兄弟を愛して生きる 城下忠司長老

城下忠司長老

聖 書:1ヨハネの手紙Ⅰ 2章7~11
◆新しい掟

7:愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。   8:しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です。闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。   9:「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。  10:兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。  11:しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです。

【愛する者たち】
「愛する者たち」という、ヨハネの呼び掛けのこの言葉は、丁度2章1節の「わたしの子たちよ」との呼び掛けとも同じ、ヨハネの信者に対する愛を深く感じさせる言葉です。このように、ヨハネの手紙からは、自分の牧会する信者の群れを愛するヨハネの、純粋な気持ちを伺い知ることができます。
 
この「愛する者たち」という語り方は、この手紙では6回もでてきます。(3:2.11/4:1.7.11)
また、ヨハネの手紙Ⅱでも「あなたがたを愛しています」とありますし、手紙Ⅲでも「愛する者よ」
という言葉が2回、「あなたを真に愛しています」とも記されています。
これらの手紙には、牧会者ヨハネの教会の群れに対する本当の愛の姿を鮮やかに見て取ることができるのではないでしょうか。

【手紙が少なくなった】
最近、多くの方が手紙を直筆で書かなくなったと言われます。すっかりパソコンや携帯電話が通信手段になってしまって、いつかのテレビに小説家が出ていて、私は執拗に原稿用紙に万年筆で書き続けるのだと言っていました。多くの若者から子供まで今は、携帯電話でのコミュニケーションを手段とし、メールは特別な字体まで作られて流行する世の中になってしまいました。
 
私ごとで恐縮ですが、家内には小さいときからの友人がいて時々思い出したように手紙をくれます。少し知恵遅れの方ですが、田舎の様子を事細かく、誰だれが結婚した、誰だれが亡くなったとか、読みにくい文字、文章も理解しにくく、大変な苦労です。しかし、書出は、必ず同じ文章なのです。「大好きな優しいまさちゃんよ」という言葉です。私も家内も同郷ですから、この手紙が来ると、二人で懐かしい田舎を思い出して、昔話に花を咲かせるのです。そして、私たちはこの手紙を愛の手紙と呼んでいます。しかし、この頃はめっきり便りが減り、寂しく思っています。
 
【古い掟と新しい掟】
ヨハネは2章3~6で、「私たちが本当に神さまを知っているなら、本当に交わりを持っていると言うなら、毎日の生活で、御言葉によく聞き、神さまの戒めを守っている姿によって、それが確かめられるのだ。」と語ってまいりました。私たちがイエスさまを模範とするときに、はじめて、父である神さまを深く知るようになるのです。5節を見ますと、こうありました。「神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています」と。
 
さて、今日の御言葉には、古い掟と新しい掟とが対象されて語られます。この錠という言葉は、新改訳聖書では命令と訳され、口語訳聖書では戒め、そして、さらに古い聖書の訳は戒めと命令が合わされて、戒命と訳されています。どの訳が正しいかは分かりませんが、その時々の情況にあわせて聞き分ける方が、その意味がよく分かるように思います。
新しい掟ではない古い掟と言っておいて、すぐ後で、「新しい掟」として書き送ると、一見矛盾しているように見えますが、この本当の意味は「古くて新しい掟」であるということです。
 
ヨハネは、もうこの教えは「初めから受けていたもの」と語りますように、イエスさまを信じたときからの教えですから、古いという言葉を使いましたが、改めて、「新しい掟」として書き送ると語るのです。
 
【イエス様の愛の戒め】
古いという意味では、旧約聖書のレビ記というところの19:18に、既に愛の掟がありますから、確かにヨハネの手紙が書かれた110年頃から言えば、
更に800年ほどむかしの掟と言うことが出来ます。しかし、この掟は今「新しい掟」として改めて教会に送られた、「掟」であると、ヨハネは語りります。それは、イエスさまが命令された、「互いに愛しあいなさい」という、イエスさまがこの掟に新しい意味を与えられたから、「新しい掟」なのです。私たちが生活していくために、いつも新しい掟として、捕らえなおしていかなければならないものであります。ですから、この戒めは神さまが私たちに生活の規範として、与えてくださった神さまの御心であります。6節で示されていますように、「イエスさまを模範とする」こそ、すなわち、イエスさまがご自身の全生涯で示され、命じられた、「愛の戒め」こそ新しい掟であります。
 
