自分を捨てること ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書8章31−38◆イエス、死と復活を予告する

31:それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32:しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

33:イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

34:それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35:自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。36:人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。37:自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。38:神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」



【受難節】
私達は先週の水曜日から受難節に入りました。キリスト教会は大昔から毎年の受難節に私達の為、主イエス・キリストの十字架の贖い死を覚え、その深い意味と重要性を新たに考える時でもあります。言うまでもなく、主イエスの贖い死がなければ、私達は罪の故に神と敵対状態のままであり、救いも希望も全くありません。しかし、主の十字架死のお陰で、罪の全くないイエス・キリストは、罪の為に私達が受けるべき罰を御自分の身に受け、私達主を信じる者は神の赦しを頂き、永遠まで主の豊かな恵みのうちに生きる事になりました。御言葉は主の受難の目的をこのように説明します。「罪と何の関わりもない方を、神は私達の為に罪となさいました。私達はその方によって神の義を得る事が出来たのです。」(コリントの信徒への手紙二5:21)

それは十字架の素晴らしいメセージです。主イエスの死のお陰で神は私達一人一人を贖い、赦し、そして、私達を御自分の子供として完全に受け入れて下さいます。受難節を守る事によってその言い尽くせない恵みを新たに覚え、感謝します。

また、40日間の受難節に私達それぞれは自分自身の信仰生活を吟味し、よりもっと忠実な主の子供になるようにと決心すべきです。ですから、私達は受難節に主イエスの献身的愛を覚えながら、その愛を模範として、神と隣人に仕えます。

【受難節は復活祭の準備期間】

受難節はイースター、すなわち復活祭の前の日に閉じます。今年、その日は4月11日になります。その次の日、イースターに、私達は全世界教会と共に主イエス・キリストの復活をお祝います。そして、今年の受難節と言う準備期間を充実する事によって、復活祭の喜びは何倍にも増えてきます。何故なら、主の十字架がなければ、復活の勝利もなかったからです。また、十字架がなければ、私達の救いと永遠の命も不可能になります。

イースターまでに皆さんと共に受難節を忠実に守りたいと思います。どうか、今年もこの40日間の歩みを通して私達の信仰と献身がもっと深くなるようにと祈っております。

【人の子は殺され、三日の後に復活する】

さて、今日与えられた御言葉によって主イエスは御自分のこれからの受難を弟子達にはっきりとお知らせになりました。マルコによる福音書8章31節を見ますとこのように記されています。「それからイエスは、人の子(すなわち、主イエス御自身の事)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者達から排斥されて殺され、三日の後に復活する事になっている、と弟子達に教え始められた。しかも、その事をはっきりとお話しになった。」

【イエスの弟子になった動機】

主イエスは、天の父なる神によってこの世に遣わされた主な目的は、十字架で全人類の罪を贖い、私達を神に和解する為でした。それはイエス・キリストの最高の使命でした。しかし、弟子達がその事を聞くと結構なショックを受けたのです。彼等は弟子になった時、色んな動機で自分の生き方を辞め、主に従って来ました。

【イスラエルの救い】

恐らくその第一の動機はイエスこそがイスラエルの救い主だと信じ、主に仕える事によって、国の救いを早められると思い込んでいたかも知れません。当時のイスラエルはローマの植民地になってしまい、色んな面で苦しい時期でありました。厳しい外国の支配の故、政治的に、経済的に、宗教的にも圧迫され、住民は何よりもローマ軍と政権をイスラエルから追い出し、国の独立を回復したかったのです。ですから、主の弟子達は第一に政治的救い主を期待しました。そして、その救い主が権力を握ると、彼等ももちろん偉くなるつもりでした。ですから、主イエスは御自分の苦しみや、排斥される事や、殺される事などを言うと、弟子達はその事が受け入れられませんでした。そうなると自分の夢は破られてしまい、偉くなるどころか、主に従う前よりも生活がもっと酷くなるのでした。

【ペトロの反応】

それ故、一人の弟子ペトロは主イエスの気がかりなお話を聞くとパニックになり、「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」と32節の後半に書いてあります。ペトロの言葉は記されていませんが、私達はそれを十分想像出来ます。「主よ、何をおっしゃるのですか?殺されるなんて、とんでもありません。あなたはイスラエルの王になる能力が十分あるのに、どうして敗北主義的な態度を取るのですか?あなたが殺されると我々弟子はどうなるの?私達の立場も考えて下さい。」

ペトロからそのいさめを聞くとイエスは振り返って、弟子達を見ながら、ペトロをこのように叱りました。「サタン、引き下がれ。あなたは神の事を思わず、人間の事を思っている。」実際、弟子が主人にその使命を教える資格はありません。逆に、弟子達は主イエスに教えられ、従う立場です。主は神から与えられた使命が分かり、どんなに難しくても、その使命を果たすつもりでした。

