主イエスとニコデモ ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書3章1−15◆イエスとニコデモ

1:さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。2:ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

3:イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

4:ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

5:イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6:肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7:『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8:風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

9:するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。

10:イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11:はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。12:わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13:天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14:そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15:それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである

【受難節の40日間】

今朝、私達は今年の受難節の旅を続けたいと思います。キリスト教会は大昔から、主イエスの十字架の贖い死を記念する為に、毎年の受難節に霊的な準備をして来ました。イースター、すなわち復活祭の前の40日間の期間に、キリスト者は主の贖い死の意味を新たに悟らされ、また、自分の信仰生活を顧みる自己評価の機会でもあります。そして、受難節を心より守る事によって、神様が救いに至る主イエスの十字架の贖いの恵みを私達のうちに確かにして下さいます。

【ニコデモ、イエス・キリストと出会う】

今朝与えられた御言葉には、ニコデモという人のイエス・キリストとの出会いがあります。そして、その出会いによって主は御自分が全人類に提供する救いをはっきりと宣言されました。特に受難節の際、私達はその永遠の救いの内容と受ける方法もまた確認すべきだと思います。そうすると、私達一人一人は主イエスの命の値段で齎した素晴らしい恵みを新たに覚え感謝します。また、その恵みをまだ知らない者がいらっしゃるのなら、一日も速く、唯一の救いを賜る主イエス・キリストを受け入れるチャンスにもなります。

【ユダヤ人社会の最高エリート】

今日の御言葉に出るニコデモとは誰でしたか。そして、ニコデモと主イエスの出会いで何が起りましたか。

ニコデモは当時のユダヤ人社会のエリートでした。聖書を教える律法学者であり、ファリサイ派のメンバーとしてその神から頂いた律法にあくまでも従いました。その上、彼はユダヤ人の議員として、権威と高い地位にあったのです。ニコデモ先生はサンへドリンと言う議会の一員でした。サンへドリンとはイスラエルの中のもっとも尊敬された宗教家と政治家と律法学者で形成されました。サンへドリンの71人は最高法院のように、イスラエル全国の宗教問題と民事と刑事の処理を担当していました。ですから、ニコデモ先生は誰よりも人と神の前に自信を持っていたはずでした。彼は神の選ばれた民の中でも最も選ばれた者だと思いこみ、自分の正しさを信じ、神との関係に満足しました。それがニコデモの現状でした。つまり、イエス・キリストが現れるまでの現状でした。

【自己の霊性に疑いを抱くニコデモ】

彼が主イエスの教えを直接に聞いたか、その教えを人から聞いたかは知られていませんが、ニコデモは自分の霊的状態に関して疑いを抱くようになりました。今日の御言葉、ヨハネによる福音書3章1節から3節まで読ませて頂きます。新約聖書の167ページです。

「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、私どもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、誰も行う事は出来ないからです。』イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見る事は出来ない。』」

【なぜ夜にイエスを訪ねたか】

ニコデモはある夜にイエスを訪ねて来たと書いてあります。なぜなら、恐らく彼はその訪問を公にしたくなかったのです。地位と学問の高い彼は福音を説く田舎の先生イエスへ相談しに行くと言うのは皆が驚く事でしょう。更に、主イエスはファリサイ派の律法主義を批判して、彼等を「偽善者」などと呼んだ事があったので、ファリサイ派同士がニコデモのイエス訪問を聞いたらきっと厳しく非難するに違いないと思った事でしょう。ですから彼は暗い夜中、密かにイエスに訪ねましした。高い社会的地位と偉い宗教的資格があっても、自分の魂の貧しさを深く感じ、神との真の関係と交わりに飢えていました。彼は霊的に空しいので、すごく不安に思い、その空しさを満たす為、主イエス・キリストを暗夜に訪問しました。

そして、ニコデモがイエスの所に着いて主に出会うと、不思議にイエスはニコデモが聞いてない質問に答えています。ニコデモの言葉を聞いたらすぐ分かるんですが、彼はある程度イエスを認めていました。主を「ラビ」、すなわちユダヤ教の先生と呼びました。又、イエスを「神のもとから来られた教師」とも「神が共におられる」者とも言いました。しかし、彼は決して、「どのようにして神と善い関係に入る事が出来ますか」、あるいは、「永遠の救いの道はどこにありますか」とイエスに聞きませんでした。しかし、主はニコデモの心を読んで、その思いを見抜く事が出来ました。口でその質問をしなくても、その事を知ろうと、ニコデモがわざわざ夜中にイエスを訪ねて来たと。ですから主ははっきりと彼の口で問われていない質問に答えたのです。

