「私たちの使命」ウイリアム・モーア2010.4.11

聖書:マタイによる福音書28章16−20

◆弟子たちを派遣する

 16:さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。17:そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。

 18:イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19:だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20:あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

【イースターの二つの賜物】

先週の主の日、私たちはイエス・キリストの復活を一緒にお祝いしました。主イエスは敵の手によって十字架につけて殺されましたが、神の力によって三日目に蘇られたのです。その神の奇跡的しるしを通して、私たちの為に二つの素晴らしい賜物が与えられています。

 

先ず、復活を通して父なる神が主イエスの十字架の死は私達の為の贖い死であった事を承認されました。ですから、主の贖い死と復活のお陰で罪の滅ぼす力が壊されました。

 

そして、更に、主の復活を通して神は死の力も征服して下さいました。神はイエス・キリストを復活した、その同じ力で、私たち、イエスを信じる者を永遠の命に復活して下さいます。この二つの貴重な霊的賜物は私達に与えられています。

 

【弟子たちに与えられた使命】

主イエスは蘇られ、何回も御自分の弟子達に現れました。そして、天に上げられる前に彼等に大事な使命を託したのです。主は「さようなら」と手を振って、そのまま天国へ帰ってしまったのではありませんでした。先ず、大事な努めを与えて下さいました。イエス・キリストは弟子達に霊的な賜物を豊かに授けてから、大きな使命と努めも委託したのです。

 

その努めは今日の御言葉に記されています。18節からもう一度朗読させて頂きます。

 

「イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」

 

【全世界の民に福音を】

蘇られた主イエス・キリストはこの大きな使命を、弟子達を始め私達、御自分の教会に与えたのです。「行って、世界の全ての民をわたしの弟子にしなさい」と委託したのです。それは教会の主な使命であります。

 

イエス・キリストの福音を全世界の人々へ愛の業と言葉を通して伝え、そして、主を信じ従う者になるように導きます。天国に帰る前に主イエスはその大きな働きを私達に下さいました。

 

考えて見ますと、世界の全ての民を主の弟子にすると言う使命はとても大きいです。人類学者によりますと、この世には約24,000の言語、宗教、習慣などの文化的諸特徴を共有する集団があります。言うまでもなく、その全ての民に福音を述べ伝えるのは莫大な事業になります。主イエスは12人の弟子達に、また私達に、御自分の教会にその前代未聞の極めて大きいな働きと使命を与えるのは、ある面では不思議であります。と言うのは人力の限りではそれはとても無理です。しかし、神様の助けと導きがあれば、不可能な事は十分可能になります。

今朝、御言葉に於けるこの大きな使命を学びたいと思います。また、この使命を果たす為の私達の役割について一緒に考えて頂きたいです。

 

マタイによる福音書によりますと、マグダラのマリアともう一人のマリアが主イエスのお墓を見に行くと、突然天使が現れ、こう言われました。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体のおいてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」(28:4−7)

 

【ガリラヤに行け】

更に、その二人が言われた通りに弟子達に知らせに行こうとした時に、蘇られたイエス・キリスト御自身が現れ、こうおっしゃいました。「おはよう。恐れることはない。行って、私の弟子たちにガリラヤへ行くように言いなさい.そこで私に会うことになる。」(28:9−10)

 

 

 

【ガリラヤで復活の主イエスに出会う】

二人のマリアは主イエスのお話を弟子達に伝え、彼らは言われた通りにガリラヤにある山へ行きました。その時点で今日学ぶ個所が始まります。弟子達はどんな気持ちでエルサレムから100キロ離れたガリラヤへ歩いたのでしょうか。聖書に記されていませんが、恐らく彼等は、「もし女達が言った事はただヒステリーから来たものだったら、この旅は本当に無駄になるだろうな」と思った事かも知れません。しかし、弟子達はまた希望を持って、その長い100キロの旅をしました。そして、指示した山に登ると、蘇られた主イエスに会いました。主は死んでいません。生きておられました。主イエスに会うと、全てが変わりました。無意味で悲劇的に見えたイエスの十字架の死は神の勝利と人間の為の救いの道になりました。

 

【復活信仰】

実はイエス・キリストの復活がなければ、主は数え切れない程のローマ帝国が作った他の犠牲者と同じように忘れられてしまったでしょう。使徒パウロが書いた通りです。「キリストが復活しなかったら、私達の宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(コリントの信徒への手紙一15:14)

 

 

しかし、弟子達が蘇られた主イエスに会うと、彼等の宣教と信仰は最も大事なものになりました。ですから、私達の使命、私達の宣教も主イエスの復活に基づいています。

 

