良き羊飼い ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書10章7−18◆イエスは良い羊飼い

7:イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8:わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。

9:わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10:盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

11:わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12:羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――13:彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14:わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15:それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16:わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

17:わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。18:だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」


【子羊の遊ぶ光景】
皆さん、羊と言えば、何が心に浮かびますか。恐らく絵本に出て来るとても可愛らしい子羊の事かも知れません。美しい緑の牧草地に、ふわふわコットンボールのように遊んでいる子羊は何よりも愉快な光景ではないかと思います。羊と直接の経験がない私達にとっても、それはまるで平和と満足のイメージですよね。そして、そのイメージは、いつか牧場で子羊と共に飛んだりはねたりしたいなという憧(あこが)れを私達に起こさせます。ですから、多分今日の御言葉に於ける羊の事を聞くと、本当に暖かい楽しい気持ち感じさせます。

【崖に向かって前進する羊の群れ】

羊は確かに可愛いです。しかし、羊をよく知る人、特に羊の面倒を毎日する羊飼いは、羊の他の面も分かって来ます。実は、羊はそれ程賢くはない動物です。また、よく迷う事と惑わされる事があります。

2005年の出来事ですが、トルコにあるゲバスという村で大変な出来事が起りました。それは羊を何百匹もの損失をもたらした事件でした。ある日、一匹の羊が群れから迷って、その内に急な崖からうっかり落ちってしまいました。そして、友達が見えなくなった事に気づくと、群れの皆が崖の方へ行って、いなくなった羊のあとを追うかのように、一匹、一匹ずつ羊が崖から落ちて、死んでしまいました。羊飼い達が群れを守ろうとしましたが、羊の行動を止められませんでした。羊達は前の羊の後をついて行きました。いくら叫んでも、羊飼いはその行動を妨ぐ事が出来ませんでした。羊達はただ前の羊の後について行く事を考えて、危機を何も感じないで羊飼いの声を聞きませんでした。その日、1,500匹が崖から落ちましたが、その中400匹は死にました。幸いに、その400匹の後に落ちた1,100匹は、生存しました。何故なら、既に死んだ400匹の羊がその羊の落下を和らげるクッションになりました。

この事件を通して私達は羊の知能を見積もる事が出来ます。つまり、動物の中で羊の頭はけっして良い方ではありません。サーカスへ行けば猿や象や馬などが習った芸で私達を喜ばせますが、サーカスで羊を見た事がありますか。それには理由があります。

【羊飼い】

羊は常に羊飼いの世話が必要です。羊飼いから離れると命は長くはありません。餌を自分で探せないので、食べ物や飲み物のあるところへ案内されないと、飢え死にします。更に、羊は自分の身を全然守れません。狼が襲って来ると羊は自衛出来ず、ただ騒いでから諦めて、狼の御馳走になります。ですから、無力な羊は羊飼いの24時間の保護が絶対にいります。さもなければ、自ら自分を害するか、他の動物の獲物になってしまいます。

【私は良い羊飼いである】

今日与えられた聖書の個所に主イエス御自身は私達に対して羊飼いのような役割を果たすと言われました。主はこう言われました。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊の為に命を捨てる。」「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」

皆さん、もし主イエス・キリストは私達の為に羊飼いのような役割を果たして下さるのなら、私達は何に似ていますか?羊?そうです。当たりです。主によりますと、私達人間は羊のようであります。

【羊のような人間】

どう思われますか。自分が羊のような者と思った事がありますか。そういう自己像を持っていますか。多分あまりないことだと思います。私自身は自分が羊のような人だと思いたくはありません。もし私が天才でなければ、愚か者でもありません。そして、ある程度自分の面倒を見る事が出来ると思います。羊程われとわが身をどうする事も出来ない人ではないと信じたいのです。ですから、羊と比べられると、ちょっと抵抗を感じます。象かライオンか、猿でさえだったとしても、まだましですが、自分が羊のようだと言われると、気持ちがあまり優れないですね。

【羊と人間】

しかし、よく考えれば、実際に我々人間は羊と共通点がないとは言えません。我々も迷う傾向が強いのです。大昔、イザヤという預言者はこのように言いました。「私達は羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」(イザヤ書53:6)

つまり、私達は愛する造り主なる神が教える、真の命に至る道の代わりに、自分勝手な道を歩むようになりました。また、良い羊飼いに従うよりも、私達は羊同士の後について行ってしまいます。そして、その結果があまり奇麗いではないのです。実は、その結果はついに滅びに至ります。トルコのゲバスという村の羊と同じように我々人間は思わず崖から落ちてしまいます。

