「二つの誘惑」ウイリアム・モーア2011.3.27

創世記2章15−17;3章1−7

マタイによる福音書4章1−11

 

【空腹の子】

ある小学生の男の子は学校の帰りに一人で近所のスーパーに入り、お菓子の所へ行きました。そして、お腹が空いて来た彼は一番好きなお菓子を手に取り、ずっと眺めました。それを買って食べたいけれども、一円も持って来なかったので買う事は無理だと分かりました。しかし、お菓子を眺める程、腹ぺこになり、うっかりそのお菓子を開けてしまいました。

 

その瞬間お店の人がそれを見て、男の子に、「君は何をしたの」と聞きました。そして、男の子は、慌てて、「何もしてないよ、何もしてないよ」と言いました。店員さんは、「君はお菓子を開けて食べようとしたじゃないか」と聞くと、坊やは泣きながらこう返事しました。「違うよ。まだ食べてない。僕はただお菓子を食べないように頑張っていたよ」と言いました。

 

【二つの誘惑】

私たちは一人も残らず坊やの気持ちがよく分かると思います。それは誘惑を受ける事と誘惑と戦う事です。今朝、誘惑の事について一緒に考えたいと思います。今日与えられた二つの聖書の個所は、御言葉の中の最も有名な誘惑のお話になります。

 

最初の人間アダムとその妻エバの誘惑と、神の御子イエス・キリストの誘惑であります。両方は誘惑されましたが、アダムとエバは誘惑に負けて、エデンの園から追い出されました。その反対に、主イエス・キリストは誘惑の上に勝利を得て、人類の為に大きな恵みをもたらして下さいました。ですから、私たちは両方の誘惑から学ぶとき、誘惑に対する私たちの正しい戦略と態度を習得します。

 

 

【誘惑を受けることは罪ではない】

先ず覚えて頂きたい事は、誘惑を経験する事、そのものは罪ではありません。この世にいる者、誰でも誘惑された事があります。先程の坊やはお腹が空き、好きなお菓子を見て、腹一杯にしたい思いで、それを取ろうとする誘惑を受けました。食べる前にお金を払うべきだと言う事が十分分かっていながらも、それを食べたい気持ちが強かったのです。だから、食べないように頑張らなければなりませんでした。つまり、坊やは誘惑と一生懸命に戦いました。今日の新約聖書の個所を読みますと、罪の全く無い神の御子イエス・キリストさえも激しい誘惑の経験があったのです。ですから誘惑を経験する事は罪ではないのです。しかし、誘惑を受け、負ける事は勿論罪になります。私たちはある程度の誘惑を避けられるかも知れませんが、この世に生きるかぎり全てを取り除くのは無理です。その故に誘惑は日々の生活に於いて私たちを襲って来るのです。

 

【神の最高の傑作として造られた人間】

恐らく今朝の旧約聖書のお話は聖書の中の最も悲しい個所ではないかと思います。初めに、唯一の全能の神は天地を完璧に創造されました。順番に光と大空と地と海を造って、それを見ると「良し」とされました。同じように数え切れない程の植物と動物を創造してから、「とっても良かった」と言われました。そして最後に、最高の傑作として神は人間を御自分にかたどり、御自分に似せて特別にお造りになりました。更に、神はその人間アダムとエバを祝福し、この世の全ての物を管理するように言われました。その時、全てが良かったです。悲しみや、嘆きや、苦しみや、病気や、争いや、自然災害などもありませんでした。人間と人間、また人間と神の関係が完全でありました。とても恵まれた悪の全く無い状態でした。つまり、罪がこの世になかったのです。

 

【禁断の木の実】

今日の旧約聖書の朗読、創世記2章15節からによりますと、「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕(たがや)し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。『園の全ての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」

 

【誘惑に負ける】

神は人間、御自分の傑作を豊かに祝福して、人は完璧に恵まれましたが、その状態は長く続きませんでした。何故なら、その二人は誘惑に、戦わずに負けてしまいました。神から与えられた自由を悪く使って、大間違いをしました。

 

創世記3章1節からこう記されています。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』女な蛇に答えた。『私達は園の木の果実を食べても良いのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる事を神はご存じなのだ。』女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分達が裸である事を知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆う物とした」と書いてあります。

 

【誘惑に負ける】

悪魔は偽りと狡猾を用いて、人を誘惑しましたが、人は喜んでその甘い声に聞き、誘惑に陥てしまいました。悪魔は結局こう言いました。「エバ、その果実を食べると、あなたは死なない。心配しないで、それは神のこけおどしだけです。あなたは善を知るけれども悪を知りません。しかし、悪も知るならば、あなたの知識が深くなり、力も増え、まるで神のようになります。それは素晴らしい事でしょう。賢くなると神に聞かなくても良いのよ」と悪魔が上手にエバを誘惑しました。そして、人間が喜んで誘惑を受け入れ、神が禁じられた果実を食べてしまいました。

