とこしえに揺らぐことがない者 ウイリアム・モーア

聖書:詩編15篇1−5

1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。2:それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり3:舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。4:主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。5:金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。

          
【主の日の礼拝】
今朝私達は神を礼拝する為にこの所に集って参りました。毎週、日曜日の朝ごとにここに集まる動機は色々あると思いますが、基本的に私達は恵み深い誠の生ける神を誉め讃える為に、暇だからではなく、心こめて主の日の礼拝に参加します。
 
この美しい世界と莫大な宇宙を無から創造し、全人類一人一人も貴重にお造りになりました。思い返せば、日々の生活が全能の神によって守られ、支えられる事にすぐ気付きますので、そういう神に感謝を持って主の御前に出たいのです。ですから、愛する神に感謝と讃美を示す目的で、今朝ここに集いました。何よりも、その為に私達は御言葉を持って讃美し、感謝のお祈りを捧げます。

【詩編第15篇】
今日与えられた御言葉、詩編第15篇は人々が礼拝する為、古代イスラエルの神殿に入る時、歌った讃美歌でした。都エルサレムにある神殿の前に集まった信者は礼拝の準備でこの詩編を歌いました。そして、この讃美歌は神への質問で始まります。1節の所を見て下さい。

「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか」


と言う質問が記されています。
 
【礼拝者の資格】
すなわち、エルサレムの真ん中にある丘の上に建てられた神殿に入り、唯一の全知全能の神の御前に出て礼拝する人の資格は何でしょうか。つまり、誰が礼拝するに値する者なのでしょうかと言う事です。
 
皆さん、そのことについて考えた事がありますか。つまり、今朝礼拝するのに私達はどんな資格が必要でしょうかと思案された事がありますか。今、私達はもちろんエルサレムにある神殿で礼拝する訳ではありません。特定な場所エルサレムという神殿で考えますと私達はその所で礼拝する必要がありません。私達と共にいる誠の神の御臨在は普遍ですので、特定な場所を超えて、礼拝する事が出来ます。詩編139篇に記された通りです。

「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうともあなたはそこにいまし、よみに身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手を持って私を導き、右の御手をもって私をとらえて下さる。」


(詩編139篇7−10)
 
【他宗教の神礼拝】
その何所でもいらっしゃる万物の造り主、全能の神の御前に出る為の資格は何でしょうか。旧約聖書の当時の他の宗教はおもに儀式でその質問に答えました。すなわち、自分を清める為の儀式を行えば、神を礼拝する立場に着きます。体を洗ったり、決まった祈りを唱えたり、特別なダンスを踊ったりすれば、神々の前に出る資格を得られると信じたのです。あるいは、何かを神々に捧げたら、その供え物を通して神々の好意を頂き、御前に出られると思ったのです。
 
【真の礼拝者に求められる資格】
しかし、今日の詩編第15篇にその儀式的ものが全く要求されていません。その代わりにこう記されています。2節の所から見て下さい。

「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり、舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。主の目にかなわないものは退け、主を畏れる人を尊び、悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず、を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人はとこしえに揺らぐことがないでしょう」


と書いてあります。
 
【隣人に対する良き行い】
実は、礼拝で神の御前に出る資格は儀式の代わりに道徳的要求があります。特に、ここでは隣人に対する道徳が重んじられています。その意味は神にとって私達の対人敬意および社会生活に現れる正義、行動が大切とされています。つまり、友人と隣人に対して悪口や悪を行ってはいけないと言っています。大部分の人々の悪口や傷つける対象は私達から遠い国にいる悪党ではなく、すぐいつも側にいる友人や隣人であるからなのです。礼拝する前に、先ずその関係を直すべきです。それは主イエス•キリストの教えです。マタイによる福音書5章23節にこの主の御言葉が記されています。

「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」

 
【完全な道を歩き、正しいことを行う人】
今日の個所に於ける、神の御前に出る為の資格について詳しく見たいと思います。先ず2節を見て下さい。「それは完全な道を歩き、正しいことを行う人。」つまり、御言葉に神が教えて下さった正しい道を歩む者は礼拝に招かれています。そして、その道の明細が次にこう書いてあります。「心には真実の言葉があり,舌には中傷をもたない人。」
 
