「コストを考慮すること」ウイリアム・モーア

聖書:ルカによる福音書14章25−33

 

【ルカ福音書14章25−26】

恐らく、今日与えられた御言葉は、イエス・キリストの全体の教えの中の最も厳しいお話ではないかと思います。特に聖句の初めの所を皮相的に聞けば、消化し難くて、躓きの石と思われる可能性が十分あります。「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。『もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。』」(ルカによる福音書14章25−26)

 

【親・兄弟を憎む?】

このイエス・キリストのお話は反家族的の宣言と聞こえます。家族の者を憎む人のみがイエスに従えると言う事です。更に、信者が家族の者だけではなく、自分の命さえも憎まなければならない事はちょっと聞きづらいです。実に、このお話は主イエスの全体的の教えと矛盾するように見えます。例えば、主は金持ちの議員と話した時、こう言いました。「『姦淫するな、殺すな、偽証するな、父母(ふぼ)を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」とルカによる福音書18章20に記されています。

 

【主イエスは父母を愛した】

イエス御自身は神の掟を大事にして、家族に対する責任を果たされました。十字架に掛けられた間、言い尽くせない拷問を受けた時さえも、御自分の母親を覚え、その世話を弟子に委託しました。それは決して自分の母を憎む者の行動ではありません。深い愛を持って御両親を敬いました。

 

【自分を愛するように】

また、主イエスは御自分の命を憎みませんでした。ですからこうおっしゃる事が出来ました。「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マルコ12章31)

 

 

もしイエスの弟子達は自分達の命を憎まなければならないのなら、その掟は無意味になってしまいます。結局、それは「隣人を自分のように憎みなさい」というとんでもない話になります。

 

【御言葉の真意】

イエス様のお話の背景を調べますとこの御言葉の意味が分かると思います。大勢の群衆が主について来て、彼等は主の素晴らしい徴を目撃しました。難病を患った沢山の人々がイエスによって奇跡的に癒されました。悪霊を人から追い出して下さったり、水を葡萄酒に変えたりしました。その上、主イエスはイスラエルの祭司達と違って、権威ある者のように神からのお話を人々に教えられました。その故に、主はイスラエルの人々の人気を得て、どこへ行っても大勢の群衆が一緒について来ました。皆は自分の目で新しい先生を見て、そのお話を聞き、そして、病気であったら、主から癒しを頂く為に町と村から続々出て来て、イエスがいる所に集まりました。

 

【イスラエルの腐敗】

間違えなく、人々はイエスに出会うと大きな希望を抱きました。その当時、国は色んな面でどん底でした。国はローマ帝国の植民地になってしまい、政治は目茶苦茶になりました。と言うのは、ローマの総督が本当の権力を持ちましたが、イスラエルの王は敵ローマの協力者になり、非常に堕落した政治が行われました。更に平民は経済的に大変苦しいのに、重い税金が無理に課せられました。その上に、国の宗教的現状も堕落していました。祭司達とユダヤ教の律法学者は第一に自分達の良い身分を守り、人々の苦しい立場をあまり気にしませんでした。

 

そして、国と宗教がそんなにも堕落すると、民は神がイスラエルから遠く離れてしまったと失望に陥ってしまいました。

 

【民衆の期待】

ですから、イエスのような偉大な人物が現れると、多くの人々は喜びました。大昔から神から約束された救い主がやっといらっしゃったと信じ、「この人こそがイスラエルを救う」と言う大きな希望を主に懸けました。イエスが政権を取れば、国の全ての問題が解決出来ると思った事でしょう。ローマ軍をイスラエルの領土から追い出し、国の自由を取り戻し、ソロモン王のような栄光の時代に帰るのです。そして、イエスは国王になり、イスラエルは神の民として全世界を治める事になります。勿論、救い主は祭司長として国の宗教も清めて、イスラエルは丸で地上の楽園になります。つまり、人々は救い主がイスラエルの全ての問題を瞬間的に解決して下さり、奇跡的に国を最高のレベルまで高めると言う希望を抱きました。

 

そのような大きな希望を持った群衆は、当然、主イエスに従いたかったのです。特に、彼等は何もしないで、ただその救いを待つのなら、喜んで主を信じ、その弟子になりたかったです。

 

【主イエスの弟子になるとは】

しかしながら、ここで主ははっきりと言いました。主の弟子になるとは、ただ何もせず、待つだけではありません。また、おもに政治的と個人的利益を得る為に主イエスに付いて来ると、弟子にはなれないと言うのです。弟子として神の御子イエスに従うのなら、誰よりも、主イエスに仕え、主イエスに頼り、主イエスを愛さなければなりません。そして、自分自身さえよりも、先ず、神、主イエス・キリストを第一にすべきです。それには比べられない程の恵みと祝福がありますが、主イエスに従おうとするなら、コストが掛かります。そして、その大事な事を人々に悟らせる為に誇張法を用いてこう言われました。「もし、だれかが私のもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、私の弟子ではありえない。」

