「御言葉の力」伊丹教会執事 八尋孝一

聖書Ⅰテサロニケ2章13節~16節 

13:このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 14:兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦    しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。15:ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、16:異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。

 

【自己紹介】

西谷の会堂を訪れたことはありましたが、礼拝を共にするのは初めてです。顔をお見かけして、よく知っておられる方もおられますが、初めてお会いする方もあります。プロフィールにありますが、八尋といいます。珍しい名前ですが、九州にはわりと多いです。10年ほど前に九州は福岡から兵庫へきまして、現在関西学院の高校で世界史を教えています。よく教師なのだから、人前で話すのはお手の物でしょうと言われますが、礼拝で御言葉を語るのは、教室でローマ帝国やフランス革命の話をするのとはわけが違います。今日は、緊張しつつ皆さんの前に立っています。

【御言葉の力】

お話の題を「御言葉の力」とつけました。神様の御言葉には、いかに大きな力があるか、またそれが私たちひとりひとりのうちにいかに豊かに働くものか、今朝は皆さんと共にわかちあいたいと思います。特に今日お読みした聖書の箇所の中で、テサロニケ信徒への手紙2章13節の御言葉を中心に思い巡らしてみたい。

 「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなた方の中に現に働いているものです。」(Ⅰテサロニケ2章13節)

 

【私を変えた神のお言葉】

御言葉には、人生をひっくり返す力があります。今、皆さんの前に立っている私も、御言葉によって人生をひっくり返されました。最初に個人的な話をすることをおゆるしいただきたい。私はキリスト教とまったく関係のない環境で育ちました。家族にも親戚にもクリスチャンは一人もおらず、学んだ学校も幼稚園から大学まで、キリスト教関係の学校はひとつもありませんでした。そんな私が生まれて初めて教会に行ったのは、高校3年のときです。進学した高校は福岡でも有数な進学校。合格できたのは良かったですが、入学してみると周囲には優秀なものばかり。勉強・スポーツできて当たり前、個性豊かな人材の中で、私は自分の存在がすっかりかすんだ気がしました。自分がひどくつまらない存在に思えてならなかった。何か自分の存在を根っこで支えてくれるものはないのか。いろいろな本を読み漁りました。そんなとき、家から歩いて5分のところにあった教会で「春の特別伝道集会」があるという看板が目に留まりました。それを見て、なぜか行こうと思ったのです。それが改革派の長丘教会でした。生まれて初めて教会の集会に出席した私は、よくわからないながらも「ここに何かある」と感じて、毎週礼拝に出席するようになりました。自分でも聖書を読み始めました。最初は新しい自分が始まったみたいで心地よい思いでした。しかし、だんだん苦しくなってきました。自分の中にこれまで気がつかなかった姿があると気付きました。御言葉の光に照らされて、自分の中の醜いところ、嫌なところが浮かび上がってきました。聖書の中に「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」という言葉があります。良い言葉ですが、この言葉に生きようとすると、喜ぶ者がそばにいたら「ちきしょう」と思う自分がいる。悲しむ者がいたら、「ざまあみろ」と思う自分がいる。認めたくないけれど、それも確かに自分である。自分はもう、教会に行ったり聖書を読む資格はないと感じました。そんなとき、ひとつの御言葉にであいました。それはマルコ2章17節でした。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」

 

【主イエスに招かれた喜び】

わたしはこの御言葉にであったとき、こんなふうに語りかけてくださる主イエスというお方の存在を感じました。「そうだ、あなたは自分の罪を自分ではどうすることもできない。しかし、だからこそ私が来た。そんなあなたのために、そんなあなたを招くためにこそわたしは来たのだ。私のところに来なさい。」声が聞こえたわけではありません。しかし、私はこの御言葉を通じて、こんな自分でも、いやこんな自分だからこそ、イエス様に招かれていることがはっきりわかったのです。うれしかった。涙がぽろぽろ出ました。その年のクリスマス、洗礼を受けてクリスチャンになりました。クリスチャンの家内と出会い、キリスト教学校に勤めるようにもなりました。この御言葉との出会いがなかったら、いずれもなかったことでしょう。この出会いがなければ、私はこの場所に立っていないと思います。

 

【御言葉に導かれた私】

これは偶然だとは思いません。神様が、少しずつ私を手繰り寄せてくださり、定められたときに出会ってくださった。この御言葉を自分で見つけたとは思っていません。むしろ、この御言葉に自分を見つけていただいた。この御言葉に見出されて、私の人生は変わりました。

