あなたがたの解放の時が近い: ウイリアム・モーア 2009.11.29

ルカによる福音書21章25−28

◆人の子が来る

 25:「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒

    れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。

 26:人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気

    を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。

 27:そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、

    人々は見る。

 28:このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。

    あなたがたの解放の時が近いからだ。」

 

 

【アドベント・待降節】

皆さん、開けましておめでとうございます。そうです、開けましておめでとうございます。実は、今日こそはキリスト教会の元日になります。つまり、今日のアドベント、すなわち待降節の第一主の日は教会暦年の元日です。

 

主イエス・キリストの存在と賜物は我々キリスト者にとって最も中心的事実ですので、私達の新しい年は今日のアドベントの第一の主の日から始まりです。

 

【主イエス・キリストの御降誕の恵みと意味】

待降節の際に私達はこの世の唯一の救い主、主イエス・キリストの御降誕の恵みと意味を新たに覚えます。そうすると、大きな喜びを持ってやがて来るクリスマスに、キリストの誕生日を祝う事が出来ます。つまり、私達は、もう既に起こった神の御業を振り返って、覚えるのです。

 

【主イエスの再臨】

しかし、アドベントにキリスト者は過去を振り返るだけではなく、大きな希望を持って私達は将来、これから迎えようとする神の未来を待ち望んでいます。約束通りに将来に主イエス•キリストが再びこの世にいらっしゃる事なのです。そして、主の再臨の日に、全世界がその栄光を見て、主を唯一の神として認めます。

 

その日、私達は今まで信仰で見た事を自分の目で目撃して、私達の解放の時が来ます。ヨハネの黙示録に記されたように、その時、

「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼等の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦も無い。最初のものは過ぎ去ったからである。」(21:3−4)

その時、全能の神は「万物を新しくする」と約束して下さいます。アドベントに私達はその最高の喜びの時を信じ、心から待ち望みます。

 

【間違った再臨予言】

19世紀前半のアメリカには主イエス・キリストの再臨についての関心が高まりました。それはとても良い事でしたが、ある先生達が自分の聖書研究から再臨の日を予言しようとしました。その中の一人はウィリアム•ミラーと言うバプテストの牧師でした。ミラー先生の聖書研究によりますと、イエス・キリストの再臨は丁度1843年4月3日になります。彼はその研究と計算について書物を出版して、沢山の弟子を儲けました。

 

そして1843年4月3日に3,500人以上の弟子達がミラー先生の教会に押し込み、当然来るものとして主の再臨を共に待ちました。言うまでもなく、彼等はがっかりしたのです。主イエスはこの世に戻って来ませんでした。しかし、不思議にミラー先生の運動が無くなるどころか、もっと大きくなりました。というのは、先生が研究をもう少し行って、再臨の日を計算しなおしました。その本当の日は1844年4月18日になると発表したのです。しかし、もう一度その日が来たのに主は現われませんでした。

 

そしてミラー先生はうろたえなく、もう一度研究の上、新しい再臨の日にちを予告しました。その日は1844年10月22日でした。ミラー先生の弟子達は前よりもその日にちを信じ、準備をしました。農業の人は刈り入れをしないで、ただ主の再臨を待ちました。ミラー先生を信じた者は自分の持ち物全部を人に無償で譲りました。勤めを完全に辞めた人は少なくなかったのです。

 

ミラー先生の新聞はこのような警告を叫びました。「主は直ぐに来る」「神に会う準備をしろ」「残った時間が短い」。そして、ミラー先生が神に会う為の白い衣を信者にどんどん売りました。しかしながら、主の再臨は1844年10月22日にも起りませんでした。

 

【ミラー牧師の間違い】

ミラー先生は偉い聖書の研究を行いましたが、一番大事な個所を見落としてしまいました。それはマルコによる福音書13章32と33節です。主イエスは御自分の再臨についてこのように教えられました。「その日、その時は、だれも知らない。天使達も子も知らない。父だけが御存知である。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」主イエスははっきりと教えられました。御自分が確かに再びこの世にいらっしゃいますが、神のみがその再臨の時が分かります。ですから、その時を計算出来ません。

 