【主イエスを礼拝する】

弟子達はイエス・キリストに会うと、次にどうしましたか。彼等は「イエスに会い、ひれ伏した」と記されています。つまり、弟子達は主イエスを礼拝したのです。蘇られた主イエスに会うと、彼等は先ず礼拝しました。何故なら、弟子達は主の十字架の死を遠くからでも目撃して、その死を確かめました。しかし、その山の上で死んで後、葬られたイエスは彼等の前に生きていました。ですから、彼等はイエス・キリストを神の独り子として礼拝しました。

 

弟子達の使命は礼拝の中で授けられていました。そして、現在、私達の使命も礼拝の中で実感します。ヘブライ人への手紙にこう書いてあります。「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。」(10:25)

言うまでもなく、礼拝を通して私達は互いに励まし合います。更に、礼拝で神の愛と力を覚え、御言葉によって私達の為の主の声を聞こえます。誰かがこう言いました。「宣教の燃料は礼拝であります。」

 

この同じ17節にまたこう書いてあります。「しかし、疑う者もいた。」蘇られた主イエスが弟子達の目の前に立てられたのに、疑う者もいました。おそらく、イエスの姿は幻想だと思ったのでしょう。しかし、主が次の言葉をおっしゃると、全ての疑いが晴れたと思います。何故なら、主イエスのみが自分自身についてそのような主張が出来ました。それは、「私は天と地の一切の権能を授かっている。」

 

【天地の一切の権能をもつイエス様】

主イエスは御自分の贖い死と復活によって、天の父なる神によって高く上げられました。つまり、主イエスは父なる神によって天と地の一切の権能を授かっています。

 

教会の頭であるイエス・キリストはその力と権威を持っていますので、御自分の働きをすると私達にも必要な力と権威が与えられています。と言うのは、私達は神の御旨に叶うと、特別な力と知恵が授けられています。ただ、私達の力ではなく、御霊を通して主イエスから力を頂きます。

 

【父と子と聖霊の名によって洗礼を】

そして、次の使命を聞くとその力の必要性が明白になります。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

イエス・キリストは必要な力と権威を与えて下しますので、私達は行って、すべての民を主の弟子にする事が出来ます。唯一の誠の神の愛と救いを分ち合って、祝福の恵みの源、御子イエス・キリストに従う事を勧めるのです。それは教会として、そして個人として私達の主な使命であります。私達はイエス・キリストによってこそ、その使命が与えられています。勿論、私達が特別に善いからその勤めが授けられた訳ではありません。私達は誠の糧を自由に頂いた乞食のようです。ですから私達は他の乞食にその恵みの源を教えたいのです。神の善いお知らせを分ち合いたいのです。

 

神の民として誠の糧を自由に頂いた私達はこの最も大事な勤めが与えられました。ある場合は遠い所へ行って、全ての民を主イエス・キリストの弟子にしますが、その機会が近い所にも勿論沢山あります。身内の者、近所の者、同僚、友人、知人も知っていようがいまいが神の愛とイエス・キリストの福音に飢えています。沢山頂いた乞食の私達は、愛の業と言葉によって他の乞食にその神の豊かさから分ち合います。

 

全ての民を主の弟子にするだけではなく、彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、主イエスが命じておいた事を全て守るように教える事も私達に委託されました。つまり、洗礼と言う礼典で新しい信者をキリスト教会に招き入れ、そして、信者の成長の為に聖書に於ける主の教えを伝えます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」この事は私達の最大の使命であり、キリスト教会の優先的勤めです。

 

その最大の使命を果たす為に、最後に主イエスはこのように約束します。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

【聖霊降臨の約束】

蘇られたイエス・キリストはすぐに天に上げられましたが、御自分の聖霊を信じる者に送って下さいました。その聖霊は私達を助け、励まして、力と知恵を与えて下します。私達は何処へ行っても、どんな反対と躓きに直面しても主イエスは御自分の聖霊を通して私達と共にいらっしゃいます。

 

愛する兄弟姉妹、その約束が与えられていますので、力強いですね。授けられた使命を果たせる為のイエス・キリストの私達と共にいらっしゃる御臨在です。神御自身はこう言われます。「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない。」(ヘブライ人への手紙13:5)

 

【私たちの宝を埋もれさせないで】

イタリア人のルイジ・タリシオは19世紀の有名なヴァイオリン業者でした。彼はヨロッパ中、優れたヴァイオリンを売買して、その商売を独占していました。タリシオさんはヴァイオリンその物を愛していてから、特別に優れた楽器がお店に入った時、それを売り出したのではなく、自分の個人的の収集に加えました。その貴重なヴァイオリンを物置に納めて、全然弾きませんでした。ただ沢山持って満足しました。タリシオさんはある日、高齢で無縁の死を迎えました。当局が家に入って物置を覗くと驚きました。246台の超一級のヴァイオリンが長年の沈黙のままにそこには置かれていました。

 

神の愛と恵みを知る者、私達は貴重な宝を預かっています。しかし、タリシオさんと違って、私達は感謝と喜びを持って、その宝を生かして、分ち合います。(おわり)

2010年04月11日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

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