「御力を表される主をあがめよ」ウイリアム・モーア2010.11.21.

聖書;詩編21篇1−14

 

 

【ボカサ大統領の戴冠式】

1977年に、中央アフリカ共和国のボカサ大統領は贅を尽くした戴冠式を行い、中央アフリカ帝国初代皇帝ボカサ一世に即位しました。中央アフリカは昔、フランスの植民地だったので、 その戴冠式はボカサ皇帝が憧れていたフランスの皇帝ナポレオンの戴冠式を手本として行いました。数え切れない臣民と海外からの招待客の前に、自ら宣言した皇帝ボカサは広大な王座に上がりました。その戴冠衣は78万個の真珠で飾られ、自分の頭に置いた金とダイアモンドの冠も極めって豪華でした。そして、自分の三人の妻の中で一人を皇后として選んで、彼女も高価な衣と冠を儲けました。その二人の服装代は500万ドルを越えたそうです。

 

 

 

更に、戴冠式の際に皇帝が60台の高級車ベンツをドイツから空輸、晩餐の為、パリから240トンのグルメ食品を注文したそうです。とても貧しい国なのに、ボカサ皇帝の戴冠式とお祝いは全部で国家年間予算四分の一程の 2,000万ドルかかりました。

 

戴冠式に皇帝の臣民は歌と踊りで彼を賛美し、誉め讃えました。そして、国の高官は挨拶し、新しい皇帝を大げさに誉め、忠誠を誓いました。実に素晴らしい光景でした。

 

残念ながら、二年たたないうちに武力政変によって、ボカサ皇帝は倒され、憧れたフランスへ流刑に処せられてしまいました。皇室が廃止され、中央アフリカ帝国はもう一度中央アフリカ共和国になりました。

 

【古代イスラエルの戴冠式】

聖書学者によりますと、今日与えられた御言葉、詩編第21編の背景は古代イスラエルの戴冠式でした。つまり、国王の戴冠式に詩編第21編が唱えられました。今日の御言葉を読むと、イスラエルの王の戴冠式と他の国の戴冠式の違いがよく分かります。と言うのは一般の戴冠式の目的は、王になる人物を高く上げる事です。ボカサ皇帝の戴冠式と同じように、その人物の力と知恵を賛美する為です。しかしながら、神の民イスラエルの王の戴冠式の目的は、おもに王を支え、祝福して下さる神様を賛美し感謝する為でした。

 

【神政政治から王政に】

イスラエルの王室の歴史を調べるとその違いが分かります。実は、イスラエルの元々の政治は神政でした。つまり、王は唯一の誠の神であって、イスラエルは神政国でした。そして、神は御旨を預言者に啓示して、預言者はそれを神の民に伝えました。しかし、イスラエルの人々は何よりも国王を儲けたかったのです。サムエル記上に彼等は預言者サムエルに言い張りました。「我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」(サムエル記上8章19−20)

 

預言者サムエルは王政に対して国民に警告しましたが、彼等は預言者の声を聞きませんでした。王国になると彼等の息子は王によって徴兵され、税金が高くなり、一番良い土地が没収される事になると注意したのに、国民は王を欲しくてたまりませんでした。神にとってそれはとても悲しい事でありましたが、人々の声に応じて国民の上に王を立たせました。

 

主はサムエルにこう言いました。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うが良い。彼等が退けたのはあなたではない。彼等の上に私が王として君臨する事を退けているのだ。」(サムエル記上8章7)

 

【神の前に責任がある王】

とにかく、イスラエルの民は王を儲けましたが、言われた通り王室を支える負担が重くのしかかりました。また、神の声を聞くよりも、王の声を聞いて国が色んなトラブルに巻き込まれてしまいました。しかし、王があっても、その王は誰よりも神の前に責任があって、その王の力と権限は神から授けられた事が皆に認められていました。そして、今日の御言葉の戴冠式の内容はその事実を明らかにします。

 

詩編第21編2節から朗読します。「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い、御救いの故に喜び踊る。あなたは王の心の望みをかなえ、唇の願い求めるところを拒まず、彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた。願いを聞き入れて命を得させ、生涯の日々を世々限りなく加えられた。御救いによって王の栄光は大いなるものになる。あなたは彼に栄えと輝きを賜る。永遠の祝福を授け、御顔を向けられると、彼は喜び祝う。王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ、決して揺らぐことがない」(2~8節)と記されています。

