「エルサレムへの道」ウイリアム・モーア2010.3.21

 

マタイによる福音書21章111◆エルサレム入城

  1:一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、  2:言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。3:もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」4:それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。5:「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」

  6:弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、7:ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。8:大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。9:そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

 10:イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。11:そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエ    スだ」と言った。

 

【凱旋行進】

イエス•キリスト当時のローマ帝国の事ですが、皇帝か将軍が国の為に大きな戦勝を得た時、勝利の入城が与えられました。つまり、勝利者が帝国の都のローマに帰ると、特別な祭日が宣言され、素晴らしい行進があったのです。

 

行列の先頭に数十人のラッパ手が勝利の入城を通告しました。次は何十台もの荷馬車が敗北した敵から取った戦利品を展示したのです。その後は神殿で生け贄になる何頭の立派な白い牛が歩きました。そして、白い牛の後ろに囚人になった負けた王とその家族を始め、縛られた敗北軍の偉い幹部も歩きました。次は、勝利者の補佐たちが立派な馬に乗ってローマに入りました。その次は、勝利者自身が現われたのです。彼は四頭の白馬が引いた素敵な二輪戦車に乗りました。その後ろに勝利者の息子達と幹部が入りました。そして、最後に勝利を得た大軍が皆の前に分列行進しました。

 

貴族から平民まで、全てのローマの住民が道路に並んで、勝利者の行列を歓迎しました。その勝利の入城は大抵3時間程かかり、大変素晴らしい光景を呈したのです。

 

【主イエスのエルサレム入城】

今日のテキストとなる御言葉も、「勝利の入城」を語っています。何故なら、神の独り子、王の王、主の主、永遠の唯一の救い主がイスラエルの都エルサレムに入城されました。そして、その勝利はローマの皇帝の勝利よりも遥かに素晴らしいものになりました。その勝利は私とあなた、また全人類の為に、罪と死の上に勝利となったのです。

 

【主イエスはロバに乗って】

皇帝の栄光に富む入城を先ほど学びましたが、主イエス・キリストの入城はどのような光景だったのでしょうか。先ほど読ませて頂いた個所を見ますと、主イエスは人から借りたロバに乗ってエルサレムに入城されました。そして、8節を見ますと、このように記されています。

「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ』」

と書いてあります。    

 

【勝利の入城】

皇帝とイエス・キリストの入城は両方とも「勝利の入城」と呼ばれていますが、その光景は大変対照的でありました。皇帝の入城は非常に立派であって、勝利者の軍事的と政治的力を皆の前で見せびらかしました。反対にイエス・キリストの入城は手作りのもので、御自身の謙遜と柔和をはっきりと見せたのです。また、皇帝の入城は莫大な費用が掛かり、その富を誇らしげに示したのですが、イエス様の入城は一円も掛からなかったので、御自分の富はこの世の富ではない事をはっきりと示したのです。

 

【馬でなく】

イエス・キリストはロバに乗ってエルサレムに入りました。神の御子であり、王の王として主イエスは皇帝のように四頭の白馬が牽いた素敵な二輪戦車に乗ったはずですが、主はわざわざロバを選んで、御自分の入城の為に用いられました。その理由はたたロバしか借りられなかったのではありません。神の子として奇跡的に世界一の馬も手に入れられた事でしょう。その時代、馬は高かったので、金持ちや偉い軍人や為政者などだけが馬に乗りました。そして、一般の人は地味なロバを使ったのです。

 

【ロバに乗って】

馬と比べると、ロバはあまり格好もよくなくて力もなかったのですが、小さくて餌もあまり必要としませんでした。その割に丈夫な動物でした。それで、ロバは乗り物よりも荷物を運ぶ物として使われました。実は、イエスとその弟子達はイスラエルを巡回した時、いつも歩きました。今日の御言葉の時だけロバに乗ったのです。

 

当時の背景を見ますと、馬は戦争と政治的力と富とを伴いました。ですから、平民の出身である平和の君イエスは勝利の入城の際、御自分の謙遜と柔和を現す為にロバに乗って都エルサレムに入りました。

 

【聖書預言の成就】

しかし、その事を現すと共にロバに乗る事によって主イエスは旧約聖書の預言を成就されました。イエスの時代の500年程前に預言者ゼカリヤが神の導きによって救い主の出現を預言しました。そして、その救い主はロバに乗って入城されました。旧約聖書のゼカリヤ書の9章9から朗読します。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶる事なく、ロバに乗って来る、雌ロバの子であるロバに乗って。私はエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」

と記されています。

 

