「主の食卓に着きましょう」ウイリアム・モーア2010.12.26.

聖書;コリントの信徒への手紙一10章14−22

 

【食卓は国の文化】

世界の全ての文化は食卓で特別な行事や祭日などをお祝います。クリスマスや、誕生日や、結婚式や、お葬式や、お正月などは食べ物と深い関わりがあるのだと思います。例えば、日本では御節料理はお正月に伴います。普段に食べない、その特別な料理で新しい年を迎えます。同様にアメリカの場合、七面鳥の丸焼きは秋の感謝祭に付いて来る物です。実は、祭日にそれぞれの特別な料理がなければ、私たちはなかなか満足出来ないものですね。

 

私は七面鳥のない国で大きくなりました。ですから感謝祭を祝う為に丸焼きの七面鳥の代わりに鶏の丸焼きを食べました。両親が韓国での宣教師だった為、私が幼い頃はなかなか七面鳥の丸焼きは食べられませんでした。鶏の丸焼きでしたが、今から50年前の韓国では鶏でもあまり肉が付いていなかったのです。ですから誰かが育てた七面鳥を市販するのを購入した際には、感謝祭の食卓に七面鳥が出されると、私たちの兄弟は大喜びで、特別な感謝祭になり、満足する事がやっと出来ました。

 

【聖餐式】

今朝、イエス・キリストは私たちを御自分の食卓に招いて下さいます。しかし、この食卓には普通の糧が提供されていません。言うまでもないが、私たちの前に置かれた食事は肉体的な飢えを満たすものではありません。ほんの少しのパンと飲み物だからです。

 

実は、イエス・キリストの食卓は何よりも私たちの霊的な飢えを満足させます。主イエスはこのように言われました。「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢える事がなく、私を信じる者は決して渇く事がない。」(ヨハネによる福音書6:35)

 

聖餐で頂くパンと杯は私たちの為のイエス・キリストの贖い死のシンボルになり、この礼典を通して私たちの救いをもたらした主の犠牲を新たに覚え、記念します。

 

【聖餐に用意するもの】

主を信じる者誰でもこのイエス・キリストの食卓に招かれていますが、礼典の恵みの経験を充実させる為に私たちは聖餐に持って来るものが幾つかあります。今朝、聖餐式にあずかる事前に用意する物について一緒に考えたいと思います。

 

【手を洗う; 罪の悔改め

子供さえも知っていますが、食事の場合、先ず、食卓に着く前に手を洗う必要があります。特に、手が汚れた場合、清潔を保つ為に水と石鹸で手を洗うべきです。同様に、聖書によりますと私達は聖餐の際、自分の信仰生活を自ら新たに調べる機会が与えられています。式文にこう記されています。「聖餐を受ける者は、神の御前に、自分自身を吟味し、悔い改めと信仰を表さなければなりません。」そして、罪を神に告白し心から悔い改めると、私たちは必ず主から赦しを受ける事が出来ます。罪の咎めと重荷から解放され、神の愛された子供として主の食卓に着く事が出来ます。

 

今日与えられた御言葉に使徒パウロはコリントと言う町の教会の信徒に、自分自身を吟味する必要性を思い起こさせました。彼等はキリスト者になりながら続けて偶像礼拝に参加していました。つまり、同時に主イエスと他の神々を信じ信頼しました。特に、彼等は聖餐式と地元の神々のお祭り両方に加わりました。主イエス・キリストのみを信じるべき者にはそれは相応しくないと使徒パウロがこのように教えたのです。今日の個所の14節から朗読します。

「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」

 

聖餐式に参加する者はイエス・キリストの血と体にこそあずかりますので、他の信仰に参加する事は矛盾であると言う事です。さらに、キリスト者は偶像礼拝に参加すると教会の霊的一致を壊します。ですから、パウロはコリントの教会の信徒にその問題について、「自分で判断しなさい」と勧めています。

 

ここでの偶像礼拝をもう少し広く理解すると、偶像はどんな物、どんな事であっても、唯一の神の代わりに、私たちが敬い、愛し、信じ、頼るのです。他の言葉で言えば、偶像になるものは誠の神から私たちの信頼と愛を取り上げる事です。

 

愛する兄弟姉妹、聖餐式の際、私たちは神の御前に、自分自身を吟味し、悔い改めと信仰を表すべきです。そうしますと、愛する神はその罪を赦し、あらゆる不義から私達を清めて下さいます。

 

