「あなたも見えるようになる、」img河内常男長老

河内常男長老

聖書ヨハネによる福音書9章1~12

◆生まれつきの盲人をいやす

1:さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2:弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

3:イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4:わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。5:わたしは、世にいる間、世の光である。」6:こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7:そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

8:近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9:「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。10:そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11:彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」12:人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。


【親の罪によるのですか】
イエス様と弟子たちが、通りを歩いおられます。道端に生まれつき目の見えない人が,座って物乞いをしています。どうやら、この人は男性のようです。

弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのはどうしてですか、本人が罪を犯したからですか」、それとも、両親が罪を犯したからですか、と尋ねています。

【神様の御栄光が表されるために】

イエス様は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と、神様の御力が働いて、この人の目が癒されますと言われます。

癒されることによって、その人を通して神様の御栄光が表される。この目の見えない人を癒すことによって、神様の素晴らしい奇跡が行われることを通して、全ての人々が、驚嘆して、神のお名前を褒め称えるようになるのです。

【昼という間に】

さらに、イエス様は神様からゆだねられている業を昼の間に行わなければならないといわれます。イエス様も弟子たちも、昼という間に業をしなければなりません。

神は働くために昼を、休むために夜を与えられました。日が暮れて働く事が出ない夜がきます。

やがて、イエス様は十字架におかかりになる、夜が来る、そうなると、誰も働く事が出来なくなる。

【シロアムの池で洗う】

こうおっしゃって、地面につばをして、泥をこねて、その人の目に塗りシロアムの池で洗いなさい。彼は言われたとおりにシロアムの池にゆき洗うと、目がみえるようになりました。彼を良く知っていた人々は、「彼は座って物乞いをしていた人ではなかったのか。」という人もおれば、いや違う似ているだけだという者もいた。

しかし、彼は「私がそうなのです」とあかしをしています。

【過去の罪のため?】

私たちは、病気など自分の身に災難が降りかかると、私は何か過去に犯した罪のためではないだろうかと思ってしまいやすいのではないでしょうか。

このような考えは、どこの国の人も持つものです。時代が変わっても、国が違ってもこのような因果応報という考えはあるようです。

この目の不自由な彼は、イエス様の唾で土をこねて目に塗っていただいて言われたとおり、シロアムの池で洗いました。そうすると見えるようになったのです。彼は言われたとおり素直に従いました。疑ったりしていません。彼は従順にイエス様の御声にしたがったのです。

【心の目が開かれる】

彼は、目が見えると同時に心の目が開かれました。「私がそうなのです」という言葉からもその事が伺えます。

ヨハネ9章30節を見ますと、彼は信仰告白をしていることが判ります。

「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないとわたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことはお聞きになります生まれつき目が見えなかったものの目を、開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いた事がありません。あの方が、神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」

彼は、肉の目が開かれると、同時に心の目も開かれました。先ほどまで、道端で物乞いをしていた人の言葉とは思えない堂々たる証しです。

この証はユダヤ人に対してしたのですが、恐らく何名かを相手にして会話をしています。

こんな立派な発言が出来ていることは、彼の心に大きな変化が起こったことを意味しています。神の力は新しく目を開かれた、彼の上に働いていることが判ります。神様のみ業がこうして表されたのです。

【回りの人々の反応】

しかし、8節を見ると回りの人々は、彼の目が開かれたことにたいして、どうして目が開かれたのかということばかりに関心が集中しています。どうしてそのようなことが起こったのか。

何故なのか、どのようにして目が開かれたのか。何か特別なことがあったのか。彼らの思いは、そのようなことが起こるはずがない。目の見えない人が、見えるようになるなんて、そんなことが起きるはずが無い、そうゆう目で見ています。

今まで見えなかった人の目が開かれるなんて、そのようなことは信じられない。

この癒された男の人は、飛び上がるほど嬉しかったと思います。でも、回りの人々は良かったといって喜ぶよりも、何故この様な事が起こったのかと、何か怪しげなことを行っているのではないか、というような目で見ています。

【本当に見えているか?】

聖書は、人間は目が見えないものではなく、見えると思い込んでいるのではないのですか?と私たちに問いかけています。あなたの目は、本当に見えていますかと問われています。

イエスさまの目は、私たちに信仰があるのかないのかを見ておられます。人間の目で物を見ると言う事とは、また違ったところを観ておられます。結論から言えば、人間の目で見るのではなくて、イエス様の目で見られるという事でしょう。

