「一つの体、多くの部分」ウイリアム・モーア2011.1.30

聖書;コリントの信徒への手紙一12章12−27

 

【自分の体に不満】

皆さん、ちょっと変な質問かもしれませんが、自分の体の事についてどう思われますか。おそらく私たちの多くは自分の体についてあんまり言いたくないですね。そして、考えて見ようとすると、自分の体について良い事は心に浮かばないかも知れません。例えば、体重が多過ぎるとか、またちょっと痩せ過ぎとか。あるいは、ある人は背が低すぎる、またある人には背が高過ぎて困るのです。また、ほとんど誰でも自分の顔を鏡で見るともっと奇麗になりたい気持ちがあります。スーパモデルさえもそう言う傾向があるのだそうです。

【あなたがたはキリストの体】

ですから、今日与えられた御言葉に、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」と使徒パウロがキリストの教会について教えると、私たちはちょっと複雑な気持になります。「足りない私がどうしてキリストの体の部分になるんだろう」と思ってしまいます。しかし、その真実ははっきりとこの御言葉に記されています。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」

 

【私たちはキリストの体の一部分】

考えて見ますと、それは神から与えられた私たちの為の素晴らしい恵みなのです。イエス・キリストは現在、聖霊を通して御自分の御臨在をこの世に残して下さいました。それは勿論、御自分の体の姿で私たちと共におられません。ですから、全てのキリスト者は主の教会としてこの世でキリストの体を成しているとも言えるでしょう。つまり、イエス・キリストの手と足になり、地上で主御自身のお働きが委ねられているのです。全てのキリスト者は共にそのとても重要な役割が授けられました。私たち皆はキリストの体の必要な部分であります。

 

【教会はキリストの体】

使徒パウロはイエス・キリストの教会の存在と役割を説明すると、体の譬を何回も用いました。聖書にはパウロは30回以上、教会を「キリストの体」と呼んでいます。今朝、御言葉を通してその意味と重要性を一緒に学びたいと思います。

 

与えられた個所、コリントの信徒への手紙一12章12節と13節をもう一度読ませて頂きます。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、私達は、ユダヤ人であろうと、ギリシア人であろうと、奴隷であろうと、自由な身分の者であろうと、皆一つの体となる為に、洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」

 

先ず覚えて頂きたい事は、教会はキリストの体としての類比は全世界のキリスト教会と各教会にも当てはまります。ですから、私たちの西谷伝道所はこの世の全ての国々にある教会と共に同じキリストの体に属します。先程一緒に唱えた使徒信条はそれを「聖なる公同の教会」と呼びます。しかし、同時に、地域の各教会もキリストの体として見る事が出来ます。つまり、ここに集っている私たちもキリストの体、主の教会を成り立たせる部分なのです。

 

しかし、使徒パウロはどうして神の御子イエス・キリストの偉大な教会を人間の体に比較したのでしょうか。私たちの体の姿を見ると、それよりもっと相応しい類比があるはずだと思いたいのです。

 

【体の統一】

しかし、何故その類比はとても相応しいなものか考えて見ましょう。私たち人間それぞれはユニークな性格、すなわち「私」を持っています。そして、その「私」は自分の体の全ての部分を統一します。人間の体は手や足や頭などの一つ一つ個別である部分を持っています。しかし、人間の性格、自分と言う「私」はそれらの物を単一化して、一つの分裂出来ない体になります。主イエス・キリストは御自分の教会の為に、体の「私」と同じような役割を果たします。

 

と言うのは、イエス・キリストご自身が教会に属する全ての信者を統一して、御自分の教会を形成します。孤独の人間はただ孤独の人間に過ぎませんが、イエス・キリストが彼等を一体にすると、キリストの体、教会になります。そして、その御自分の体になる教会を通して、神は働いておられます。

