石を手放すこと ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書8章1−11

1:イエスはオリーブ山へ行かれた。

2:朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3:そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕ら えられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4:イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5:こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。 ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

6:イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7:しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

8:そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9:これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

10:イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11:女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

【石投げ紐】
小学校の4年生頃の事ですが、私は石投げ紐に夢中になり、毎日学校が終わると友達と共に石投げ紐を練習しました。石投げ紐は原始的な武器で的確に狙うのはとても難しいですから、私達はいくら練習してもあんまり上手になりませんでした。石投げ紐の遣り方は御存知だと思いますが、1メートル位長さの紐の真ん中の所の革のポケットに小さな石を入れてから、紐の二つの末端を片手に取り、それをぐるぐる回します。そして、標的に向かいながら、一方の紐を手放すと石が飛び出します。とにかく、私は暇があれば、いつも石投げ紐を練習しました。

【石は兄の友人に】

ある兄の誕生日会で仲間達が家の裏の庭で遊んでいました。皆はゲームをしていましたが、私はその横で石投げ紐に夢中でした。石をポケットに入れて一生懸命に人がいない所に投げようとしましたが、下手なので、石が反対の方へ飛んでしまいました。そして、突然大きな叫び声が聞こえたのです。叫び声の方を見ると、中学二年生の兄の友達が地面にうずくまって自分の頭を両手で抱え、大声で激しく泣いていました。

言うまでもなく私はびっくりしました。下手でも人の頭に当たるなんて信じられませんでした。また、私は恐れを感じました。兄の友達にそんな事をすると、きっと怒られるはずです。その上、怪我をさせたら大変な事になります。

私は何とか勇気を出して、被害者の方へ行って、「大丈夫?」と泣いている彼に聞きました。彼は額の真ん中の傷の所を見せて、「お前が投げた石はここに当たった。すごく痛いよ。もし目に当たったら、見えなくなったんだぞ」と叫びました。小さい私は何回も彼に謝りました。幸いに彼はわざと打つつもりじゃない事が分かり、怪我も軽く済んだので、何とか収まりました。

しかし、その事件後、私は石投げ紐の遊びを完全に止めました。一つの小さな石が与える恐ろしさを悟り、そんな危ない遊びはもうこりごりでした。

【石を投げる危険性】

今日与えられた御言葉から主イエス・キリストは石を投げる危険性を人々に教えられました。この個所にある女の人は姦通の現場で捕らえられました。律法学者達やファリサイ派の人々、すなわちその時代のユダヤ教の指導者達は主イエスを計略にかけるために彼女を連れてきて主の前に立たせ、言いました。

「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。どころで、あなたはどうお考えになりますか。」

【わる賢い罠】

当時のユダヤ教の律法によりますと、彼女の行為は死刑を受けるに値しました。しかし、イスラエルを治めたローマ帝国の法律はユダヤ教のリーダー達には死刑を宣告する権限が与えられていませんでした。もしイエスは、「我々の律法の通りに彼女を投石しなさい」とおっしゃったら、ローマ帝国に逆らう者になります。逆に、「石で打ち殺してはならない」と言うと、皆の目の前でユダヤ教の律法を無視する者になってしまいます。ですから、イエスの敵は主を捕まえる為に、非常に賢い罠を掛けたと思ったのです。

しかし、主イエスは女の人の罪の代わりに、律法学者達とファリサイ派の人々が犯した罪に注目して、彼等は自分達が作った罠に陥とされました。主は彼等の質問を聞いてから、「かがみ込み、指で地面に何か書き始められました。」しかし、彼等がしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われました。「あなた達の中で罪を犯した事のない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そして、この聖句によりますと、「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。」

【罪を赦す主イエス】

主イエスは地面に指で何を書いたのでしょうか。実は聖書にそれが記されていませんが、恐らく書いたのは指導達が犯した罪ではないかと思います。とにかく、主は女の人にこう聞きました。「婦人よ、あの人達はどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか。」そして、彼女は、「主よ、誰も」と答えると、イエスはこう言われました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」このイエス・キリストの赦しの言葉を通して、私達の為の神の愛と憐れみがよく分かります。

もちろん神はあらゆる罪を憎まれるので、人間の全ての罪は主にたいして侮辱になります。ですから私達も自分自身の罪と人の罪を憎み反対します。しかし、神は罪そのものを憎みながら、同時に罪人を心から愛します。聖書に記された通りに、「神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁く為ではなく、御子によって世が救われる為である。」(ヨハネによる福音書3章16−17)ですから、私達は神と同様に、罪人を愛するようにと教えられています。