【イエスの業を否定するな】

ユダヤ人達は、癒しを行われたイエス様の業を心から褒め称える、感謝するということが出来ません。神から遣わされた、御子イエス様を通してこんなに素晴らしいことをしてくださった有難うございますと感謝をささげるようになれないです。それより、そんな事が起こるはずがない。うたがいの目で見ている。

安息日を守らないようなイエスは(ヨハネ9:16)、神から遣わされた者ではない、とユダヤ人たちは考えました。また安息日を守らないイエスは罪人だと考えました。罪あるものが、このようなしるしを行うことが出来るかと。

律法では、安息日をとても大切に守りました。勿論、労働は禁止です。病気の人をいやすことは、生死に関わるようなな患者を見てあげるのは良いが、この目を癒すような事は、命に関わることではないから、安息日以外に見てもらいなさい、安息日に見てもらうのは、違反だと言うのです。

確かに、彼らの考えは間違っていません。律法に定められた安息日を守ることは正しいことです。安息日を守らないことは罪です。これも間違いではありません。

【相手を裁くユダヤ人の罪】

彼らの間違いは、彼らがいつの間にか、神の座に立っていることです。裁きを行っています。律法を守る自分たちは正しく、守らないイエスは神のもとから来た者ではない。イエスは罪人だ。神を冒涜しているとこう発展してゆくのです。

憐れみはどこかへ行ってしまって、一面的に自分は絶対に正しいとして、相手を裁いていることです。

【かれの前半生】

ところが、ここでは神によって信仰の目が開かれることが、どんなに大きく人を、変えてしまうかが示されています。

彼は、目が見えず働く事もできず、道端で物乞いをしていた人です。恐らく、日ごとの食べ物にも事欠く貧しい生活だったでしょう。生きる事には、希望はなかったでしょう。もし、病気になったり、怪我でもすれば、誰か助けてくれる人がいないとたちまち、命が脅かされる有様でした。

この、目の見えない人はこうして癒されました。初めのところを読むと、この人はイエス様に、私の目が見えるようにしてくださいと願ってはおりません。聖書の癒しを見ますと、ほとんど、イエス様を見かけると、助けてくださいとか、哀れんでください、癒してくださいとか叫んだりしています。この点、この人は静かにイエス様の一行が通りを歩いているのを、ただじっと眺めていた(座っていた)のでしょう。

そのうち、イエス様と弟子たちが、自分のことを話し合っているのが聞こえてきました。自分の目が見えなくなったのは、本人の罪か、両親の罪か、で話をしている。彼はじっと耳を澄ましていたと思います。自分のことを話して居られる、

【盲人の悩み】

彼は障害は、本人のせいでも、両親のせいでもないというイエス様の声を聞いて、なぐさめられたような気持ちになったと思います。なぜ、自分はこんなに辛い目にあわなければならないのか。

自分の目が見えないのは誰のせいなのか、原因探しのような責める気持ちがあったと思います。親に対する恨みもあったかもしれません。また今まで、辛いことや、悔しいことがありました。目の障害のゆえに、差別されて、働くことは出来ません。物乞いしか出来なかったのです。人の憐れみだけで生きてきたのです。それが、イエス様のお言葉で慰められたと思います。彼の心の中にあった、様々なこだわりが少しずつ、なくなっていったと思います。

【イエスの癒しに応える】

そのような彼の表情を見て、イエス様は、足を止められました。聖書にそのようなことは書かれておりませんが、何か彼の心に変化があったのです。その変化は、態度か顔に現れたのだと思います。だから、イエス様は癒されたのではないでしょうか。

普通は、この人は目を癒してもらったのだから、それで充分です。目が見えるようになったから、自分で自由に活動できる、働く事もできる、イエス様有難うといってその場をさっさと離れて、どこかゆきたいところへ行ってしまうことが出来たでしょう。そのほうが、都合がよかった。周りの人に、この人は物乞いをしていた人だとか、いや似ているだけだ、とかあまり、自分のみすぼらしい過去のことをほじくり出して欲しくないです。これからは、自分のやりたいことをやるぞ、今まで、何年も自分は、みすぼらしい物乞いをしていたんだ、これからは過去は一切忘れて、自分の過去を知らない人のところへ行ってどんどん働いて稼ごうと思うことがなかったでしょうか。でも、彼はそうゆう行動はしませんでした。自分を癒してくださったイエス様に従おうとする気持ちが強かったのです。

