に上った】

今日の御言葉において主イエスは神に対する私たちの態度について譬え話を語っています。もう一度聞いて下さい。「二人の人が祈る為に神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもない事を感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』どころが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんで下さい。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカによる福音書18:1−14)

 

この譬え話が語られたのは、主イエスが弟子達と共にエルサレムへ上って行く途中でした。エルサレムで十字架の死がイエス様を待っていましたが、弟子たちはまだその事を悟っていませんでした。主は都エルサレムまで歩かれました。大勢の人々がどんどん町から出て来て話題になったイエスを見に来ました。

 

【イエスは譬え話で語られた】

そして、主イエスはその機会を使って群衆を教えられました。群衆の中には様々な人間がいたはずです。その当時のユダヤ人社会のエリート宗教的指導者たちがいれば、嫌われた、最低な人間と思われた徴税人たちもいました。他にも極普通の人々も大勢主イエスを見に来ました。そして、イエスは声を上げて譬え話を通して皆を教えられました。

 

【ファリサイ派の人】

譬え話には二つの主役がいます。先ず出て来るのはファリサイ派の人でした。ファリサイ派の人は祭司ではないけれども、一生一つの目的の為に生きていました。それはユダヤ教の律法を完全に学んで、生活に於いて徹底的にその律法に従おうとしました。その献身の故に彼等は人によって尊敬され、社会に結構良い身分でした。

 

【徴税人】

もう一人の主役は一般的に嫌がられた徴税人でした。彼等は、ユダヤ人でありながら、外国のローマ帝国の為に税金を無理に人々からねじ取りました。徴税人は帝国政権から給料を全く受けていなかった為、決められた税金分以上に人から多く払わさせ、その利益で大金持ちになりました。ですから、彼等は国の裏切り者だけではなく、また貪欲な強奪者だと思われてしまいました。

 

その二人は祈る為にエルサレムの神殿へ上りました。ユダヤ教の信徒にとって、神殿はこの世で神様との一番近い所であり、神殿で唱えた祈祷は必ず神によって聞かれるとかたく信じていました。ですから、その二人は一生懸命に祈ったのです。

 

【ファリサイ派の人の祈り】

ファリサイ派の人は両手を上げながら顔を天に向いて先ずこう祈りました。「神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもない事を感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と精一杯祈祷を捧げました。

 

ファリサイ派の人は自分の祈りで神様にお話をするつもりだと思いますが、思わずにその祈祷は自分自身に語り掛けていました。結局祈りを通して自身に自分の善行を誇りました。そして、その祈りは同時に他人の罪を非難しました。「私はこんなに善い人である事を感謝します。律法の要求を越えて神の掟を守ります。そして、私は他の人と違って、罪を犯しません。奪い取るもの、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもない事を感謝します」と祈ってしまいました。

 

愛する兄弟姉妹、私たちはこのファリサイ派の人のとんでもない祈りを聞いて笑いますね。しかし、 分かっていながら、知らずに、私たちもその同じような態度をしているのではないでしょうか。他の人の良くない行動を見て、「私は決してそのような最悪の人ではない」と自分を密かに褒めた事がありますか。また新聞で酷い犯罪について読むと、「そんな事は私には不可能だ。信じられない、あれは最低な行為」と自分に聞かせた事がありませんか。更に、他の人の不幸を聞いて密かに喜んだ事がありませんか。「やっと彼が適当な報酬を受けた」と言う態度を取った事がありませんか。誰でもあると思います。結局、それは「他の人と比べて私は善い人」と言う独善的な態度です。

 

【徴税人の祈り】

徴税人の祈祷はどうでしょうか。13節を見ますとこう記されています。 徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんで下さい。』」彼は神殿の隅に立って、謙虚に頭を下げました。また、悔改めを表すように胸を打ったのです。そして、とても短い祈りを捧げました。 神様、罪人の私を憐れんで下さい」と心から祈りました。このお祈りは 美しい表現などを使わず、決して雄弁でもありませんでした。短い、シンプルととても誠実でした。徴税人は自分の重い罪を悟り、心から神の憐れみを請いました。探せば、勿論、彼よりも罪深い人がいましたが、彼は他の人と比べて自分を正当化しようとしませんでした。また、徴税人は神の好意を得る為に、「私はこれから頑張って善い人になります」と祈りませんでした。ただ自分の心の最も深い所からこう祈ったのです。 神様、罪人の私を憐れんで下さい。」

 

そして、主イエスはこう言われました。 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」神に対する徴税人の態度は正しいと主がはっきりと宣言されました。

 

何故なら、非常な謙遜をもって神の御前に出て、神の憐れみを願ったからです。誰よりも自分の罪深さを悟り、ただ神の憐れみがなければ自分が滅びると分かっていたのです。また、自分の力で改善する事は無理な事だと十分悟っていました。人間の救いは愛する神の一方的御業である事も知っていました。その故に彼はただ、 神様、罪人の私を憐れんで下さい。」

 

そして、神は徴税人の祈祷に応えて、神の御子主イエスによりますと、「義とされて家に帰ったのは、この人であった。」

 

【神に喜ばれる祈り】

愛する兄弟姉妹、恐らくこの受難節に私たちは徴税人のような態度は何よりも必要ではないかと思います。私たちは隣人を裁く必要がありません。主イエスはこう言われました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタイによる福音書7章1−2)

 

私たちは自分を隣人と比べる必要もありません。また、自分の力で神の前に義を勝得る必要もありません。主イエス・キリストの十字架の贖い死のみで、私たちの罪が完全に赦され、私たちは神からの義を自由に授けられています。

 

徴税人のように、「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と心から祈ると、主は私たちをそのまま受入れて下さり、御子イエス・キリストの義を私たちに賜り、救ってくださいます。神様はその徴税人のような態度を私たちに切に求めておられます。そして、そこには約束通りに素晴らしい祝福が私たちを待っています。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。へりくだる者は高められる。」(おわり)

 

 

 

 

 

2011年04月10日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

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