「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」ウイリアム・モーア2011.3.20

詩編46篇1−12

 

【東北・関東巨大地震】

愛する兄弟姉妹、言うまでもないが、先日、東北・関東巨大地震、そして、地震が引き起こした津波と福島第一原子力発電所の事故は私たちにとって大きなショックになりました。

 

現場から遠く離れている私たちにも、テレビや新聞を通してその生々しい光景を見せられ、想像を超える大自然の破壊力にぞっとさせられています。その上、肉親と家と財産と職場などを失った多くの被害者たちを考えますと言葉で私たちの気持ちを表す事は難しいです。彼等の苦しみはきっと私たちの想像を超えるものでしょう。

 

被害の範囲はまだ計る事が出来ないですが、きっと1923年の関東大震災以来最も大きい天災になると思います。ですから支援と祈りを通して私たちは全ての被害者を覚え助けたい強い願いを持っています。

 

更に、福島第一原子力発電所が受けた被害の影響はまだ未知です。放射能漏れの問題を解決出来ないと被害が劇的に拡大し、日本だけではなく、全世界の問題になってしまう可能性が多分にあります。特にその問題を解決しようとする者に、上からの知恵と力を切に祈ります。

 

【天災の起こる理由】

このような酷い天災が起ると、当然私達は「どうして」と聞くでしょう。その理由が知りたいのです。勿論、地理学的や物理学的な説明があります。地球最表層岩板にストレスが多く溜まると急にスリップして地震を起こします。それは一つの説明ですが、私たちキリスト者はもっと深い神学的な説明を求めます。

 

【神学的視点で考える】

つまり、もしこの世と宇宙を創造された神が、愛なる全知全能の完璧な神であるなら、いったいどうして今回のような大きな災害を許すのでしょうか。本当に力があるならば、善なる神は御自分の力を持ってお造りになった被造物を大変な災いから守るべきではないでしょうか。ある人は神を弁護するかのように、こう語ります。「神には力があるのですが、大きな災害を防ぐ程ではないのです。神は実際に全ての悪と害をこの世から除去したいけれども、地震や津波のような自然災害の場合は神の手に負えません。」


 

反対に、ある人は神の全能を認めますが、神の善と愛を疑います。すなわち、「主は実際に天地万物を治める力がありますが、ただ巨大な宇宙の中にいる小さい地球と私たち人間までは手に届かないのです。」あるいは、「神は私たちを見るのですが、哀れみをあんまり感じていません」と言う意見などがあります。

 

このように私たちは自分で考えられる範囲の中で色々な解釈をしています。いったい神は何故このような事が起こるままに放置されたのでしょうか。

 

【善なる神】

しかし、私たちは聖書全体を通して人間に対する神の善と憐れみがよく分かります。例えば、詩編第34篇は神の善良に対する賛美です。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いな事か、御もとに身を寄せる人は。」

 

また、詩編第119編にこう記されています。「あなたは善なる方、全てを善とする方。あなたの掟を教えて下さい」。(68節)


 

更に、イエス・キリストはこのように言われました。「神おひとりのほかに、善い者は誰もいない。」

 

【愛なる神】

実は、主イエスの十字架の贖い死を通して私たちへの神の愛がはっきりと分かって来ます。ローマの信徒への手紙5章8節に記された通りに、「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死んで下さった事により、神は私たちに対する愛を示されました。」 

 

ですから、聖書の証によりますと、私たちの為の神の愛と哀れみは無欠であり、失敗が全くありません。

 

【全能なる神】

神の力も同様であります。主は天地万物を無からお造りになられる力を持つお方です。この世だけではなく、宇宙の中、数え切れない程の星と惑星も御自分の言葉で創造されました。イザヤ書40章25~26ではこう書いてあります。「お前たちは私を誰に似せ、誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない」と記されています。

 

神はこのように万物を造る創造的能力があれば、御自分の力は決して限られていません。更に、私たち御自身の被造物は決して神に忘れられていません。イエス・キリスト御自身はこのように言われました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちる事はない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、沢山の雀よりも遥かにまさっている。」(マタイ10章29~31)

 

間違いなく、神は全ての事を見、全ての事を御存じです。主イエスが言われた通り、神は本人よりもその人の事を良く知っておられます。

 

【完璧に作られた世界】

それでは、力ある、愛と憐れみである神はいったいどうして御自分の被造物を地震と津波のような大変な自然災害から守らなかったのでしょうか。出来る事なら、愛である神は人を憐れんで、救うはずではありませんか。

 