マルコというイエスさまの弟子が、次のように伝えているところがあります。
 
「律法学者がイエスさまに、最も重要な掟について尋ねました『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか』イエスさまは第一の掟は「イスラエルよ聞け、わたしたちの神である主は唯一の神である。心を尽くし精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」第二の掟はこれである。「隣人を自分のように愛しなさい。この二つに優る掟はほかにない。」と、マルコ12:28節以下に記しました。
 
パウロもこのことを良く分かっていました。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、そのほかどんな掟があつてもr隣人を自分のように愛なさい」という言葉に要約されます。」と。ローマ13:3で述べています。
 
また、イエスさまが最後の晩餐のとき、弟子たちに語られた言葉が記されています。「互いに愛しあいなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と、ヨハネ13章34節。
 
ヨハネがここで語りかけている「新しい戒め」は、キリスト者がイエスさまのご生涯を通して、そのご人格の深い愛を、自分のものとして生きるために、私たちに、いつも新鮮な力をいただくことを勧めるものです。この戒めを私たちは深く自分の内に思い起こし、イエスさまの命令として受けとめていきたいと願う者です。
 
【闇が去って、まことの光が輝く】
新しい掟である、というもう一つの理由が8節後半に「それは、闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」とあります。しかし、現実の世界においては、私たちはいつも闇は光に戦いをいどみ続けていることを知っています。今は、イエスさまのこの世での完全な支配は来ていません。福音が広く世界の隅々までも宣べ伝えられ、光は明るく輝きを増しているのです。このように今の時は、闇が真の光に勝つことができない救いの時を迎えていることを覚えます。
 
「新しい掟」は闇の中に輝く光であります。そして、この光は、私たちが歩んでいくための、生きていくための光であります。光は闇に勝利したのですと告げられているとおりです。
 
ヨハネはなぜ新しい戒めを信者に書き送るかの理由を、真の光がすでに世に輝いているからであると語りました。私たちが罪と不信仰の闇の中にあって、自分中心の利己主義という闇の中にあって、偽りの神を信じる世にあって、光であるイエスさまが、福音をとおして、教会をとおして光り輝いているからであると語るのです。私たちは確かに信仰によってかつての生活から変えられた者です。キリスト者は闇の支配の中に生きているのではありません。神さまの光の支配の中に生きている者たちです。
 
 
【主イエスとの交わりの中で】
イエスさまの完全な支配はまだ実現されてはいませんけれども、イエスさまとの豊かな愛の交わりの中にいれられ、兄弟との交わりの内に、その愛の姿をとおして現されることを経験することができているのです。
 
私たちは、この世に輝く真の光であるイエスさまに思いを巡らすために御言葉に絶えず聞き、イエスさまに従って歩き続けることが必要です。時間という本当に不思議な繰り返しの生のなかで、真の道を見つけることができるのです。道に迷ってしまうことがなく、石につまづくこともなく、一筋の道を歩いていけるのであります。
 
【イエスは神の国への道】
私たちは、イエスさまの愛の光に照らされて、歩くことが出来る故に、神さまの国への道を進むことが出来るのであります。真の光について、ある説教者は次のように語っています。
 
「これは単にイエスが道を示されたということではありません。もしそうならば、彼の言葉と教えだけで十分であったことでしよう。もしそうならイエスは『わたしの教えは世の光である』と言うこともできたはずです。
しかし、そう言いませんでした。彼は『私自身が世の光である』ということを強調して言われたのです。神はイエス・キリストにおいて、この世界と世の生に関するすべての神秘と謎を終わりにされたのです。イエスが謎を解く鍵なのです。それ故に福音によってイエス・キリストの本質と人格、その到来と御業にまで辿り書くことなくしては、世界や人生における何かを根底まで理解することはできないでしょう。」と。
 
【兄弟のために命を捨てる】
新しい戒めとは3章16節に記されているとおりで、「イエスは私たちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。」と。
また、ヨハネ福音書の15章12、13節にも次のようにあります。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが、わたしの掟である。友の為に命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と。
 
【愛の実践】
何年か前、韓国の青年が日本の駅のホームで線路に落ちてしまった方を助ようとして、もう一人の助けようとした日本人と共に尊い命を失いました。このお話を日韓の懸け橋にしょうと映画監督が韓国の製作者と共同で映画化しました。
 
