「主の晩餐:記念と応答」ウイリアム・モーア

聖書;ルカによる福音書22章14~20

 

【聖餐式の制定】

恐らく皆さんも、主イエス・キリストがどうして聖餐式と言う礼典を制定されたかについて思い巡らしたことがあるかも知れません。

 

 

【聖餐式への悪意・偏見】

 

実際、キリスト教の歴史を振り返って見ると、聖餐式は未信者の誤解を招く事がありました。とんでもない告発ですが、特に初代教会は聖餐式に人の肉を食べ、人の血を実際に飲むという中傷によく直面しました。ローマ帝国の当局とユダヤ教の指導者達はその偽りを用いて教会を迫害しました。

 

また、ある人は他の理由で聖餐式を理解できません。彼等は厳かな儀式の際、飲食する事は極めて適切ではないと思って、聖餐式に躓きます。特に、霊的な儀式の環境で食べる事と飲む事は相応しくはないと思い込み、主イエスはもっと威厳のある礼典を設定すべきだと判断して、違和感を覚えてしまいます

【聖餐式の意義】

 

しかしながら、私たちの主イエス・キリストは聖餐式を私たちの為に制定されたとき、最も善い、最も適切な意味深い礼典を授けて下さいました。何故なら、コリントの信徒の手紙一に記されているように、「キリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」(1章30)

 

聖餐式を通して私たちは主イエス・キリストの比べる事が出来ない程の恵みを覚え、その祝福を新たに経験します。

 

【聖餐式の意味】

 

愛する兄弟姉妹、私たちは、間もなく、聖餐式にあずかろうとしています。ですから、只今より、その礼典を頂く準備をします。その意味を覚え、そして、礼典を相応しく受ける為に、私たちそれぞれの心を整えるべきです。キリスト者にとって聖餐式は選択の自由な礼典ではありません。主イエス御自身の切なるお勧めで私たちはこの礼典に与ります。

 

【主イエスの記念・新しい契約】

 

今日の御言葉の19節以降にこう記されています。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒達に与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられる私の体である。私の記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である。』」

 

【聖餐式の主な目的】

 

この御言葉を読みますと主イエスは聖餐式の主な目的を教えてくださいます。「私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。ですから、私たちは今日、ここに集い、パンと葡萄酒を頂く事によって主イエス・キリストと、その全人類の救いの為の犠牲を覚え、記念します。この礼典は神秘的なものではありません。イエス・キリストが私たちを招待されたように、御自分の記念として聖餐式を行います。

 

【主イエス・キリストの死を記念】

 

実は、 聖餐式は主イエス・キリストとその十字架の贖い死を記念する為の最もよい方法であります。

 

と言うのは、その私たちの為の贖い死は、この前に準備されたパンと葡萄酒と同じように本当のものです。その主の十字架の贖い死はただおとぎ話や架空の伝説などのような頼れないものではありません。その最も重要な出来事は歴史的な事実であり、唯一の全能の神の御計画であったのです。主イエスは私たちの罪を償うように、御自分の血を流し、御自分の体を死に至るまでも犠牲にされました。御言葉に記された通りに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3章16)

 

【主の犠牲と救いの事実】

 

聖餐式のパンと葡萄酒は主の犠牲とその救いの事実を表します。間違えなく間もなく戴くパンと杯は実在します。特に、手に取って口に入れると、その実在は否認しがたいです。ですから、主イエスはこの目で見える物質的な物を用いて御自分の救いの事実を表します。

 

【霊的真理】

 

現在多くの人々は絶対の霊的真理を否定し、信仰になりますと、それはただ好みの問題であると思いたいのです。「どんな事を信じてもかまいません。心から何かを信じたら、それは自分にとって真理になりますが、決して他の人の真理ではありません」と言います。

 

しかし、イエス・キリストによりますと、霊的真理と霊的偽り、両方あります。そして、従って真理は勿論ただ好みの問題ではないのです。ですから、神の独り子主イエスははっきりとこのようにおっしゃいました。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行く事が出来ない。あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知る事になる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」(ヨハネによる福音書14章6?7)。