 

この御言葉を読むと神が王の為に何をなさったのか分かります。

 

始めに、力強い神から助けられ、災いから救い出された王は踊る程喜び、心強かったです。また、神は王の願いを叶え、豊かに祝福して下さいます。その祝福は金の冠を王の頭に置き、命を得させ、しかも長命も与えて下さいます。さらに、主の助けのお陰で、王は栄光と誉れを受けたのです。神様が共にいらっしゃる御臨在と多くの祝福の故に王は感謝し、溢れる喜びを感じました。

 

【主に頼る王は祝福された】

そして、神の御手から多くの恵みを経験する王は主を心から信じ、徹底的に主に頼りました。彼は神の愛と力に支えられていまので、揺らぐことがない信仰をもちました。

 

事実、イスラエルの王の戴冠式は王よりも、神を賛美する式と礼拝になりました。神の助けと祝福以外には国王は何もならないし、空しいことでした。

 

始めから終わりまで王の政権と成功は神の御陰である事が皆に明白になりました。

 

【王を神として拝んだ異邦人】

その反面、イスラエルの周りの諸国は自分のそれぞれの国王を神だと思い、主を礼拝しました。彼等は全能の真の神の代わりに、人間の前にひれ伏し拝みました。そして、その王は神のように振る舞って、自分の個人的の所有物として臣民を利用し、彼等の上に絶対的権力を振いました。例えば、エジプトの王は太陽神の子孫だと思われ、神殿で神として祭られていました。その神になる王の命令で大ピラミッドが彼等のお墓として造られ、人の上に絶対な力を持ちました。

 

【イスラエルの王】

イスラエルの王は勿論人間であって、戴冠式に国民皆はその事実を神の前に告白しました。つまり、神の祝福と助けがなければ王は全く無力になり、駄目になります。そして、8節に記されているように王と神の関係は王の信頼と神の慈しみに基づいていました。と言うのは、王は主の慈しみと助けを心から頼ると、神は彼を守り、豊かに祝福して下さいました。

 

【私たちは王以上に祝福されている】

愛する兄弟姉妹、それはイスラエルの国王の事だけではなく、私たち一人一人も信仰によって生かされ、信仰によって救われています。愛する神を信じ頼ると、主はそのあらゆる祝福と力を私たちに授け、希望と忍耐を豊かに授けて下さいます。そして、私たちはイスラエルの王よりも神によって遥かにもっと祝福されています。彼等はイエス・キリストの受肉以前の人間でしたが、私達は約束された救い主、神の御子主イエスを知る事が出来ます。その御子は、私達の「道であり、真理であり、命であります。」その道を通れば、誰でも父のもとに行く事が出来ます。その御子は十字架で私達の全ての罪を御自分の身に受け、私達に豊かな命と永遠の救いを授けて下さいました。平和の君イエス・キリストに従い、信頼するとき、私達はイスラエルの王よりも心強い、多くの恵みを授けられます。私達は使徒パウロと共にこう言います。「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被贓物も、私達の主イエス・キリストによって示された神の愛から、私達を引き離す事は出来ないのです。」(ロマ838~39

 

愛する兄弟姉妹、考えて見ますと、神の大きな愛と恵みの故に私達はイスラエルの国王と同じように又こう宣言出来ます。

「主よ、私たちはあなたの御力を喜び祝い、御救いの故に喜び踊る。あなたは私たちの心の望みをかなえ、唇の願い求めるところを拒まず、 私たちを迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠を私たちの頭におかれた。願いを聞き入れて命を得させ、生涯の日々を世々限りなく加えられた。御救いによって私たちの栄光は大いなるものになる。あなたは私たちに栄えと輝きを賜る。永遠の祝福を授け、御顔を向けられると、私たちは喜び祝う。私たちは主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ、決して揺らぐことがない。」

 

愛する兄弟姉妹、私達もその信仰と希望を抱き、神と共に歩みたいのです。(おわり)

 

 

2010年11月27日

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