霊的食欲

聖餐式に参加するとき、私たちは赦し、奇麗な手でその礼典にあずかろうとします。そして、それだけではなく、さらに、食欲がある者として聖餐式に参加すべきであります。デイナーの為に友人の家に招かれました。友人の家へ行く途中に吉野家へ寄って、牛丼の特盛りとコールスローとみそ汁で満腹してから行くと、どうなりますか。勿論、友人の家に着くと、どんな御馳走が出されても、なかなか食べる気にはなりません。もう既に安い飯でいっぱいになったので、どんなに高級なお料理が出されても食べる余地がありません。

 

今日の個所の21節にこう記されています。「主の杯と悪霊の杯の両方を飲む事は出来ないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着く事は出来ません。」

 

愛する神は私達の為、聖餐式に霊的な御馳走を用意しています。御自分は私たちの霊的ニーズを十分に満たして下さいます。しかし、私たちは他の所でそのニーズを満たしたら、主の食卓に着くと食欲が半減します。富や、権力や、快楽や名誉などで自分を満たそうとすると、神の遥かにもっと豊かな恵みの為に余地が足りません。

 

主イエスはこう言われました。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」神の義に飢え渇くと、私たちは主御自身の恵みの余地が十分あり、主は喜んで私たちを人生の誠の意味と希望と喜びで満たします。愛する兄弟姉妹、今日、大きな食欲をもって主の食卓に着きましょう。

 

礼典の意味;食卓を楽しむ】

次は、御馳走を頂く時、それをじっくりと楽しむべきです。ファーストフード・レストランの場合、早食いしても構いません。実は、そのような所はお客さんが食事を速く済むように工夫があります。椅子はあんまり楽ではないし、スピーカーでテンポが速い音楽が流されます。あるファーストフード・レストランで壁にこのような掲示を見た事があります。「お客さんは一時間以内で食事を済まして頂きます。」お客さんの食事が速く済むと、席を新しい客に譲る事が出来、レストランの利益が上がる訳です。

 

その反面、高級料理店に入るとそのフル・コースをゆっくり楽しむべきです。もし、早食いして10分で食事が済むと、料理長はそれを侮辱と受け取り、これからそのお客さんを自分のレストランから締め出す事になります。

 

聖餐式の際、私たちはその時とその恵みを大事にし、礼典の意味をよく考えながら、主の体と血のシンボルになるパンと杯を頂くのです。愛する兄弟姉妹、パンと杯を口にするとき何を考えていますか。主イエス・キリストの愛と恵みに集中したいと思います。

 

【食卓の一致】

食卓に着くと、もう一つの事がとても大事です。それは食べる人の一致です。皆さんの家での事はよく分かりませんが、家の場合、出来るだけ食卓で論争的な話をしないように努めます。当然、家庭内に意見の違いがありますが、一緒に食べる時にはその事を出すべきではありません。食卓で論争すると、その交わりを楽しむ事が出来なくなり、食欲も駄目になります。

 

同じように、主の食卓に着くと、私たちはキリスト者の一致を覚えるべきです。今日の個所に使徒パウロはこう記されました。「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」(17)

 

キリスト者は意見の違いがあっても、同じ主と救い主ですから、どんな事があっても私たちの一致を守るべきです。主イエスはこのように言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13章34−35)

 

私たちはイエス・キリストの弟子として互いに愛し合うならば、どんな問題でも穏やかに解決が出来、教会の一致が守られます。

 

【感謝して食卓を】

最後に食事を頂くと感謝を表すべきです。料理を一生懸命に準備して下さる者は頂く人のありがたさを聞くと、励まされ、嬉しいです。

 

同様に私たちは心からの感謝をもって主の食卓に着きます。この恵みは決して当然ではありません。実は、主イエス・キリストの十字架の贖い死の言い尽くせない程高い値段で私たちはこの食卓の恵みを頂く事が出来ます。罪の全く無い神の御子、主イエスは罪深い私たちの救いの為に自ら進んで私たちの贖いになりました。人間はその神の救いを勝得る事が出来ません。私たちはただ信仰を持ってそれを頂くのです。ですから、その最も貴重な賜物を自由に頂いた私たちは感謝溢れるべきです。

 

愛する兄弟姉妹、間もなく私たちは主の食卓に着きます。その為に五つの大事なものを用意しましょう。それは罪の悔改めと、霊的食欲と、礼典の意味をよく考える事と、主にある兄弟姉妹の一致を守る事と、最後に主に大きな感謝を持つ事です。主の食卓に着く時、このようなものがそろって受けると、必ず聖餐式は素晴らしい霊的な恵みの御馳走になります。愛する兄弟姉妹、主の食卓に着きましょう。(おわり)

2010年12月31日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , 新約聖書

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