 

【様々な御言葉との出会い】

もちろん、御言葉との出会い方は人によってさまざまです。私のように、まったくキリスト教と全く無関係のところから導かれる人もいれば、幼いときから親に連れられて日曜学校に通い、じわじわとその人の存在に御言葉がしみてくる、そんな出会い方をする人もおられます。しかし、出会い方は様々であっても、御言葉がその人の内で生きて働くことは変わりないでしょう。

 

【信じるものの中に働く神の言葉】

もう一度、13節 「信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」

信じている人の中でその言葉が働く、これが神の言葉と人間の言葉の決定的な違いです。神の言葉は、人間の思想や内面から生まれた言葉とは違います。

 

【座右の銘】

座右の銘というのがあります。人生の中で大切にしている言葉を持つ人も多いでしょう。恩師の一言、書物の中で出会った一文、そのような言葉の感化を受けて、生き方が変わることもあるでしょう。しかし、そこで働くのはあくまでも自分です、 言葉自体がその人の内で生きて働くことはない。しかし、神の言葉は、それ自体が信じる人のうちで働きます。しかもその働きは、多少の感化を与え人生に影響を与える程度のものではありません。人生をひっくり返すほどの、絶大な力を持っています。

 

【はじめに】

創世記の始めに、「はじめに神は言われた。「光あれ」こうして、光があった」とあります。神の言葉は、無から有を生み出し、この世界を創造されたという御言葉です。そして今もなお、神はその御言葉をもってこの世界を治めておられます。

 

【主イエスの御言葉】

新約聖書の時代、主イエスはその御言葉を持って、盲人の目を開き、立てない人を立たせ、悪霊を追い出されました。

神の言葉は、一つたりとむなしく地に落ちることはありません。

 

ヘブライ人への手紙4章12節 「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄を切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」

 

神の御言葉は生きています。お開きにならなくても結構です、聞いていてください。使徒言行録12章24節

「神の言葉はますます栄え、広がっていった」 

 

宣教は神の言葉の広がりと共に前進しました。使徒言行録20章32節

 「神とその恵みの言葉にあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵を受け継がせることができるのです。」

 

【御言葉とどこで出会うか】

私たちは、このような御言葉とどこで出会うことが出来るのか。ギリシアにデルフィという町があります。この町の山の斜面の岩場にアポロン神殿があります。この神殿は、お告げをするので有名です。このお告げが良くあたるというので、古代ギリシアの人々は国中からデルフィの町にお告げを聞くために集まったそうです。私達は、神の言葉を聞くために、かつてギリシアの人々がしたように、遠い地に旅立つ必要はありません。滝に打たれて修行することも必要ありません。私達の手元にある聖書、御言葉の説教、そこに神の言葉があるのです。神の言葉は、私達のすぐ近くにあるのです。私達は、聖書の言葉や御言葉の説教を、神の言葉として聞いているでしょうか。何に注意しなければならないのか。 

 

【事実である神の言葉】

3節 「事実それは神の言葉であり」それが神の言葉であることは、客観的事実であります。短い言葉だがこれは大切です。

聞く人の主観によって神の言葉となったり、人の言葉になるのではない。私達も説教を聞いたり聖書を読んでいると、心にびんびん響いてくるときと、そうでないときがあります。「どうも今日の説教はぴんとこなかった」とか、「今日は疲れていて、聖書の言葉がちっとも心に入ってこなかった」、調子よく響いたときは神の言葉だが、響かなかったときは人の言葉になる、そうではない。聞く私達の状態がどうであれ、それは神の言葉であることに変わりはない。また聖書の中でも、よくわかるお気に入りの箇所だけを切り取って神の言葉として受け止めるが、そうでない箇所は切り捨てるのもいけない。聖書全体がトータルで神の言葉です。

 

【神の言葉と共に働かれる聖霊】

ただ、聖書を読んだり、説教を聞く全ての人が、それを神の言葉として受け止めるわけではないことも事実です。むしろ大半の人は、そう受け止めることはないでしょう。人間の持って生まれた知恵や能力によっては、神の言葉を神の言葉として識別することは出来ないのです。先ほどから神の言葉には力があると語ってきましたが、それは神の言葉が聖霊によって語られ、聖霊が今もなお神の言葉と共に働かれるからです。パウロという人間が語った言葉が、なぜ神の言葉になるのでしょうか。橋谷牧師やモーア先生という人間が語られた言葉を、なぜ神の言葉として聞くのでしょうか。そこに聖霊なる神様が働かれるからではないでしょうか。従って聞く私達も、聖霊の導きを祈り求めながら聞かねばならないのです。