 

【罪がこの世に入った】

そして、そうしますと、全てが変わりました。悪と罪がこの世に入り、人間と神の間と、人間と人間の関係が難しくなりました。人は神の完璧な恵みに至る道を拒否して、死と、悲しみと恐れと病気などがこの世に入りました。自然界もおかしくなりました。

 

【御子イエス・キリストも誘惑を受けられた】

愛する兄弟、私たちの先祖アダムとエバは誘惑に負けてしまいました。神の愛と恵みに至る御忠告を無視し、他の声に聞いて、罪と死がこの世に入り、全人類がその悪影響を受けてしまいました。言うまでもなく、私たちは彼等を手本にしてはいけません。実は、神の愛と憐れみの故に主は模範として御子イエス・キリストを私たちにお遣わしになりました。主イエスも激しい誘惑を経験されましたが、誘惑に耐えて、悪魔の上に素晴らしい勝利を得ました。主イエスの模範を学びましょう。

 

今日の新約聖書の個所をもう一度朗読します。マタイによる福音書4章1節からです。

「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、「霊」に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言われた。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口かえら出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたの為に天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たる事のないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。』イエスは、『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてあると言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。すると、イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた』」と記されています。

 

【悪魔の誘惑1】

悪魔は主イエスを誘惑する時、エバとアダムを誘惑した時も同じ企み用いました。悪魔は表面的に為になる事を主に勧めました。主イエスは断食で空腹を覚えた時こう言いました。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』と誘惑しました。つまり、自分の奇跡的力を自分の為に使うという事です。非常に空腹であても、主イエスは御言葉を持ってその提案を直ぐに拒否しました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と聖書を引用しました。

 

つまり、イエス・キリストはこの世に来たのはただ自分の都合の為ではありません。神の目的を果たす為に遣わされたので、主は自分の為にパンを得る事よりも、神の御言葉に従う為に生きていました。         

 

【悪魔の誘惑2】

その誘惑に失敗すると悪魔は新たな提案を行いました。 彼はイエスを神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたの為に天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たる事のないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、もう一度聖書を引用して、『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてあると言われました。そのような劇的事件を公に起こすと、イエスは有名になり、全国の賞賛を得られますが、その事も神の御旨ではありません。神は遥かにもっと大きな使命をイエスの為に準備したので、主は御言葉を持って悪魔の提案をすっかり断りました。

 

【悪魔の誘惑3】

最後に、「 悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。」全世界の政治的支配者になり、この世の全ての富を御自分の手に入る事は主イエスにとって魅力があったはずです。少なくとも十字架の苦難の道よりも楽な道でしょう。しかし、そのような自己中心の道は父なる神の御心ではなかったのです。ですから、主イエスは言われました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」とおっしゃいました。そして全ての企みが失敗すると、「悪魔は離れ去った」と記されています。「すると、天使たちが来てイエスに仕えた」と書いてあります。

 

【誘惑に対する武具】

愛する兄弟姉妹、誘惑を受けると主イエスは何をなさいましたか。主は何よりも神の御旨を覚え、御言葉を持って誘惑と戦いました。

 

私たちの日々はどうでしょうか。誘惑に襲われる経験をしていますか。悪魔って遠くにいる訳ではありません。目前にいるのです。次から次へと語り掛けて来ます。「あなたはこうすると、あなたは偉くなるよ。」「あなたが得になるのよ。」「あなたはまだキリスト者になって間もないんだからそのぐらいでいいのよ。」私たちが神に近づこうとする程、あらゆる方向から私たちを動きが出来ないようにします。こういう紛争、嫉妬、高慢などはみんな悪魔の戦略なのです。

 

【誘惑に打ち勝つ為に】

ですから、私たちは誘惑に打ち勝つ為に主イエスを模範としなければなりません。主のように、誘惑に直面すると、神の御旨を覚え、御言葉を持って誘惑に答えなければなりません。

 

【心を主イエスに明け渡す】

愛する兄弟姉妹、私たちが誘惑に直面する時、自分にこう聞いて下さい。「もしイエス様は今私の立場だったら、主はどうしたのでしょうか。」主イエス・キリストは先ずその誘惑について神の御旨に聞き、御言葉をもって誘惑に戦いました。私たちも常に御言葉を持って、かたく信仰に立たなければなりません。             

 

誰かが宗教改革者であるマーテイン•ルーテルにこう聞きました。「先生、どのようにして悪魔の誘惑に勝ちますか。」すると、ルーテルはこう答えました。「悪魔が私の心のドアを叩いて、『誰がここに住んでいる』と聞くと、愛する主イエスはドアへ行ってこうおっしゃって下さいます。『マーテイン•ルーテルは前にここに住みましたが、もう移りました。今、私は彼の心に住んでいる。』事実、イエス・キリストが私たちの心の中にいると、悪魔の誘惑は入る透き間がありません。 (おわり)

2011年03月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

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