【主イエスのみもとに】

また、彼は癒されて、一番にこの喜びを自分の母や父に見てもらいたかったのではないでしょうか。お母さん、見て僕の目が治ったよ、と大声で伝えに行きたかったのではないでしょうか。これまで、父母は息子がどうやって生きてゆくのか心配で仕方がなかった。物乞いをしていると聞いて不憫に思っていた。その事を、息子は知っていましたから、この喜びを一番に両親に伝えたかったと思います。

でも彼は、そう言うことはしませんでした。自分を癒してくださった方は、普通の人ではない、この人を信じて生きようと彼は決心したのです。彼は、シロアムの池から戻ってきています。36節を見ますと、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と言っています。

「癒されたことの感謝と、イエス様こそ神のもとから来られた方でなければ何も出来なかったはずだ」との確信が彼を捕らえ、彼は何処へも行かなかった。イエス様の所に踏みとどまったのです。

【真の癒しとは】

彼はファリサイ派の指導者の前で、立派に証をしています。彼は、目を癒されただけでなく、救われたのです。ほんとうのものが見えるようにされたのです。

イエス様のお言葉こそ人を新たに作り変えることが出来ます。いろいろな、否定的な考えで自分を束縛していた人を真に解放してくださいます。自由闊達な生き方へと導いてくださいます。

このお話しは、いろいろなことを私たちに教えてくれる、大切なことがあると思います。私たちもこの男と同じように問題を抱えているということです。私自身もそうです。

【13年間、神経症に悩む】

渡辺裕子さんというカウンセリングの先生の文章をご紹介します。この人は13年間も神経症で苦しんだ人です。

私たちは学歴、肩書き、地位とか名誉、財産これをもつことがすなわち幸福だと思っています。今の状態より、上へ、より上に上昇志向です。がんばります。親も子も頑張れといいます。自分自身にも言い聞かせます。頑張れもっと、でも、この目の見えない男のように私たちの人生には、どう頑張ってもどうしょうもないことがあります。

彼女は「幸福の条件は外側にはない、内側の決心だけだ」と言います。内側の決心とは、「たとえどんな悲しみのただ中にあっても、そこに意味と価値を見出す事だ」それが神から与えられた潜在的可能性なのだといいます。

【肯定的に見る】

例えば、こどもの不登校の問題でも、本来は良くも悪くもなく、その事がただ起きているだけなのだ、後は、その事にどのような意味づけをしてゆくかで幸いか不幸が決まるのではないかといいます。不登校が起きると、すぐ否定的な考えばかりが起きます。でも、ある作家は、自分は不登校になったが、お陰で図書館からたくさんの本を読むことが出来、今の自分があるといわれました。

【すべてのことは最善の為に起きる】

ローマ8章18「神を愛するものたち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」それが信仰ではないかと言います。

意味づけが変わると、行動が変わります。行動が変われば状況や環境が変わるのです。だから何が起きても、主が与えてくださった事だ、最善なのです、感謝しますと受け入れると心は良き方向へ変化します。

【表面的解決でなく】

変えられるものは変える勇気、変えられないものは受け入れる強さと言います。そういう知恵も信仰によって与えられます。

私たちは、子供の不登校があれば、すぐにどうしたら早く学校へ戻れるかという問題の解決へと努力します。苦しんでいる子供をあるがままに受け入れる努力はあまりしない。うつ病になった人には早く元気になって職場へ復帰して欲しいと頑張ります。熱があるのに、体の何処に問題があるかを見ることをせず、とにかく解熱剤で下げようとします。だれに向けられた何のメッセージなのかを聞き取るということをしないと本質から外れた見当違いの努力になってしまう。

【なぜと問うなかれ】

私たちは、問題が起きると、「何故ですか、」と問うことはあっても、「なぜだと思いますか」と私たちが問われているという考え方をあまりしません。私たちが問われているのです。

「こんなに頑張っているのに何故よくならないのでしょうか。」「いったい何時まで頑張ったらよいのでしょうか」「何故こんなことになってしまったのでしょう」と思うことがほとんどです。いつの間にか、自分の努力しだいで問題解決が出来るかのように思い込んでしまいます。

渡辺裕子さんも、13年間ノイローゼで苦しみました。この病気が治る事だけを望んでいました。でも彼女が、直るきっかけとなったのは、神様は私をこういう形で助けようとしてくださって居られるのですね。この病気はそうなる必要があるから起きているのですね。必要がなくなれば終わるのですね。その必要が何か、自分にはわからないけれども最善がなされているのですね。と全てのことを肯定するように祈るように導かれました。彼女はこのような苦しみの中から、信仰が与えられました。