私たちはイエスさまを信じて、「私は光の中にいる」「兄弟姉妹の交わりの中にいる」と言う事ができていますけれど、実際の教会生活のなかで「その兄弟を憎む者は、今なお闇の中にいるのである」とヨハネは警告します。「光のなかにいる」「イエスさまを愛している」と言いながらも、と言われていますように、口で証しすることと、生活の実際との矛盾をするどく指摘します。私たちは、知的に優れていることが信仰が立派であるのではなく、霊的に優れていることが、本当の信仰者であることを知っています。
 
【兄弟を憎む】
兄弟を憎むと言われているこの「憎む」という意味は単に愛が足りなくて憎むいと言うことだけではなく、兄弟を嫌う気持ちをも含んでいます。
いかに「光の中にいます」と言っても、いかに「イエスさまとの交わりを持っています」と言っても、兄弟に対してこの愛の実践が伴わない者は、兄弟を憎んでいるのであって、その人は今なお闇のなかに居るのだとヨハネは断言します。
 
ヨハネが、ここで「兄弟を愛する人」と言うときの兄弟は、総ての人をさして言っているのではなく、特に教会の共同体の一人一人のことであります。この手紙を書いた時には教会の中で既に偽教師が誤った福音を説き、教会員を惑わすことが起こっていました。ヨハネはキリストの教えに反する人たちの影響をとても心配していました。ですから、特にキリスト者同士の愛について、交わりの一致についての配慮が必要であったのです。このことは、決して教会外の人たちを愛してはならないとか、後回しにするとか、ということではありません。パウロもIコリント12:26で教会員の姿を次のように記しています。
 
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が喜ぶのです」。「その人につまずきがない」 と言うのは、自分がつまづかないことは勿論ですが、兄弟につまずきの原因を与えてはならないということが含まれています。
 
兄弟を憎む者は、いまなお闇の中にいますので、自分がどこへ行くかを知らないと語るのです。自分が滅びに向かっていることも知らないと言われるのです。私たちは一度限りの時を過ごして生きています。二度と引き返すことはできません。「一瞬一瞬が永遠の重みを持っている」と言った人がいます。
 
イエスさまに導かれている人は、御言葉の光に照らされていますから、決して信仰の道からそれていくことはないのです。「あなたの御言葉はわたしの道の光、私の歩みを照らす灯び」と詩編119:105にあります。
 
【この世はあなた方を憎む】
この手紙では憎むという言葉もまた、愛するという言葉と同じように頻繁にでてきます。キリスト者は、世の中のなりわいに合わせて生きるなら人々に嫌われたり、或いは憎まれたりすることはないでしょう。
 
世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えるようにと、また、あなたがたが世に属していたなら、世はあなた方を身内として愛した、とイエスさまはおっしゃいました。
 
私たちは、今が生きていく上でどんなに困難な時代であるかを知っています。イエスさまを愛する共同体、イエスさまの体である共同体において兄弟妹を愛する愛があふれ出ていくために、一人ひとりがイエスさまの愛に生かされる者でありたいと祈るものです。
 
光の中を歩む者は、イエスさまに従って、兄弟を愛して生きるのです。
 
【祈り】
救いを完成し、天に上られて神の右に座して、私たちのために常に執成の祈りを献げていてくださっていますイエスさま、創り主であられる父なる神さま、御名を褒めたたえることのできます幸いを感謝いたします。
 
今も聖霊を送って私たちと共にいて御言葉を与え、あなたを信じる信仰を与えてくださっていますことを感謝いたします。日々の生活の中で総ての悪から守っていてくださる愛を感謝いたします。今日からの一週間を新しい信仰の確信を与えてくださって生きることが出来ますように、お導きください。
 
また、あらゆる困難から、そして、誘惑から一人一人をお守りください。私たちは愛する森田泰助兄弟をあなたの御許に送りました。残された奥様やご家族の悲しみの上に、豊かな慰めを与えてください。私たちもやがて、先に召された愛する兄弟姉妹と合いまみえる日を望みみて、信仰と希望とをいただき、歩んで行くことができますようにお導きください。
 
御言葉と祈りにおいて日々を過ごすことが出来ますよう一人一人をお導きください。
兄弟を愛する愛で教会を満たしてください。礼拝にあなたの民を送ってください。病める者、困難を覚えているものを、癒し励まし、特別なお守りを祈ります。どうか、西谷教会の働きを祝福してください。
あなたを求めている方々に信仰と喜びをお与えください。
私たちの主イエスさまのお名前によってお祈りいたします。アーメン(おわり)

2009年10月18日 | カテゴリー: ヨハネの手紙一 , 新約聖書

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