主イエスはロバに乗ってエルサレムに入城したのは、御自身こそがその約束された救い主と平和の君である事の徴であります。 実に、旧約聖書が語っている預言がここで成就しました。謙遜で柔和である王は罪と死の上に勝利を得て、霊的平和を全人類の為にもたらして下さったのです。

 

【弟子たちは上着を脱いで】

ロバに鞍がなかったので、イエスの弟子達は自分の上着を脱いでロバにかけて主はそこに乗りました。いくら言ってもそれはあんまり素敵な光景ではありませんでした。ロバは立派ではないし小さいから主の足は道路に引きずりました。しかし、エルサレムの人々はそのイエスとロバの珍しい姿を見ると、瞬間的にその意味を悟りました。彼等もゼカリヤの預言を覚え、その救い主を切に待ち望んでいました。ですからその主の姿が現われると彼等は大喜びで救い主を都に歓迎したのです。

 

【群衆は服と木の枝を道に敷いて】

そして、 尊敬を現す為に国の習慣に従って自分の服と木の枝を道に敷いて、主がその上を通りました。群衆はこのように叫びました。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」ところで、ホサナと言うヘブライ語は「どうか救って下さい」と言う意味なのです。

 

【イスラエルの救い主】

群衆はイエスをイスラエルの救い主として認めたのです。そして、大きな希望を持って救い主をエルサレムに歓迎しました。しかし、彼らの希望はイエス御自身が自分をイスラエルの国王として宣言し、支配国のローマ政権に対して乱を起こし、そしてイスラエルの自由と栄光を回復するのです。何よりもそのような軍事的救い主を期待し、望んでいました。ローマの力をローマのような力で壊せるような救い主を欲しがっていました。そして、ナザレのイエスはその者だと決め付けていたのです。

 

【罪と死に対する勝利】

その時、主イエスはもうすぐ素晴らしい勝利を得ようとしたのです。しかし、それはその当時の軍事的と政治的の勝利と言うのではなく、遥かにもっと大きな勝利を得ようとしたのです。それは、全人類の為の罪と死に対する勝利なのです。そして、それはこの世の軍事力に政治、権力に基ずく王ではなく、平和の王であり、御自身の死によって人間に救いを得させようと決意された王でした。

 

【根本問題は罪】

愛する兄弟姉妹、この世にいる私たち人間は色んな問題に向かっています。私たちはテロと戦争や、不景気と貧困や、差別と憎しみや、自然環境の崩壊や個人的の様々な悩みなどに向かっています。確かにそれは深刻な問題ですが、実は、それら全ては他の問題のしるしと現れです。実際にその全ての問題の原因となる基本的な問題は罪であります。

 

【自己中心の生き方】

私たちは愛する造り主である全能の神が定めて下さった生き方を拒否し、それぞれ自分のわがままな道を走って参りました。相手の立場とニーズを忘れ、自分自身の事、自分の身内だけにしか目が向かない、自分の国の事などばかりを考え、小さな小さな自分の事しか考えられないのです。その為に色んな深刻な問題が起きてしまいます。

 

【真の愛に欠けた生き方】

つまり、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛しませんでした。そして、同じように、自分自身のように隣人を愛しませんでした。

 

【罪の結果は死】

そして、罪の症状は色んな深刻な問題ですけれども、その上にその結果は死でもあります。霊的と肉体的死です。罪の故に私たちの創造主である愛する神から離れると、私たちは霊的に苦しいし、不安です。そして、いつか死を経験しなければなりません。

 

【主イエスの贖い】

罪の全く無い平和の君、イエス・キリストは自ら進んで十字架の死で私たちの代わりに罪の報酬を全て払ってしまい、神の赦しを私たちの為に獲得して下さいました。ですから、私たちは神との敵対状態から神の友となりました。

 

【復活】

さらに、主イエスは神の力によって死から復活させられたので、死を征服して、神は主を信じ従う者をも死んでも永遠の命に復活して下さいます。神によって完全にさせられ、永久に主と共に住み、喜びと満足の豊かな命が与えられるのです。その比べる事が出来ない程の恵みは神の賜物であり、信仰によって授けられています。

 

【救い主イエス・キリスト】

ロバに乗ってエルサレムに入城されたイエス・キリストは神の独り子なのに非常に謙遜と柔和であります。平和の君主イエスは御自分の命を捨てた程に私たち一人一人を愛して下さいます。私たちの為に罪と死の上の勝利を得た主は救いを自由に提供します。主が教えて下さった生き方のみが真の命に至ります。その主と救い主に従いたいと思います。(おわり)

2010年03月21日 | カテゴリー: マタイによる福音書

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