 

この御言葉がマタイによる福音書10章37−38ではこう記されています。「私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしくない。私よりも息子や娘を愛する者も私にふさわしくない。また、自分の十字架を担(にな)って私に従わない者は、私にふさわしくない」と書いてあります。やはり、今日の御言葉はそう言う意味なのです。

 

【コストを考慮】

イエスに従う者は第一に主に頼り、主を愛します。特に、最後まで辞めないで、主に忠実に従う為、私たちは先ずそのコストを考慮すべきです。

 

【塔を建てる人の譬え】

主イエスはそういう事を教える為に二つの譬え話を群衆に語りました。28節に塔を建てる人の譬え話が記されています。もう一度聞いて下さい。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成出来ず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成する事は出来なかった』と言うだろう。」

 

この譬話に於ける塔は多分農家が畑か葡萄園の中で建てる塔でした。塔のてっぺんから農家は自分の農園をよく観察出来、特に刈り入れが近づくと、泥棒から生産物を守りました。言うまでもなく、塔を建てようとする時、農家は先ず、そのコストを見積もる必要がありました。つまり、塔を完成するまで必要な資金や建設材があるかどうか確かめなければなりませんでした。そうしないと、お金が足りなくなり、途中で建設を止めなければなりません。そうすると、掛けた費用は全く無駄になります。更に、途中で辞めた塔は自分の愚かさを皆に見せるから、農家は恥ずかしいです。

 

私たちはこれから会堂を設けようとします。当然着工する前にその費用を見積もる必要性が絶対にいります。そして、かかる費用と持っている資金が合わないと、コストを削るか、献金をもう少し捧げなければなりません。そうしないと、途中で資金が足りなくなり、会堂は中途半端な物で、全く無用になってしまいます。

 

【キリストに従うコスト】

同様に私たちはイエス・キリストに従おうとしたら、そのコストを見積もる必要があります。忠実に主の教えを守る事は優しい事ではありません。

 

また、主イエスを誰よりも、また自分自身さえよりも愛するのは、犠牲が伴います。更に、「自分の十字架を背負う」と言うのは、もちろん簡単ではない訳であります。しかし、私たちが先ずそのコストをちゃんと見積もったら、すなわち、主イエスの弟子になると言う事が分かっていたら、神の助けによって最後まで忠実に主に従う事が出来ます。

 

【戦いの譬】

今度、31節を見ますと、譬話がまたあります。「どんな王でも、他の王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つ事が出来るかどうか、まず腰を据えて考えてみないだろうか。もし出来ないと、分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう」と書いてあります。

 

戦争は大きなリスクが伴うので、為政者は、戦争を起す前に、見込みを調べる必要があります。用心しないと、自分の国が敵の手で滅ぼされる可能性があります。少なくとも、無駄に兵の命が犠牲にし、国民に莫大な負担を掛けてしまいます。現在の戦争を見てもそれは明確です。しかし、先ず、戦争の前に、コストと見込みをちゃんと見積もると、勝利を得る可能性が高くなります。つまり、あくまでもコストを払うと決心して、また合理的な戦略があれば、勝つ事が十分出来ます。

 

【主イエスのコスト】

愛する兄弟姉妹、信仰もまたこれに等しいと言えます。主イエス・キリストは私たちにとって第一の存在ですか。主イエスを父、母、妻、子供、兄弟、姉妹、自分の命よりも愛するのでしょうか。そうすると、コストがどんなに高くても喜んで払う事が出来ます。また、主イエスの愛と力を徹底的に頼っていますか。そうすると、どんな試練にあっても、ちゃんと立ち直る事が出来、最後まで主イエス・キリストの為に忠実に生きる事が出来ます。

 

【鎖国時代の殉教者】

鎖国時代の殉教者は私たちに素晴らしい模範を示します。彼等は主イエスの弟子になるコストを見積もっていたので、必要な時、そのコストを払いました。彼等は主イエスを誰よりも、自分の命よりも、愛したのです。彼等は文字通りに自分の十字架を背負って、その十字架の上で殉教しました。「信仰を捨てる」と言う一言だけで、当局によって自由にさせられたのに、最後まで主に忠実でありました。そのような殉教者が多くあって、私たちの為に貴重な証を立てて下さいます。どうか、私たちの時代にもキリスト者としてのコストを見積もって、そして、最後までそのコストを喜んで払う事が出来るような信仰が与えられるように祈りましょう。(おわり)

 

2011年02月06日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

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