信仰と行い ウイリアム・モーア宣教師

ヤコブの手紙2章14−26◆行いを欠く信仰は死んだもの

14:わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。 15:もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、16:あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。17:信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

18:しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。19:あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。20:ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。 21:神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。22:アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。23:「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。24:これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。25:同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。 26:魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

【発明家ベルと電話】
アレクサンダー•グレアム•ベルは有名な科学者で発明家でした。色んな大事な物を発明しましたけれども、一番大きな影響を及ぼした発明は現在も私達と全人類が毎日使っている物です。その物がなければ、私達の生活は大変不便になります。ベル先生と言えば、皆さんはもうお分かりになったでしょう。彼の発明は電話です。電話の発明のお陰でベル先生は通信に革命を起こし、素晴らしい賜物を人類に下さいました。そして、それだけではなく、ベル先生は電話で有名になり、大金持ちにもなりました。

【特許申請】

しかしながら、彼はその発明の利益全てをもう少しで全部失ってしまったところでした。と言うのは彼がだらだらして、電話の特許の申し込みを出しませんでした。幸いにベル先生の弁護士がそのぐずつきの危険性が分かり、旅行中のベル先生に代わって特許局へ行って、1876年2月14日に電話の発明をベル先生の名前で登録しました。

実はその同じ日、エライシャ•グレーと言う発明家も電話の特許を登録しようとしました。グレー先生も長い間電話を研究して、やっと実現しました。しかし、ベル先生の申込書が特許局によってちょっと先に受け付けられたので、電話の特許はグレー先生の物ではなく、ベル先生の物になりました。あの弁護士の行為のお陰で歴史の一面が代わって、ベル先生は電話の発明家として今も私達に覚えられています。

【信仰と行い】

このお話によって大事な事が思い出されます。それは、ただ良いアイデイアを思い付く事だけでは不十分であるという事です。そのアイデイアを実行する必要性もあります。今朝は信仰と行いの事について一緒に学びたいと思います。

ベル先生とその弁護士の例は信仰と行いの関連を教えて下さいます。ベル先生は自分の発明の価値を信じていましたが、その発明を守る為に何もしませんでした。その反面、弁護士は発明を信じただけではなく、積極的な行為によってその高価なものを守り抜きました。つまり、キリスト者は真の信仰があれば、当然その信仰は善い行いを伴います。その意味でヤコブがこう言いました。「行いを伴わない信仰は死んだものです。」(ヤコブの手紙2:26)

今日の個所の背景を少し説明します。この御言葉が書かれた時点で、あるキリスト者がこのような立場を取りました。「イエス・キリストを信じていれば、どんな事をしてもかまいません。自分の行いではなく、信仰によって救われますので、行動は自分の霊的な状態に関連がありません。」

更にある人はこうまで言いました。「神の赦しと恵みを増やす為に罪をどんどん犯しても良い。」その誤った立場に対してヤコブはこう書きました。今日の御言葉の14節を見て下さい。

ヤコブの手紙2章14「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」

ヤコブが記した通りです。生活に必要な物を持ってない人にただ、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うことは、全く無益です。善い行いを伴わなければ、何も役に立ちません。逆に、相手の憤慨を起こさせる事になります。それはただ空虚な言葉になるからです。同様に、いくら強い信仰を持っていると主張しても、そして、いくら奇麗な言葉で自分の信仰を人に表しても、その信仰に伴う行いがなければ無益です。口先だけのものになってしまうからであります。そのような信仰は「死んだものです」とヤコブが言います。つまり、生きていません。

【主イエス・キリストの贖いのゆえに】

間違いなく、新約聖書全体は、人間の永遠の救いは神の恵みにより、信仰によったものであると教えられています。主イエス・キリストの贖い死がなければ犯した罪の故に、私達一人も残らず滅びに向かいます。罪の全くない主イエスは私達に代わって罪の罰を御自分の身に受けて下さいましたので、私達は神の赦しと永遠の救いを頂けます。私達はその賜物を善行によって勝ち得る力は全く無くて、ただ信仰で神とその恵みを受け入れる必要があります。

使徒パウロがエフェソの信徒への手紙2章8節からその重要な真理をまとめます。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われます。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。なぜなら、私達は神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業の為に、キリスト•イエスにおいて造られたからです。私達は、その善い業を行って歩むのです。」

【信仰と行いの順序】

私達は恵みにより、信仰によって、善い業の為に救われました。その順番です。決して善い業によって救われていません。それは全く逆です。キリスト者の生活に信仰と行いは呼吸(こきゅう)に似ています。信仰は福音を吸う事。そして、行いは福音を吐き出す事のようです。生き続けるなら、吸う事と吐き出す事両方が必要ですが、息を吸う事は先になります。

私達は恵みにより、信仰によって、善い業の為に救われました。自由に神様の賜物を頂いた私達は自然にその恵みに答えて主と隣人に仕えます。この世で神の働きに参加する事は信者の喜びと特権です。私達の行いを通して主イエス・キリストの教えに従い、主を喜ばせる事は当然です。

【主イエスの来臨と再臨】

永久の神でありながら、主イエスは私達の為に人間の赤ちゃんになり、身分の低い者として生まれました。私達の為にこの世に住み、人間が経験する事全てを味わいました。そして、私達がイエス・キリストの敵であった時、主は私達の永遠の救いの為に十字架の死を受けて下さいました。更に、私達の為に復活させられ、私達の為に今天で父なる神の右に座り、執り成して下さいます。主は聖霊を通して現在私達と共にいて、力と知恵、愛と希望を満たして下さいます。物質的祝福も授けて下さいます。そして、将来私達の為に再びこの世に降り、ここで御自分の国を成就されます。私達はその事の前に天に召されたら主はそこで私達を永遠の喜びに歓迎します。

【主から受けた恵みを隣人に】

信仰によってイエス・キリストの比べられない程の恵みを経験する私達は行いを通して主に従います。私達に示された神の愛と憐れみを隣人に現します。福音の恵みを回りの者に分かち合います。この世でイエス・キリストの働きを続けます。それは私達の使命と特権です。神から真の信仰の恵みが賜られて、自然な反応として善い行いを実行します。

【善きサマリア人】

主イエス・キリストは信仰と行いの関連を教える為に「善きサマリア人」と言う譬え話を語りました。多分何度もこのお話を聞いた事があるけれども、新たに聞いて下さい。ルカによる福音書10章30からお読みします。

「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしてまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。どころが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』

イエスは譬え話を語ってからこのように尋ねました。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。

「行って、あなたも同じようにしなさい。」

祭司とレビ人、両方はユダヤ教の先生でありながら、襲われた人を無視して通り過ぎて行ってしまいました。その二人は立派な信仰を持つはずでした。その反面、ユダヤ人の目から見ると堕落したサマリア人は憐れんで、神の愛を追いはぎの犠牲者に具体的に現しました。骨を折って彼の世話をしました。その行為は真の信仰から来ました。その反面、立派な信仰を持つはず祭司とレビ人の行いはその信仰に伴いませんでした。残念ながら、真の信仰に相応しい行いを現しませんでした。

【行って、あなたも同じようにしなさい】

主イエスは行いが伴うサマリア人の信仰を誉めて譬え話を聞いた人にこのように言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい。」そして、主イエスは私達にも「行って、あなたも同じようにしなさい」と招いて下さいます。毎日の生活に信仰を実行して、小さな行いを通してでも神の豊かな恵みに答えましょう。そうすると、信仰が生き生きしたものになり、段々成長します。(おわり)

2008年09月14日 | カテゴリー: ヤコブの手紙 , 新約聖書

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