「イエスの十字架を無理に担がせ」奈良伝道所・宮崎契一牧師2010/6/13

マルコによる福音書151623

◆兵士から侮辱される

 16:兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。17:そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、18:「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。19:また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。20:このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。

◆十字架につけられる

 21:そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 22:そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。23:没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。

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【神様のことを深く知る】

今朝は、この講壇交換を通して初めて西谷伝道所の皆さんと主を礼拝する時が与えられ、神様に感謝をしています。マルコの福音書の御言葉に今朝聞きたいと思います。私たちが信仰生活をするという時に、大事なことだなあと思わされていることがあります。それは、改めて、私たちが神様のことを深く知るということです。これは、信仰者にとっては当たり前のことかもしれませんけ

れども、日々の信仰の歩みの中で自分のことで精一杯になり、いつのまにかこのことから通り過ぎてしまっていることがあるのかもしれません。

 

【神様のなされる業を知る】

神様からの招きによって、私たち信仰者にどのような希望が与えられているのか。私たち聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているのか。また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか。あるいは、神がその御子であるキリストにどのようなことをなさって、このキリストは私たちのためにどのように歩まれたのか。そのような、私たちに与えられている神様の御姿。それを覚えることこそ、私たちにとって本当の信仰の力です。

 

【イエス様が受けられた二つの裁判】

今お読みしたところでは、イエス様がピラトの兵士たちから弄ばれ嘲られている、そのような姿があります。福音書の受難の物語の中で、イエス様は二つの裁判を受けられました。一つはユダヤ教の議会による裁判です。祭司長、長老、律法学者たちによる裁判。そして、もう一つは当時ユダヤを支配しておりましたローマ帝国、そのピラトの前での裁判です。

 

祭司長、長老、律法学者たちの裁判では、イエスは死刑にすべきだということが決議されました。そして、このピラトの前の裁判では、イエスを十字架に付けるということがさらに明らかにされていきます。

 

それらの裁判の後には、イエス様が本当に人間のなされるがままにされていくようなお姿があります。最初の裁判の後には、1465にありますように、「それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、『言い当ててみろ』と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った」とイエス様が人々になぶり者にされていく姿があります。

 

そして、ピラトの裁判の後にも、17節からそのことがずっと言われていくのです。イエス様は紫の服を着せられ、茨の冠をかぶらされ、兵士たちから「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼されました。

 

【イエスを王として迎えるのを拒否する人間】

しかし、これはもちろん、イエスを自分たちの王として迎えようとしているのではありません。この方を自分たちにとっての本当の王とし、この方を崇めようとするのではないのです。むしろ、明確にイエスは自分たちの王ではない、と拒否をします。19節からは続けて、「また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した」と言われていきます。結局は、最初に着せた紫の服も脱がせて、元の服を着せる。ただイエスを侮辱するためのことだったです。イエスを自分たちの本当の王として迎えるのを拒否するのです。

 

けれども、私たちはこのような主イエスのお姿を聖書の中で見る時に、一体どのように思うでしょうか。ああイエス様がこんな目にあっておられる。苦しかったのだろうなあ。辛かったのだろうなあ。そのようにイエス様の苦しまれるお姿を、何か他人事のように見ることがあるのかもしれません。

 

【神様御自身が愛する御子を打たれた】

むしろ、ここで大切だと思われることは、神様御自身が愛する御子を打たれているということです。神御自身の裁き、神御自身の怒りを、この御子が背負い、それを耐え忍ぶようにして、十字架へと向かわれるということなのです。そのことが、この主イエスの苦しみだと思うのです。イエス様は十字架上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。神様の愛する御子としては、信じられないような言葉です。しかし、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われるような、神の怒り・神の裁き。それを、本来は罪人である私たちが受けなければいけませんでした。そういったものを、主は背負って、この真の王は、まるで王ではないかのような惨めなお姿で、十字架へと向かわれるのです。

 

【十字架の道】

この辺りの受難の物語を見ると、イエス様はただ人々になされるがままです。そこには、御自分で十字架に力強く進んで行くという姿はないかもしれません。けれども、十字架は決してただ人間的に追い詰められて、主イエスが連れて行かれるところではありません。むしろ、それは、神様の御計画の中でなされていくのです。父なる神の御計画の中で、イエス様はそのことを受け入れられて、ただその神の御心がなされることを求めて、確かに十字架へと歩まれます。このような主のお姿を私たちは見たいと思うのです。神様の御計画の中で、主イエスはたとえ周りがどのような状況であっても確実に十字架へ向かわれる。罪人が受けるべき、神の裁き・神の怒りを、この御子は背負って、このような惨めなお姿で歩まれるのです。

 

【キレネ人シモン】

そこへ、キレネ人シモンという人が来た、と言われています。キレネというのは、今の北アフリカにあるエジプトの隣のリビアという国のある場所です。当時そこには多くのユダヤ人たちが住んでいました。そのキレネ人シモンが「田舎から出て来て通りかかった」というのです。この田舎という言葉には、畑という意味もあります。ですから、シモンは恐らくはキレネ出身のユダヤ人であったのだろう。そして、当時はエルサレムに住んでいて、朝いつものように畑の仕事を終えて、通りかかったのではないかと考えられているのです。

 

