「ある母親の信仰」ウイリアム・モーア2010.5.9.

  

マタイによる福音書15章21−28

◆カナンの女の信仰

 21:イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。22:すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23:しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながら    ついて来ますので。」24:イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25:しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26:イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、 27:女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28:そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。    

 

【「母の日」の起源】

御存知のように今日は母の日です。改革主義キリスト教会は聖書に載っていない行事や祭日をあまり重んじませんけれども、母の日は特別なケースです。何故なら、母の日は教会で生まれたからです。アメリカのウェストヴァージニア州出身、アンナ・マリー・ジャービス夫人が自分のお母さんの死後2年経った1907年5月12日に、亡き母親の愛と信仰を偲び、そして、全ての母親に感謝と敬意を現す為に、母が忠実に日曜学校の教師をしていた教会で、始めての母の日をお祝いました。アンナ・ジャービスは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案し、1914年に「母の日」はアメリカの祝日になり、5月の第2の主の日と定められました。更に、母の日の運動が段々国際的になり、現在、世界中、約150国で祝っています。

 

母の日に私達は母親に敬意と感謝を表して、母を通して頂いた多くの祝福と恵みの為に神様に感謝します。私達例外なく、母親から生まれましたので、皆はこの母の日に参加出来ます。

 

【母の愛】

恐らく母親から一番貴重な恵みはその愛ではないかと思います。生まれてから、いや、生まれる前にも、その特別な愛に囲まれるのは、私達の健全な成長にとても大事です。実は、人間は小さい時からその愛された経験がなければ、愛する事がなかなか難しくなります。

 

【ある孤児の話】

最近、ニュースで大変悲しい記事を読みました。皆さんも多分見たと思います。アメリカで、ある家族が6歳のロシア人の男の子を養子に受け入れました。その子は国営孤児院で育てられましたが、あまり大きい施設なので、抱いたり、可愛がったり、親切を受けたりする事が全く不足だったので、成長がおかしくしくなりました。肉体的にちゃんと成長しましたが、心の成長は正常ではありませんでした。ですから、新しい家族に入った事から、大きな問題が発生しました。その子には新しい両親と兄弟との緊密(きんみつ)な結び付きがなかなか出来ませんでした。そして、彼は非常に暴力的になり、家に火を付けて皆を焼いてしまうと何回も脅しました。その爲に、家族は大変恐れて、ロシアへの片道航空券を買って、7歳になった子をスチュワーデスに預けて、一人でロシアへ帰らせました。この事件は国際的問題を起して、ロシアはアメリカへ孤児を養子に出す事を中止しました。男の子は小さい時、愛されなかったので、愛する事が出来なくて、そのとても悲しい結果となってしまいました。

 

【主イエスに褒められたある母親の信仰】

私達は、それぞれの母親から大変貴重な賜物を頂いたので、感謝を込めて敬意を表すべきだと思います。また、私達に愛する母親を下さった神様にも有り難く思うべきです。

 

今日与えられた御言葉に主イエス・キリストはある母親の信仰と愛を誉めて下さいました。「あなたの信仰は立派だ」と言ってくれたのです。自分の病気の娘を愛して、彼女を救う為に大きな信仰を現しました。この個所を通して、恐らく私達は自分自身の母の強い愛を見る事が出来ます。そして、主イエスが誉めてくれたその母親の信仰と愛から私達はきっと学ぶ事が出来ると思います。

 

もう一度、今日の御言葉をよく聞いて下さい。特にその母親の行動と言葉に注意を集中して下さい。「イエスはそこをたち、テルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子達が近寄って来て願った。『この女を追い払って下さい。叫びながらついて来ますので。』イエスは、『私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか使わされていない』とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助け下さい』と言った。イエスが、『子供達のパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑は頂くのです。』そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。』そのとき、娘の病気は癒された。」 

 

【カナン人の女】

主イエスが信仰を誉めた女の人についてあまり知られていませんが、彼女はパレスチナの北部に住むカナン人でした。カナン人はパレスチナの先住民であり、宗教と民族の違いでユダヤ人がカナン人を見くびって、出来るだけ彼らとの交際を避けたのです。その女の人は婦人であって、娘一人がいました。しかし、その婦人の名前も年齢も教えられていません。けれどもその母親の立派な信仰の故に主によって誉められ、御言葉に載っています。

 

【なぜ彼女は立派か?】

彼女の立派な信仰の特徴を調べましょう。先ず、彼女は信仰から来る恵みを得る為に色んな障壁を超えて主イエスに頼みました。ユダヤ人に対して、とても弱い立場だったのにも関わらず、彼女は主に近寄って来て、『主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫びました。娘の為にプライドを捨てて、皆が聞こえるように自分の悩みと願いをユダヤ人に打ち明けました。また、彼女はリスクの障壁を超えてイエスに娘の癒しを乞いに来ました。と言うのは、堕落した先住民として無視されたら、大変空しくて、失望したでしょう。しかし、その母親は娘めの為にそのリスクを冒して全ての希望を主イエスに掛けたのです。