【石を投げたがるわたしたち】

しかしながら、私達は罪人の為の神の愛をよく忘れ、人を厳しく裁き、律法学者達やファリサイ派の人々のように、彼等に石を投げようとします。自分が犯した罪を見落としながら、相手の罪や過ちや失敗などはすぐ分かり、喜んで人を責めます。

【ユダヤ教指導者達の罪】

ユダヤ教の指導者達は律法を守る振りをしながら、非常に独善的でした。姦通の現場で捕らえられた女の人を公に責めて、恥をかかせました。また、彼女の改心よりも、滅びを好みました。救いよりも彼女の罰を願ったのです。その上、彼等は女の人を利用して、主イエスを罠にかけようとしました。実は、その罪は彼等には便利なものでした。イエスを台無しにしてしまう為に、そのような女を探して、皆の前に出しました。彼等は主イエスの真理と人気をおそれて、女を利用して群衆の前で主を落とし穴に入れ、主を困らせようとしました。

【わたしたちの投げる石とは】

律法学者達とファリサイ派の人々の行動は卑怯でした。私達皆はその事に同感ですが、私達の日々の行動はどちらなのでしょうか。私達皆も日々罪を犯しています。ちょっとした事でも人を利用したり、人を責めたりします。私達も石を投げた事があります。なぜなら、ユダヤ教の指導者達と同じように私達も自己中心的なのです。赦せない心を抱いて人に対する怒りと恨みと妬みを持ち続けます。その為に石を投げます。もちろん私達が投げる石は文字通りの石ではありません。その代わりに私達は愛のない傷つける言葉を投げます。人に相手の悪口とうわさ話をします。密かに相手の目的を邪魔します。それが形として罪として現れない時も多いのです。その事によって私達は一つ一つの石を投げ続けます。

【集めた石は重すぎる】

誰でもこの世に住むと、ある程度の石を集めます。失敗の石、恨みの石、不公平の石、悲しみの石、怒りの石、思い煩いの石、傷つけられた為の石などを集めます。そして、その石が重なると、それを手に取って人に投げる傾向が強いのであります。そして、ある場合、その石を手に取って自分自身に投げる事もあります。つまり、その石が私達を滅ぼす力を持っています。ですから、何よりもその石を手放さなければなりません。その重くなった石の収集物をゴミとして捨てなければなりません。

【沢山の石を手放すには】

しかし、それはなかなか難しいですね。特に傷つけられた思い、不公平な扱いを受けた事、恥をかかせられた事、大失敗の事などはなかなか乗り越え難いのです。その石を手放し、完全に捨ててしまい、忘れるのは簡単ではありません。

愛する兄弟姉妹、幸いに、一つの方法があります。実は、一つの方法だけが与えられました。それは先ず自分の罪の為に神の赦しを受けなければなりません。長い人生に抱えている沢山の重い石をイエス・キリストに下ろすのであります。全く罪のないイエス・キリストは私達の罪の罰を御自分の身に受けて、私達を贖って下さいました。主イエスの十字架の贖い死のお陰で神は私達の過ちや、自己中心的態度・行いや、私達の全ての不義などを完全に赦して、私達を御自分の愛する子供として受け入れて下さいました。更に、この世の歩みが終わると、主は私達を御自分の永遠の国に歓迎してくださいます。

この大きな赦しを神から私達は戴きましたので、私達はどんなに赦せない相手でも赦すべきではありませんか。自由に神によって赦されたから、自由に私達も赦す事が出来ます。

【主の祈り】

毎週の主の日の礼拝に私達は主の祈りを共に捧げます。主イエス・キリストが下さったこの主の祈りの中にこの意味深い祈願があります。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」私達は神によって赦された者ですので相手を赦す事が出来ます。それでも、赦す事が出来なかったら、私達は恐らく神の赦しの理解と経験が足りません。主イエス・キリストを救い主として心から信じ、御神の愛と赦しを受け入れると、私達は人を赦す心が神から与えられます。

【耐えられない重荷を解放してくださる主】

皆さん、今日、どのような石を手にしっかり握っていますか。怒りの石。恨みの石。妬みの石。それとも悲しみの石ですか。その全ての石は耐えられない重荷になり、あなたを駄目にし害となります。どうか、今の受難節の際、その石全部を手放して見てはいかがでしょうか。主イエス・キリストによる解放という救いを受け入れて見てはいかがですか。(おわり)

2009年03月08日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/198