【体は多くの部分から成る

続いて、今朝の御言葉の14節の所を見て下さい。「体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。」人間の体の多様性は明白です。一人の人間の体でも、全く同じ部分がありません。一見すると、私の右と左の手の指は同じように見えますが、実際にそうではありません。指紋は勿論全く異なっています。また、私の右の手の指には20年前にムカデが刺した傷が残っています。更に、右の足は左の足よりちょっと長いです。私たちは聞く為に耳が与えられ、見る為に目があります。そして、歩く為に神様が人間に足を下さいました。与えられた役割を果たすように当然その部分の形は異なっています。誰も自分の鼻で見たり、足で食事を取りたくないはずです。

 

【教会員の賜物と役割】

同様にキリストの教会に属する者も賜物と役割が異なっています。もし、この群れの私たち皆は歌がとても上手で賛美ばかりしたかったら、大変だと思います。礼拝中に讃美してばかりで、御言葉を聞く余地がありません。その反面、歌が一つも出来ない人ばかリの場合、讃美をする事は出来ません。

 

【からだの各部分】

体は沢山の口だけで形成されていません。そうしますと大変な奇形になります。その反面、様々な必要な部分があり、これら全部で人間になります。

 

言うまでもなく、キリスト者は皆同じではありません。神様のお陰ですが、賜物と能力と意見も異なります。この群れはもう一人のモーア先生はいりません。一人で十分だと思います。そして、それぞれ全く同じ皆様も不必要です。教会の為に沢山の異なった能力と奉仕が望ましいです。

 

【体に不要な部分はない】

私たちは色んな面で多様性を示しますが、キリストの体の健康の為に皆が絶対に必要です。15節からこう記されています。「足が、『私は手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、『私は目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし体全が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。(15−19)

 

【他人と比べられない賜物】

この意味は、自分をキリスト者同士と比較してはいけません。例えば、私は田村依子姉妹のようにオルガンを弾けません。小学生の時、ピアノ教室に行かされたのですが、三ヵ月も経たないうちに辞めてしまいました。能力と我慢が足りなかったので、辞めたか辞めさせられたかは覚えていないですが、結局ピアノが全然出来ません。しかし、その理由で、「私は田村姉妹のようにオルガンを引けないから、キリストの体なる教会の一部ではない」とは言えません。

 

そして、逆に、「目が手に向かって『お前は入らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前達は入らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(21−22)

 

神様が皆にそれぞれの役割と能力を与えて、皆は教会に必要です。つまり、教会の為に私たちの多様性はなくてはならないことです。

 

【愛は多様性と一致を保つ】

「多くの部分があっても、一つの体なのです」と20節に書いてあります。教会は多様性を重んじながら、一致を守らなければなりません。実は、ある場合、多様性と一致の間に対立があります。しかし、教会の中に、お互いの愛と同じ目的があれば、多様性と一致を十分保つ事が出来ます。主イエスはこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34)

 

【私たちの共通の目的】

私たちは共通の目的も主イエスから与えられています。イエス・キリストは天に上げられる直前にこうおっしゃいました。「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼等に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世のおわりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19−20)

 

愛と共通の目的があればキリスト教会は多様性と一致を同時に重んじられます。

 

最後に、25節と26節を見て下さい。「それで、体に分裂が起らず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」

 

【からだ(教会)の痛み】

間違えて指をドアにはさまれてしまいました。どんな状況が起りますか。実際に色んな事が同時に起ります。先ず、自分の脳は大きな痛み感じ、目には涙を浮べます。そして、他の手で指を取って、何回も飛び上がりながら、口から言葉が出ます。どうかしましたか。体のほんの小さい部分なのに、体全体が瞬間的にその小さい部分の苦痛を和らげる為に奮起します。

 

同じように、教会の 一つの部分、つまり一人のメンバーが苦しめば、すべての教会員はその苦しみを感じ、瞬間的に苦しみを和らげるように努力します。私たちは本当にキリストの一つの体であるならば、当たり前の事です。

 

【私たちの奉仕】

愛する兄弟姉妹、あなたはキリストの体の一部分としてどんな役割を果たしていますか。あなたの救い主である主イエスの働きの為に何をしていますか。神様はもう既に必要な賜物と能力をあなたに授けて下さいました。そして、キリストの体の一部分としてあなたの奉仕は絶対に必要です。(おわり)

2011年01月30日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書

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