私たちが人生の意味を問うのではなくて、私たち自身が問われているのだと言うことです。

私たちは自分の努力や能力、自分中心の考え、で神を思い通りに働いてもらおうという

【イエス様に出会い真の信仰に導かれる】

神をも支配しようとする何処か、傲慢さ思い上がりの信仰がどこかあるのではないだろうか。たとえ報われない人生でも感謝する、いや、報われないという考えすら思い浮かばないというのが、本物の信仰なのでしょう。

私たちは、こうして礼拝を通してイエス様に親しく出会いが与えられています。こうして出会ったときこそ、受け入れるようにしなければなりません。チャンスはそんなに多くはないのです。イエス様を信じ受け入れることを決心されると、新しい状況が開かれます。

【わたしの証し】

私も、前にお話ししましたが、台湾からの引揚者でしたから、小、中、高校の頃は、大変な貧乏で、また、小学校へ転入したときには、台湾人と言われひどいいじめにも会いました。ですから、何とか、貧乏から脱出したい、そればかりでした。就職してからは、一生懸命に働きました。でも、自分さえ良ければ良いということでは、人間関係が悪くばかりで、何度も衝突しました。でも、そうゆう事があって、自分の惨めさや罪が判ったのです。

伊丹教会へ導かれて、ここの近藤先生やもうなくなられましたがご両親たち、山口兄に出会うことが出来ました。本当に不思議な主のお導きをいただいています。

【真の豊かさ】

今日の、準備をしながらこの目の見えない人は自分の姿なのだと改めて思わされました。

つらい戦争のための貧乏だとか、いじめにあったとかで、自分は豊かになりたかったのです。貧乏が怖かったのです。こうゆう拝金信仰からは何も見えてこないのです。

【日のあるうちに】

私たちがイエス様に出会うときは、そんなに度々ありません。ここで、4節「私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。」とありますのは、イエス様にお会いした時に、受け入れなければ、もう再びお会いする機会は限られています。という意味です。それが日のあるうちなのです。やがて夜が来ます。私たちは歳を取ります。

頑なにならないうちに、柔らかい素直な気持ちで、福音が受け入れられる内に、イエス様を信じるようになりたいです。

そして、新たにされたクリスチャンは自分に与えられた賜物、健康、能力、知恵も力も用いて、神様と隣人にお仕えしてゆく事です。自分の為にではなく。

神に喜ばれ、隣人に喜ばれる事は本当におおきな喜びです。自分を喜ばすのではなく。

【聖霊によって心の目を開かれる】

この目の癒された記事は1より41節までとても長い文章です。これほど長く書かれているのは、意味があることだと思います。

ここでは、全てのクリスチャンが経験する大切な真理が示されています。誰でも、霊の目が開かれるために、キリストの十字架から流れる聖霊(水)によって目を洗われなければなりません。シロアムの池で洗うのです。この聖霊は、キリストが十字架で勝ち取ってくださったものです。この聖霊の水は、バプテスマの水を表しています。この水によって清められて、本当の意味で目が開かれるのです。

私たちのなすべき事は、だだ一つ、主イエス様の前に、悔い改めて、立ちとどまる、イエス様の傍に立ち続けることです。

【ギデオン聖書贈呈での出来事】

この4月に尼崎にあるセントトマス大学に聖書贈呈に行きました。去年、贈呈をしたところここの、先生に喜ばれて今年も来て欲しいということでした。

私たちは校門の傍に立って、晴れ姿で大学に入ってくる学生や親たちに聖書を贈呈しました。6割くらいの方が受け取ってくださいます。ご入学おめでとうございますと声を掛けて、聖書です、どうぞお読みくださいと声をかけます。矢張り目出度いという感情もあるのでしょう。有難うございますという返事もあります。

【人を変える聖書】

ちょっと、来られる方が途切れたとき、ふと前をみると、1人のホームレスのおじさんがこちらに向かってきます。私は、どうぞお読みになりませんかと声を掛けました。この方も、聖書を読まれて救われたらどんなに素晴らしいことか。

突然「神なんかいるか」とこのおじさんは、殴ってくるような勢いで、私に向かってきました。私は、もうびっくりで何も言い返すことが出来ません。大声で、なにか怒鳴りながら行ってしまいました。お酒を飲んでいました。とても残念でした。「あ、そう」というだけで受け取ってくれたら良いのに、何も怒鳴ったりしなくても良いのに、読んでくれたら心の中に、何かが起きるのにと思いました。

2009年06月14日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

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