【再臨の徴】

日にちを計算出来ないけれども、今日の御言葉に主は再臨の徴についてこう述べます。「それから、太陽と月と星に徴が現われる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る」と主イエスが言われました。つまり、再臨の前に自然界が特におかしくなり異常な現象を示します。

 

科学者によりますと、人間の生活の活動の為、炭素放出が多くなり、その影響で世界の気温が少しずつ上がります。そして、世界の温暖化に伴って気象がだんだん厳しくなって来ると言います。北極の氷が溶ける事によって海面が上がって、台風などの被害が酷くなる可能性が十分あると気候学者が警告します。よく分かりませんけれども、恐らく「海がどよめき荒れ狂う」と言う主の再臨の徴は温暖化との関係があります。

 

それはただ憶測です。その反面、聖書の全体的証は明白です。それは主イエス・キリストは必ず再びこの世にいらっしゃいますが、私達人間にはその時が教えられていません。主は今朝にでも来る事が出来るし、一万年後にでも来られます。ですから、私達は常に、その準備をする必要があります。今も準備すべきです。

 

【イエス・キリストの再臨を待つ】

愛する兄弟姉妹、その準備は何でしょうか。どのようにしてイエス・キリストの再臨を待つべきでしょうか。主イエスはその事について短い譬え話を語って下さいました。「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのをみつけるかもしれない。あなたがたに言う事は、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコによる福音書13:3437

 

【「目を覚ましていなさい」】

睡眠は私達にはとても大事な事ですが、誰でも分かりますように、眠りながら働く事は出来ません。全く不可能です。また、譬え話の主人が「目を覚ましていなさい」との命令は、その僕達が主人の帰りを見逃さない為、ただ家の門の前の所をじっと見詰める訳ではなかったと思います。「目を覚ましていなさい」と言う命令はその僕が怠けないで働く為です。

 

【日々主イエスの業に励む】

同じように主イエスは私達にも「目を覚めていなさい」と言われます。それはこの世で御自分の働きをする為です。つまり、主がこの世にいらっしゃった間と、私達は同じような事をする訳であります。隣人を自分のように愛する事。平和の為に努める事。貧しい者に必要な物を与える事。さびしい人の友人になり、病気の者を助ける。更に、イエス・キリストの愛と救いと福音を述べ伝える事です。それこそが私達の準備ではないかと思います。毎日、主イエスの弟子として相応しく生きる事が私達の、主の再臨の最高の準備であります。

 

【主イエスが明日来られても】

宗教改革者であるマーチン・ル−テルがこのように言いました。「イエス・キリストがたとえ明日にもこの世に来られると知っていても、私は予定どおりにリンゴの木を植えます。」つまり、神様の御用をするのは再臨の一番良い準備になります。

 

ミラー先生とかれの弟子達はその大事な真理をすっかり忘れていました。ですから再臨の日を必死に計算して、騒ぎながらその日を待っていました。しかし、私達の準備は主の御用をすることです。

 

最後に今日の御言葉の27と28節の所を見て下さい。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起り始めたら、見を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」とイエス・キリストが言われました。

 

【私たちの解放の時】

愛する兄弟姉妹、主の再臨は私達の解放の時でもあります。イエス・キリストを信じる人には最高の喜びの日であります。その日、私達は大きな、大きな喜びを持って御前にひれ伏し愛する主を賛美します。その時、全世界が私達の信仰を認め、イエス・キリストの真理が明白になります。そして「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼等の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦も無い。最初のものは過ぎ去ったからである。」(ヨハネ黙示録21章3−4)

 

ですから再臨の日に私達は「身を起こして頭を上げます。」私達の「解放の時が近いからからです。」

 

【マラナ•タ「主よ、来てください」】

初代教会は意味深い挨拶がありました。それは主イエスが使った言語、アラム語の表現「マラナ•タ」です。そして、マラナ•タの意味は「主よ、来てください」。つまり、それは再臨の為のお祈りになりました。キリスト者同士に会うと、「おはようございます」か「こんにちは」のような挨拶の代わりに、「主よ、来てください」との挨拶を交わしました。

 

信仰に於いて私達の先祖は主の再臨を心から期待し、切に待ち望みました。今年のアドベントの際、私達もマラナ•タ「主よ、来てください」を心から祈りたいと思います。(おわり)

2009年11月29日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , ルカによる福音書 , 新約聖書

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