この質問に答えるには天地創造の時に戻らなければなりません。創世記に記されていますが、神が天地万物を創造されてから、お造りになった全ての物を御覧になって、「見よ、それは極めて良かった」と宣言されました。ここでの「極めて良かった」と言う元々のヘブライ語の意味は「完全と完璧」になります。つまり、その当時は病気や死や自然災害などの悪がまったくなかったのです。人間は完全な幸福の状態でエデンの園に住み、神との直接な交わりを楽しみました。

 

【悪魔の誘惑】

しかし、その恵まれた状態は長く続きませんでした。悪魔に誘惑され、人間は神から下さった自由を悪く使ってしまいました。主の大事な命令に逆らって罪を犯しました。その結果は神との関係が壊され、悪がこの世に入ってしまったのです。

 

そして、その悪はただ人間と神、また人間と人間の間を悪化させただけではなく、自然界にも悪い影響をもたらした訳です。アダムとエバが罪を犯してから、主はアダムにこのように言われました。「お前は女の声に従い、取って食べるな、と命じた木から食べた。お前の故に、土は呪われる物となった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土はイバラとアザミを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返る時まで。お前がそこから取られた土に。チリにすぎないお前はチリに返る。」(創世記3章17~19) 

 

【土地は呪われた】

私たちの先祖の罪の故に土は呪われる物になってしまいました。つまり、以前には害の全くない自然界に地震や台風や津波などの恐ろしい現象が起こるようになりました。創造の時、そう言う現象は神の御旨ではありませんでしたが、人間が主の道を拒否したので、全ての造られた物がその悪の影響でアンバランスになって、この間の地震と津波のような災害が起こります。

 

人間の罪の結果で悪がこの世に入り、その悪が私たちだけではなく、自然界までに影響してしまったのです。愛する兄弟姉妹、もし悪がそのままだったら、人類は本当に希望のない、救いのない、惨めな状態のままという他ありません。

 

【悪を善に変える神】

しかし、私たち人間の罪とその悲劇的な結果は決して結論ではありません。憐れみ深い愛である力の神は私たちの状態を見て、罪と悪の結果を逆転させるようにすぐに努め始めました。全人類を祝福する為にイスラエル民族を選び、御自分の憐れみと掟を現し、預言者を通して御旨が伝えられました。

 

【愛と救いの神】

また、時が満ちると、神は御自分の御子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そして、罪の全くないイエス様は私たちと共に歩み、御自分の生涯を通し神の完全な愛を啓示されました。

 

更に、その愛の最高の現れとして十字架で私たちの罪を贖って下さいました。罪の許しを受けた私たちは神との良い関係が回復され、神の子となり、永遠に、死後にも神と共に生きられます。

 

ですから、信仰によってこの救いを受け入れる者は罪の結果の逆転を今、経験出来ます。そして、将来イエス・キリストが神の全ての栄光をもって再び来られると、私たちは悪と罪の完全な征服を見ます。その時、神の被造物は完璧に修復され、自然界も回復され、祝福だけをもたらします。

 

【新しい天と新しい地】

ヨハネの黙示録にその神によって回復された世の様子が述べられています。

「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫の為に着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。その時、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼等の目の涙をこどごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」(黙示録21章1~4、)

 

【今も悪を善に変える神】

大きな希望を持って私たちはその素晴らしい日を待ち望む事が出来ます。しかし、その日を待っている私たちですが、今私たちは一つの大事な事を忘れてはいけません。それは現在も神が、悪から善をもたらしていると言う事です。例えば、人間が悪を行って神の御子イエス・キリストを十字架で死なせましたが、私たちの為に神はその悪を持って一番良い結果を生じました。つまり、全人類の為に救いの道を開いてくださったのです。

 

同じように私たちの神は今回の災害の悪から善をもたらす神です。例えば、巨大な災害の渦中にも武器を持って戦う兵士が救助員になり、争っていた人が助けに来たり、背をむけていた人から連絡があったり、この災害で国境を越えて、周りの国々は共に助け合い、世界は一つになりました。

 

【命があれば希望がある】

更にこのような悲劇を通して私たちの生涯に於いて何が最も大事であるかが悟られます。つまり、物質的な物全ては失っても、命があれば希望を抱く事が出来ます。このように神は現在も悪を善に変え、働き続けて下さいます。

 

また、今、この時こそ、全てを主の御手に委ねるべきです。今日の御言葉詩編第46編は困難の中の神の素晴らしい御臨在の証になります。「神は私たちの避けどころ、私たちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる。私たちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」

 

愛する兄弟姉妹、全てを主の御手に委ね、信仰に固く立つ事が出来ますように祈っております。今の難しい時こそ神を信じ、従いましょう。(おわり)

 

2011年03月22日 | カテゴリー: 詩篇

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/534