私達が真実を大事にする事は神が望んでおられます。何故なら、人々が偽りを言うと社会正義が難しくなります。正義は真実に基づいているからです。また、人に対する中傷が普通になると社会の崩壊が伴います。
 
【友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人】
次にこう書いてあります。「友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人」は神の御前に出られます。悪事を働く者とばかにして笑う人は隣人に大きな害を与えるので神に近づくべき者ではないと教えられています。神を礼拝する前にその行動を止めなければなりません。御言葉にこう書いてあります。

「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛する事が出来ません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。」


(ヨハネの手紙一4章20)
 
と言うのは、隣人への愛と神への愛が繋がっています。だから隣人を憎んで害を与えると礼拝で神への愛を表現してもあんまり意味がないと言う事です。
 
【主を畏れる人を尊び、悪事をしないとの誓いを守る人」】
今度は4節にこう記されています。「主の目にかなわないものは退け、主を畏れる人を尊び、悪事をしないとの誓いを守る人」は神に近づく事が出来ます。つまり、神を礼拝する者は悪を行う人の行動を憎んで、そして同時に神に従う者を尊敬し、助けるべきです。また、損をしても約束を守る者も神を喜ばせます。そのような者は主の御前に出られると記されています。
 
【利息を取らず、賄賂で人を陥れない者】
そして、最後に6節に神が受け入れる人についてこう書いてあります。「金を貸しても利息を取らず、賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。」お金を貸して無理に利息を取ると経済的圧迫になりますので、神を礼拝する者はその事をしてはいけません。また賄賂を受け取って無罪の者に害を与えてはいけませんと書いてあります。神はその事をしない人を受け入れ、御自分の礼拝に招きます。
 
【とこしえに揺らぐことがない者】
更に、この素晴らしい約束があります。「これらのことを守る人はとこしえに揺らぐことがないでしょう。」すなわち、主は御自分の道を歩む者を永遠まで守って下さいます。どんな事があっても神はその人を決して見捨てないで、いつも愛し、共にいて、必要な希望と力を与えて下さいます。
 
そして、この世での生涯が終わると、主はその者を御自分の天の家に招かれ、喜びを持って永久にそこで留まる事が出来ます。
 
【私たちは御前に出る資格を持っていますか】
愛する兄弟姉妹、私達は神の御前に出る資格を持っていますか。つまり、今日の御言葉に於ける事を全部守って来ましたか。神様が教える完全な道を歩んで来て、いつも正しい事ばかりを行いましたか。自分の唇から真実の言葉しか言った事がありませんか。実は私達はいくらでもそのような人になりたくても、失敗するときがあります。誰でも自分の行動によって人に害を与えた事があります。誰でも愛する父なる神が賜って下さった道から迷って、罪を犯します。そして、そうしますと、私達は神の御前に出る資格が失われてしまいます。
 
【唯一人の罪のないお方】
実は、先程私が言った事にひとつの誤りがあります。と言うのは、誰でも罪を犯した事があると言う発言は正確ではありません。一人の人のみが一生罪一つも犯しませんでした。その人の名前はイエス・キリストであります。主イエスは完璧に神の御旨に従い、最後まで完璧な生涯を送りました。そして、その同じイエス・キリストは完璧な生け贄になり、私達の罪を赦す為に御自分の命を捨てて下さいました。十字架で主は自分の身に人間の罪の為の罰を全部受け取って下さいました。そして神の目には私達は全く完璧になり、御自分の御前に出る資格が与えられました。更に、私達は神の子になり、永遠に主の譬えようのない恵みを受けられます。その故に私達はとこしえに揺らぐ事がありません。
 
【主イエス・キリストに似る】
愛する兄弟姉妹、唯一の神の大きな愛の故に私達は主イエス・キリストの救いを受けました。ですから私達は主の者として相応しく生きたいのです。どうか、神の栄光の為に今日の御言葉が教えて下さる生き方を毎日の生活に実行出来るように、決心を固めましょう。そして、神の助けによって日一日、主イエス・キリストに似ましょう。(おわり)

2009年11月08日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

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