【人は、新たに生まれなければ、神の国を見る事は出来ない】

3節を見て下さい。「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見る事は出来ない。』ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれる事ができましょう。も一度母親の胎内に入って生まれることが出来るでしょうか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。』」

【ニコデモの思い違い】

「人は、新たに生まれなければ、神の国を見る事は出来ない」とイエスはニコデモに教えられました。このお話によって主はニコデモが宗教に関する仮定した事を壊してしまいました。何故なら、魂が空しくても、ニコデモは天国への切符をもう既に購入したと思いこみました。つまり、神の選ばれた民の一人として、その事が保証されていると思いました。アブラハムの子孫であるから、神との特別な関係があったと信じていたのです。更に、ニコデモは誰よりもユダヤ教の色々なルールをちゃんと守りとおしましたから、神は彼を特別に愛したと思いました。そのルールに従って生きましたので、自分が特別に善い人だと思い込みました。そして、もちろん神は彼のような特別に善い人の為に御自分の天国の門を開いて下さるはずだと仮定しました。それなのにニコデモは不安を抱き空しいでした。

ですから主イエスは彼に、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見る事は出来ない」とはっきりと教えられました。結局主はニコデモにこのようにおっしゃいました。「あなたの地位とルールを守る事は良いのですが、霊的に満たして、神との救い関係に入るのに他の事が必要です。それは、新たに生まれる事です。」

【道徳的な人間】

愛する兄弟姉妹、もし自分が神の御前に立って、「どう言う資格であなたは天国に入ろうとするのか」と聞かれると、どう答えられますか。「私は道徳的な人間で、真面目に生きようとしました」と答えたら、どう言われるのでしょうか。主は、「残念ながら、それでは足りないです」と言います。又、「私の善い行動は悪い行動より遥かに多かったので、入らして下さい」と願っても、同じ返事を聞きます。何故なら、完璧である神の標準はそれより遥かに高いのです。実は、神によって受け入れられる為、私達は自分自身の善を持つには、その善は神の御子イエス・キリストと同等のものにならなければなりません。更に、私達は「生きている間ずっとあなたの存在を認めましたので、私を受け入れて下さい」と願っても、神はこのように返事します。「残念ながらそれも足りません。悪魔も私の存在を認めます。あなたは新たに生まれなければ、私の国を見る事は出来ない。その資格が必要です」と神は言われます。

【年をとった者も生まれる事が出来るとは】

そして、あなたはニコデモのように、「年をとった者が、どうして生まれる事が出来ましょう」と聞くと、主なる神はこのように教えて下さいます。「自分の足りない善の代わりに私の独り子イエス・キリストの善に頼らなければなりません。主イエスは十字架であなたの罪の罰を全部払ってしまいました。その贖い死を通してあなたはイエスの義を受け、天国に入る事が出来ます。イエスのみに頼って、心から信じ従いますと、あなたは霊的に新たに生まれます。」

【ニコデモのしたこと】

ニコデモがイエス・キリストを自分の救い主として受け入れたかどうかは御言葉には教えられていません。しかし、聖書に彼の事がまた二つのところに載ってます。ある時、祭司長たちとファリサイ派の人々はイエスを逮捕しようとしました。しかし、ニコデモは議員として主の味方になり、非難されてもこのように主を弁護しました。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならない事になっているではないか。」(ヨハネによる福音書7章51)

そして、主イエスの遺体が十字架から下ろされた時、ニコデモはアリマタヤのヨセフと共に主の遺体を受け取り、ユダヤ人の習慣に従い、お墓に納(おさ)めました。(ヨハネによる福音書19章38)

間違いなく、ニコデモはイエスを尊敬して、危険を冒しても主を助けようとしましたが、私達は彼が主イエスを救い主として受け入れたかどうかははっきりと分かりません。また、自分の空しい魂が満たされたかどうかの事も記されていませんので分かりません。他の人の事はよく分からなくても、しかし、私達は自分自身の救いと永遠の命を確かめる事が出来ます。主はニコデモに教えられたように、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない。」

【霊的新生と新しい出発】

自分の罪を悔改め、主イエス・キリストを心より救い主として信じ、主に従うと、神の力によって霊的に新たに生まれ、新しい出発が与えられるのです。主イエスの霊は私達を満たして、新しい生き甲斐と真の人生の目的と希望が与えられます。私達ははっきりと言えます。私達が神と主イエス・キリストに出会う前と主と出会った後の私達の人生ははっきりと違いがありますね。 さらに、私達の為に主イエスが十字架で齎して下さる「永遠の命」も確かめる事が出来ます。どうか、私たち一人一人は主のみを信じ、その比べられない恵みと平安を受け入れるように祈っています。(おわり)

2009年03月15日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

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