【羊の良い点】

しかしながら、短所が結構あっても、羊には良い点もあります。それは、羊は羊飼いに従う事を習います。そして、羊はその声を知るようになったら、羊飼いが自分の羊の名前を呼ぶと、彼等はちゃんとついて行きます。羊は頭が良くなくても、迷う傾向があっても、自分の身を守られなくても、羊飼いの声を聞き分ける分別力があります。そして、その声が分かると、羊飼いに従う事が出来ます。また、羊飼いに導かれ豊かに生きる事が出来、与えられた自分の目的も果たす事が出来ます。

それが我々羊の姿であります。色んな面で弱いけれども、羊飼いの声を聞きわけ、従う限り、正しい道へと歩む事が出来、羊飼いの保護の元で豊かに生きられます。それは本来の私達の姿です。その姿を知る事はとても大事です。しかし、羊飼いの姿を知る事も重要であります。主イエス・キリストは羊飼いとして私達御自分の羊の為に何をなさいますか。

【私は羊の門である】

今日の個所の7節を見て下さい。ヨハネによる福音書10:7です。「イエスはまた言われた。『はっきり言っておく。私は羊の門である。私より前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼等の言う事を聞かなかった。私は門である。私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして、牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりする為にほかならない。私が来たのは、羊が命を受ける為、しかも豊かに受ける為である。』」

【身を挺して囲いの入口を守る羊飼い】

イエス様の時代、夜になると羊飼いは放牧する自分の羊を呼んで、囲いの中に連れて上げました。大抵その囲いは崖に掘った洞窟のような穴か、集めた石で作られ塀のような所でしたが、出入り口に門がありませんでした。ですから、羊は皆中に入ると、羊飼いは出入り口の所に横になり、そこで夜を過ごした訳です。ですから、羊飼いこそが羊の門になりました。夜明けまで出入り口の間にずっと留(とど)まって、羊を守りました。泥棒や狼や迷う事などから自分の身で羊を守りました。そして、囲いに入れば、羊は安心して夜を過ごす事が出来ました。

同じように主イエス・キリストは私達を呼んで、御自分の囲いに入れて下さいます。私達の魂を全ての害から守り、正しい道を歩ませる為、導いて下さいます。そして、朝になると、私達を囲いから牧草へ案内して、一日中、共にいて下さいます。更に、常に主イエスについて行く事によって命を豊かに授けられています。つまり、主は霊的に満ち足りた生活と人生の真の目的と希望を豊かに賜ります。

【羊の為に命を捨てる羊飼い】

続けて、11節の所を見て下さい。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊の為に命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊の事を心にかけていないからである」と記されています。

私達はキリスト者になり、主に従うと、主は私達の為に責任を持って下さいます。ですから、命を掛けて私達を守って下さいます。その反面、雇い人は私達の持ち主ではないから、ただ賃金を得る為に働いていますので、危機の時、私達を捨てて逃げてしまいます。

【私たちのために御自分の命を捨てて下さった主イエス】

愛する兄弟姉妹、イエス・キリストは文字通りに私達の為に御自分の命を捨てて下さいました。罪人の贖いになるように、自ら進んで十字架で御自分の命を犠牲にしました。その残酷な死を避ける事が出来ましたが、私達に永遠まで続く豊かな命を授ける為、私達に代わって罪の報酬を全部払って下さいました。御自分の命を捨てる程、主イエス・キリストは私達を愛しています。そのような真の救い主に従うべきではありませんか。

最後に、14節の所を見て下さい。「私は良い羊かである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊の為に命を捨てる。私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と書いてあります。

【わたしたちの全てを知っておられる主イエス】

良い羊飼いである主イエス・キリストは私達を完全に知っておられます。私達の全ての事を御存知でありながら、私達を愛します。私達の失敗と弱さ、私達の不信仰と愛の足りない心をも完全に知っておられます。実は、その事を御存知ですので、私達の為に唯一の救いの道を開いて下さいました。つまり、十字架で私達の為に御自分の命を犠牲にして下さいました。

【私の羊も私を知っている】

愛する神は何よりも全ての人類にこの救いを授けたいのです。主はあなたの名を知っておられます。自分よりも神はあなたの事を遥かにもっとよく知っておられます。あなたの喜び、あなたの悲しみ、あなたの恐れと希望をも全部知っています。あなたはこの神を知っていますか。主御自身の愛と憐れみ、御自身の力と懲らしめ、御自身の癒しと赦しを知っていますか。「私の羊も私を知っている」と主が言われました。もしあなたがまだ主を知っていないのでしたら、良い羊飼いであるイエス・キリストはあなたを今こそ探し求めておられます。御自分の恵みの囲いの中に案内する為にあなたを探しておられます。ですから、主から逃げる必要がもうないのです。どうか、あなたの人生を愛する神に委ね、神の赦しを信じ、神によって知られているように神を知る恵みを経験して見てはいかがでしょうか。愛する兄弟姉妹、一人も残らず、私達の良い羊飼いであるイエス・キリストの恵みの囲い、私達の永遠の家に入りましょう。(おわり)

2009年03月22日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

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