【「サタン、引き下がれ」】

ですから、主はペトロの言葉を聞くと、それは悪魔からの誘惑だと思って、「サタン、引き下がれ」と命令されました。神の事、すなわち主が神から与えられた使命を思わず、ただ人間的に考えていましたのでペトロは悪魔によって用いられました。御自分の使命は必ず苦しみと排斥と死さえも必要でありました。その苦しみによってこそ全人類が癒され、唯一の救いの道が開かれます。

【自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従え】

主イエスは悪魔の誘惑に勝ってから群衆を弟子達と共に呼び寄せて、こう言われました。34節のところを見て下さい。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私の為、また福音の為に命を失う者は、それを救うのである。」

【自分を捨てるとは】

我々キリスト者は主の後に従う者です。すなわち、主イエスを信じ、主御自身の教えによって生きる訳であります。そして、主によりますと、私達は主御自身の後に従おうとしたら、自分を捨てなければならないと言う事です。愛する兄弟姉妹、ここでの「自分を捨てる」事はどう言う意味なのでしょうか。

【好きなもの絶ち】

昔からキリスト教の習わしですが、主イエスの十字架の苦しみに少しでも参加する為に、受難節の際、キリスト者は、一つの課題を持ってお祈りをしたり、好きな物を自制したりしました。特に好んだ食べ物を受難節の間我慢する者もいました。お肉やお酒やケーキなどを自粛する事によってイエス・キリストが私達の贖いの為に支払った犠牲がよりもっと自覚出来るならば、その事はとても良い信仰の成長になります。しかし、キリストは今日の御言葉に、「私の後に従いたい者は、自分を捨てる」とおっしゃいました。つまり、好きな飲食を捨てるのではなく、「自分を捨てなさい」と教えられたのです。

【殉教】

信仰ために迫害を受けた初代教会はその主の教えを文字通りに理解しました。真の信仰を捨てる代わりに、自分の命を捨てた訳です。教会の歴史に殉教者の人数が数え切れません。鎖国の時代の日本の教会も文字通りに自分を捨てた信者の立派な証が今も模範を示します。彼等は自分の命よりも主イエス・キリストを愛して、死までも忠実でありました。

【周りの者の非難を恐れない】

しかしながら、自分を捨てると言うのは今の私達にとってはどう言う意味なのでしょうか。恐らく、一つの意味は、私達は主イエスに従う為に周りの者の非難を恐れず、それに耐える事ではないでしょうか。先輩達は信仰の為だったら、惜しまずに自分の命までも捨てて主に従いました。主イエス・キリストに従うというのはもちろん沢山の恵みや祝福がありますが、それに伴って主に従う時、周りとの難しい部分もあります。主イエスは私達の為に御自分の命を捨てる程私達を愛して下さいますので、その神の力と助けで何でも乗り越える事が出来ます。

主は、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われました。「自分の十字架を背負う」と言うのは何の意味でしょうか。西洋ではその表現には何かを我慢する、耐えるという意味がありました。例えば、リウマチや耳が遠い事や腰の痛みなどは、自分が背負わなければならない十字架だと言います。同じように、苦手な相手も「自分の十字架」だと言う表現もあります。しかし、イエス・キリストがその表現を用いた時、こう言う意味がありました。

【主イエスの十字架を背負うとは】

イエスの時代、十字架刑は大変恐ろしい意味があったのです。死刑囚は処刑場へ連れられる時、一つの罰として自分の重い十字架を文字通りに背負わなければなりませんでした。イエス・キリストも御自分の十字架を背負わされました。ですから、「自分の十字架を背負う」事はただ痛みや苦手な相手を我慢するだけではなく、イエスに従う事に伴うリスクと危険の事でありました。

主イエスに忠実に従う私達は他の人と違います。イエス・キリストが自分の頭(かしら)になると、自分の価値観、自分の行動は周りの者と異なる事が出て来ます。それが悪い時ばかりではありませんが、場合によっては、その故にトラブルを起こす事もあります。主に従ったら、主の戒めに従わなければなりません。例えば、隣人を自分のように愛します。敵さえも愛します。自分の生活を通して証を立てます。そうすると、非難や摩擦や危機を経験する可能性があります。ですから、自分の十字架を背負うと言う事と主に従う事は同じではないかと思います。ある場合、それがリスクとトラブルを伴う事もあります。しかし、イエスに従う喜びと希望はそのリスクとトラブルよりも遥かに多いのは確実であります。また、主はいつも私達と共にいて助けて下さいます。

【主に従う生き方を】

今年の受難節に主イエスの御言葉、「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」を学びたいと思います。この重要な言葉をおっしゃったお方こそは、私達の為に御自分の十字架を背負って、また、私達の永遠の救いの為にその十字架で死なれました。それは私達皆にとってとても善いお知らせ、素晴らしい福音であります。愛する兄弟姉妹、この受難節の40日間に自分を捨て、自分の十字架を背負ながら、喜びを持って主イエスに従いましょう。(おわり)

2009年03月01日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

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