 

【歴史的事実】

 

私たちの信仰は歴史的な出来事に立っています。すなわちイエス・キリストの御降臨と、十字架の贖い死と、復活に基づいています。更に私たちの信仰は唯一の真の神の真理と実在にも基づいているのです。

 

聖餐式のパンと葡萄酒は具体的なシンボルとして、キリストが教えられた真の信仰の真理を表します。今日の聖餐式のパンと葡萄酒を頂くと、徹底して頼る事が出来る主イエス・キリストの救いと真の約束を覚え、感謝して下さい。

 

【霊の食べ物】

 

聖餐式を設定した際、主イエスはわざわざ御自分を記念する為にパンと葡萄酒を選択されました。

 

パンはその当時の主食であって、葡萄酒は代表的な飲み物でした。食事の時、少なくともその二つが必要でありました。毎日、体に栄養になる物を飲食する事を通して私たちは主を記念します。

 

その意味は、食べ物と飲み物は体に絶対に必要性があるように、主イエスの救いは私たちの魂に必要であります。この世での真の、意味と希望に溢れる命と死後の永遠の保証はイエス・キリストのみから頂けます。

 

【霊的健全な体のために】

 

つまり、豊かな命は私たちの造り主と救い主から授けられています。人間は食べ物と飲み物がないと命が危なくなります。同様に、主イエス・キリストは私たちの救い主、主ではないと、私たちの霊的な状態は危険です。

 

愛する兄弟姉妹、今日、私たちは聖餐式を通して主イエスを記念し、その豊かな恵みを覚え、感謝します。主の贖い死がなければ、私たちは目的と希望のない者になってしまい、真に惨めな存在です。神は主イエス・キリストを通して、私たちを暗闇の中から御自分の驚くべき光の中へと招き入れて下さいました。聖餐式にあずかる度に主イエスを記念し、その素晴らしい恵みを覚えます。

 

【聖餐式への応答】

 

しかし、私たちは聖餐式に主イエスを記念すると、その記念そのものが全ての目的ではありません。イエス・キリストの豊かな恵みを覚えると、その恵みに応えるべきです。応えがなければ、記念と覚える事は感傷、センチメンタリズムに過ぎない恐があります。亡くなった友人を覚えると、感傷は当たり前の事ですが、生きておられる、私たちと共にいて下さる力強い主イエス・キリストになりますと、感傷だけは足りません。

 

【応答の中身】

 

イエス・キリストは私たちの為に御自分の命を捨てて下さいましたので、私たちは信仰と感謝と愛と服従で応えます。つまり、その応えは行動を生じます。

 

それはどんな事を言うのでしょうか。例えば、自分が本当に神を愛するなら、隣人を憎みません。また、神の赦しを心から経験した人は自分に罪を犯した人を赦せます。神から物質的な恵みを頂いた人は、必要な物が足りない人に自分の豊かさから施します。同様に、信仰からあらゆる恵みが与えられた人は当然、霊的に飢えている者に福音の恵みを分ち合えます。

 

【日々の生活の中で】

 

愛する兄弟姉妹、私たち主の晩餐に与る者は先ず主イエスの記念として私たちの為に犠牲された主の体と血を象徴するパンと葡萄酒を頂きます。そして、その恵みを経験する私たちは、応答として行動でその恵みに応えます。両方は手が繋がっているように連係しています。と言うのは、私たちが聖餐式の経験がなければ応えられません。そして、答えがなければ、主の晩餐にあずかっても、あんまり意味がないのです。

 

ですから、主の食卓から豊かに頂く私たちはその大きな恵みと祝福を覚えるのです。そして、ここからこの世に出て行くと、愛と、赦しと、憐れみと、感謝を持って、日々の生活で神の大きな恵みに応えるのです。その答えの実体は、隣人を愛し、憎まず、赦し、自分の豊かさから施し、福音の恵みを分ち合うのです。愛する兄弟姉妹、その答えを持って神に仕えましょう。(おわり)

2011年02月13日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

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