 

【神の恵を妨げるものは?】

私達も信仰を現す為に色んな障壁を超えなければなりません。多くの人々はこの世の事であまり忙し過ぎて霊的ニーズを押し殺します。また、現代の社会に住む私達は科学的証拠がなければ、なかなか自分の目で見えない事を信じがたいです。更に、プライドは私達にも信仰への障壁となります。プライドの故に私達は自分自身の力に頼りたいのです。神の助けに頼ると自分の弱さを認めなければなりません。信仰の素晴らしい恵みを頂くように私達は神の助けによって様々な障壁を超えなければなりません。

 

今日の個所に於ける母親はどう言う動機でその信仰への障壁を超えられましたか。やはり、娘の為の愛の故にプライドを捨てて、そのリスクを取る事が出来ました。母親はその子の為だったら、そこまで出来たのです。それは母の愛です。今日の母の日の際、私達はそれぞれ自分の母の愛を覚え、感謝を表します。

 

病気の子の母親は娘を助けようとする為に多分色んな手段を取りましたが、全ては失敗しまいました。ですから、自分を低くしてイエス様の前に出て来て、「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と必死に叫びました。恐らく彼女は主イエスの奇跡的力を聞いて、主の憐れみを乞うと決断しました。ですから彼女はイエスの力と憐れみを信じ、癒しを受ける為に娘を連れて来て、一生のお願いを実現させようとしました。

 

【諦めず執拗に願う】

その女の人の信仰の特徴にもう一つありました。彼女は自分の切なる願いが叶えられるまでに固執していました。諦めませんでした。彼女は出て来て、必死に願いを叫ぶと、間違えなく弟子達が彼女をそのまま帰らせようとしました。しかし、女の人は応じませんでした。弟子達は彼女を扱う事が出来なくて、イエスに、「この女を追い払って下さい。叫びながらついて来ますので」と頼みに来ました。そして、主はその女の信仰を試す為にこうおっしゃいました。「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と彼女を断りました。しかし、彼女はnoと言う答えを受け入れませんでした。逆にもう一度主の憐れみを乞いました。「主よ、どうかお助け下さい」と叫んだのです。いくら断られても、助けを頂くまでに帰らないと決断しました。つまり、主の癒しの力と憐れみを心から信じて、娘の為に諦めませんでした。それは信仰の本質ではありませんか。自分の弱さとニーズを心から認めて、他の助けがないから、諦めないで主の憐れみを乞う事です。

 

神の恩寵に頼る女

最後に彼女の信仰は神の恩寵に基づいていました。つまり、自分の善の故に主イエスの助けを求めませんでした。「私は善い人だから、あなたの助けを頂くべき」と言う態度を取らなかったのです。逆に、自分の弱い立場を認めて、ただ主の恩寵に頼りました。主イエスは更に女の人の信仰を試す為、「子供達のパンを取って小犬にやってはいけない」と言うと、彼女はそれを素直に受け取りました。多くの人は小犬に比べられたら、酷い侮辱と思って、怒ってそのまま帰りますが、彼女は逆にこう言いました。「ごもっともです。」つまり、自分の善や力や地位などの故に神様の救いを勝ち得る事が全く不可能であるとよく分かったのです。小犬は子供達のパンを取る資格が全くないと良く分かったのです。しかし、それを知りながらでも主イエスの憐れみを諦めませんでした。ですから、「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑は頂くのです」と答える事が出来ました。つまり、「私は主の助けを頂く価値がないですが、主の大きな憐れみと恵みに、きっと残り物があるはずです。そのものをお願いします」と懇願したのです。その驚くべき答えを聞くと主イエスは感動しました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と返事して下さいました。そして、「その時、娘の病気は癒された」と記されています。

 

【主イエスの完全な愛ゆえに】

弱くて罪深い私達もその女の人と同じ立場ではありませんか。私達も神様の恵みと救いを頂く価値がないですが、御自分の大きな愛の故に私達にも授けて下さいます。十字架で主イエスは私達の罪の為の罰を御自分の身に受けて、神様の目には私達は完全に清められました。ですから、私達は神に和解され、御自分の子供として歩む事が出来ます。希望と喜びを持って、その大きな恵みと助けの内に生きる事が出来ます。

 

【カナンの女の信仰のように】

愛する兄弟姉妹、今日の御言葉に於ける母親の信仰は私達に模範を示します。彼女はイエス様の助けを頂く為に色んな障壁を超えました。自分のプライドを捨てて、へりくだって主の助けを求めに来ました。また、リスクがあってもイエスを心から信じたのです。更に、彼女は自分の切なる願いが叶えられるまでに諦めませんでした。そして、その上に、自分の善や力や地位などの故に神様の救いを勝ち得る事が全く不可能であるとよく分かって、ただ主の恩寵、主の恵みに頼りました。

そのお母さんの信仰を見ると、主イエス・キリストはこうおっしゃいました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。」

 

どうか、私達一人一人も神の助けによってその同じような信仰を現す事が出来ますように祈っております(おわり)。  

2010年05月09日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

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