 

Ⅰテサロニケ1章5節に「力と聖霊と強い確信によった」からでとあり、6節「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れた」とあります。

テサロニケの人々も私達も、聖霊の助けによって初めて、神の言葉を神の言葉として受け入れることができたのです。

従ってだれも、私は神の言葉を聞けたと誇ることは出来ません。ただ聖霊に感謝するのみです。

礼拝で御言葉が語られる際にも、家で聖書を開くときにも、大切なことは聖霊なる神様の助けを祈り求めることだと思います。

 

【神の言葉を語り、聞こうとするときの妨害】

最後に、神の言葉を語り、聞こうとするとき、必ずそこで障害が起こります。御言葉を語らせまい、聞かせまいとする力が働くのです。今日お読みした聖書の箇所の少し前の 2節

「わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。」

 

その具体的な苦難の内容は、使徒言行録17章以下に記されています。

15節「ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。」

御言葉の宣教にたいする激しい妨害がおこったことが伺えます。このような事態は、私達が聖書を開き教会に行って神の言葉を聞こうとするところで、今日もなお起こるのです。この日本の社会では、聖書を開き、教会に行くこと自体が既に戦いです。地域社会からの圧力、最も身近な家族からさえ、反対がおこるのです。

 

【内なる妨害】

妨害は外からおこるだけではありません。私達の中からも起こります。神の言葉を聞かせまいとする力は私達の中にもあります。

ある意味、これがいちばん手強いかもしれません。神の言葉よりももっと魅力的に見える様々なモノや情報はすぐに私達を絡め取ろうとします。忙しさも時として敵になります。「神の言葉なんて呑気なことを言っている場合じゃない、もっと現実をみろ、がんばれ」「頑張れ」という言葉をよく使う。

 

【頑張れ】

「頑張れ」、これはわたしたち教師が一番使っていそうです。頑張るの頑は頑固の頑。張るは自己主張の帳です。頑固に意地を張って自己主張するのが頑張るなら、ぱんぱんに張って御言葉が入る隙間がないでしょう。

 

このように様々な困難がおこる。しかし、私達は御言葉に踏みとどまりたい。忍耐して御言葉に聞き続けたい。

 

【キリスト・イエスに結ばれた神の諸教会】

私達は、孤軍奮闘するのではない。神様も、そんな私達を助けられる。

14節にユダヤの教会が出ています。ユダヤの教会は、テサロニケの教会よりもっと早くユダヤ人の迫害を受けて散り散りになった。決して立派には見えなかった。そんな教会を、単にユダヤの教会ではなく、「キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会」と呼んでくださいます。

 

使徒言行録20章28節「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。」

ここでも、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」と語られています。キリスト・イエスが、神の言葉を聞く困難を味わっている教会に結びついていてくださるのです。

この教会は神の教会、この群れは私と結びついている、私のものだと主は言われます。

 

伊丹で、西谷で神の言葉が語られている。それが神の言葉として聞かれるとき、その言葉はそれぞれの教会で生き生きと働くのです。しかし同時に、様々な困難が起こります。しかし、そんな伊丹教会、西谷集会を、単に伊丹にある教会、西谷にある教会としてではなく、キリスト・イエスに結ばれた神の教会だと宣言してくださる方がおられる。伊丹・西谷それぞれの教会で、また生活のただ中で、神の言葉を神の言葉として聞く歩みを続けていきたいと思います。

 

【祈り】

神様、こんにち私達に聖書を与え、御言葉の説教を通じて神の言葉を聞かせてくださることを感謝します。

聖霊なる神様が、私達が教会で語られる御言葉の説教を聞くとき、またそれぞれの生活の中で御言葉をひもとくとき、私達の心を開いてくださり、神の言葉としてそれを受け止めさせてくださいますように。また苦難の中でも、この教会はわたしのものだとおっしゃってくださるあなたの憐れみの故に、御名をたたえ讃美します。

どうか、私達が忍耐を持って御言葉に踏みとどまり、神の言葉を聞き続けることができるようにしてください。主イエスの御名によって祈ります。アーメン

2009年07月12日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

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