【十字架を無理に担がせ】

いずれにしても、このシモンは何かイエス様を見にここに来たのではないようです。このお方にお会いするために来た、という様子ではありません。むしろ、たまたま通りかかったということなのです。そのシモンに、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせました。これは、ローマ帝国の権力をもって強制的にそのことをさせられたということなのです。このようにして、シモンは全く思いがけず十字架を背負う者とされました。

 

私たちは、無理やりということを見ると、あまり良い思いがしないかもしれません。私たちは、どうしても自分の考えや思いが一番大切なもののように思います。ですから、自分の思いや願いではなく、それ以外のところに連れて行かれるようなことをあまり良く思わないのです。しかし、私たちにとって、どうしても無理やりにさせられなければいけないことがあります。それは、このシモンのように主の十字架を背負わされるということです。

 

【私たちの過去の歩み】

私たちが信仰へと導かれた時のことを思い返してみても、私たちはシモンと同じだったのではないかと思うのです。たまたまそこを通りかかった。その時に思いがけず迫られるようにして背負わされたのではないでしょうか。自分自身で、自分を捨てて十字架を背負うことができた、などということはないはずです。私たちは自分で自分を捨てることはできないのです。私たちは、まさに迫られるようにして、無理に十字架を背負う者とされたのではないか、と思うのです。私たちは、それぞれ救いに入れられた時の状況はそれぞれ様々でしょう。しかし、それ以前は、自分の思いに希望を持ってそれに依り頼んで生きていた。このシモンもそうであったと思います。しかし、それは罪に満ちた歩みなのです。イエス様を自分たちの王とするのではない。自分が王になっているかのような歩みです。そして、そのような自分はもはや私たちの手によってはどうすることもできないのです。

 

【十字架を背負わさるのは恵み】

ですから、私たちは無理にこの恵みを頂かなくてはなりませんでした。神様から、無理に背負わされなければなりませんでした。では、背負わされたところで私たちにどのような救いが与えられたのでしょうか。それは、もはや自分自身の望む歩みではなくて、神御自身の望む歩みをさせられる者となったということです。十字架を背負わされるということは、自分の思いを超えて全く思いがけず、神様のために生きる者とされたということなのです。イエス様はまさに、そのような歩みをされています。ただ神のために歩んでおられます。ここでシモンは、そのような神様の御計画の中に巻き込まれるようにして背負わされることになったのです。

 

【共にイエスの十字架を背負う者】

神様の御計画の中で、神の愛する御子はそれを受け入れ、神に打たれたように十字架へ向けて歩まれる。シモンはそれに巻き込まれるようにして、共に十字架を背負う者となりました。そのようなシモンの姿は、決して格好の良い姿ではなかったはずです。主と共に、されこうべの場所、と言われるゴルゴタに連れて行かれることになりました。また何よりも、主イエス御自身がそのように格好の良いお姿ではありませんでした。しかし、そういうお姿である主イエス様は、これ以上ない確かな歩みをなさいます。

 

【没薬を混ぜたぶどう酒】

23節には「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった」とあります。この没薬を混ぜたぶどう酒というのは、痛みを和らげる麻酔のようなものであったとされます。それをイエス様にお与えになった。しかし、イエス様は与えられたのだけれども、それをお受けにならないのです。つまり、イエス様はこの十字架の痛みを曖昧にすることになく、正面からその痛みに向き合われるのです。この痛みはもちろん、イエス様御自身の肉体的な痛みということがあるのですけれども、やはり十字架ということを考えればそれは罪の痛みであったでしょう。イエス様は人間の罪に正面から向き合われるのです。人間の罪は限りなく深く根深いものです。私たちが自分自身の中にある罪の全てを知り尽くすことはできない。私たちがとても正面から向き合うことが出来ないものです。そういう闇に、主は向き合って十字架へ向かわれるのです。

 

【シモンは悟った】

そういうイエス様と共に歩むシモンは、主のお姿を見て悟らされたのかもしれません。今自分が抱えている十字架よりも、実はもっと重いものが自分の中にある。罪が自分の中にある。今主はそれを担って十字架へ歩んでくださっているのだ、ということです。このお方こそ、私たちにとっての本当の王である。私たちが喜んでお迎えすべき王である。そのことを知ったのではないかと思うのです。

 

私たち信仰者は、このシモンに与えられた神様の恵みを受けて、イエス様のみ跡を辿る者とさせられました。それは、人の目にはたまたま通りかかったということであったかもしれませんが、神様の御計画の中に確かに置かれていたのです。

 

【真の王道を歩まれた主イエス】

そして、その歩みは主イエス御自身がそうであったように、決して人の目に見栄えの良い歩みではないでしょう。しかし、このような主のお姿にこそ、私たちが誉め称えるべき本当の王として姿がある。神様への妨げとなる、私たちの中にある根深い罪を、その重荷を、全て背負って歩まれます。そして、この方はやがてそれに勝利をされるのです。この主イエスは、シモンと同じように、罪を担った姿で私たちの前を歩んでくださいます。ですから、たとえ私たちの従うその姿が見た目にはどのように惨めであっても、この方が罪の重荷を担ってくださるために、私たちは安心をして、感謝をもって、このお方の後を歩んで行くことができる。主に従うことへと招かれているのです。私たちが、改めてそのような神様の恵みを受けているということを覚えていきたいと思います。(おわり)

 

2010年06月13日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

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