「試練と信仰」淀川キリスト教病院伝道部長 田村英典牧師

聖書:ペトロの手紙一1章3~7◆生き生きとした希望

3:わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4:また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。5:あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。

6:それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7:あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。


【試練は必然】
今朝は、私たちにとって最も重要な問題の一つである試練について、御言葉から改めて教えられたいと思います。「朝から試練の話とは、ちょっと重苦しい」と思われる方があるかも知れません。しかし、これは状況を選んでおられるような悠長なテーマではありません。これは信仰に生き、戦っている真のクリスチャンにとって、常に差し迫った問題です。ですから、ペトロも手紙の冒頭ですぐこの問題に言及します。

私たちの将来がどんなものになるかは、誰にも予測できませんが、色々な試練が待っていることだけは間違いありません。そうであるなら、あらかじめ御言葉により備えをしておくことはとても大切です。

【試練を心から喜んでいる】
今朝は特に6、7節に注目致します。ペトロは言います。6節「あなた方は心から喜んでいる」と。何を喜んでいるのでしょうか。

【喜びの内容】
3~5節でそれが言われています。第一に、神は信仰者に3節「生き生きとした希望を与え」、第二に、信仰者を4節「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者として」下さり、第三に信仰者は5節「終りの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られてい」ます。これらは基本的な恵みばかりですが、小アジアのクリスチャンたちはこれらに固く立って励み、困難の中にあっても、6節「心から喜んで」いました。

こうして、ペトロは彼らが信仰により喜びながら、それも何ものも奪い去ることのできない、朽ちず、汚れのない恵みの中に生きていることを確認しました。しかし、このことは、彼らがもはや試練を何とも思わなかったことを少しも意味しません。一方で天を見上げ、神の下さった永遠の救いを思うと心は高揚する。

【今暫くの間の試練】
他方、自分たちを襲っている今の厳しい現実を思うと、思わず身がすくむ。こんなことがいつまで続くのかと、不安に押しつぶされ、時に絶望しそうになる。矛盾しているようですが、これがこの世でのクリスチャンの偽らざる姿であり現実です。ですから、ペトロは6節、彼らが「心から喜んでいる」ことを認めつつも、すぐ、「今暫くの間、色々な試練に悩まねばならないかも知れ」ないと言うのです。

【試練を克服するには】
問題は、私たちが如何にして試練に打ち勝つかです。私たちの人生において最重要なことの一つは、どうやって色々な試練を克服するかです。無論、信仰の力によってです。しかし、そのように言うだけでは抽象的過ぎます。それでは実際に試練に直面した時、殆ど役に立たないでしょう。私たちはどうあるべきか。試練についての正しい教理的理解が不可欠です。試練について、ここから三つのことを教えられたいと思います。

【試練が私たちに臨む理由】
第一は、試練が私たちに臨む理由です。試練は神の御心により必然的、あるいは必要なものとして私たちに臨むということです。6節「色々な試練に悩まねばならないかも知れませんが」とありますが、ペトロが本当に言おうとしているのは、単なる可能性ではありません。彼は手紙の読者たちが既に試練に遭っていることを良く知っていました。教えたいのは、試練は神により必然的なものだという位のことなのです。だから、何も驚き怪しむべきでないと。「色々な試練」とあります。彼らが遭っていたのは、特に回りの異教社会からの迫害や中傷でした。

【この世は主の民を迫害する】
2章12、彼らは回りから「悪人呼ばわり」され、4章3、クリスチャンとなった彼らが今やかつてのように「好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝」などにふけらず、4章4「ひどい乱行に加わらな」いので不審に思われ、そしられていました。クリスチャンは今や新しく生れ変った者として、周囲の人と異なった目的意識と価値観の下に異なった生活を営み、異なった思想を持ち、独自の習慣を持っています。

それを見ている回りの人は違いに気付き、表向きはともあれ、本当はそれを嫌い、不快に思っています。従って、クリスチャンが試練で悩まなければならないのは必然なのです。パウロも言います。Ⅱテモテ3:12「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」

自分の信仰や考えを他の人に分ってもらえないのは辛いことです。それが家族や友人である場合、一層辛いものになります。試練には他にも病気、事故、災害など色々あります。

【訓練としての試練】
しかし、私たちのはっきり知っておくべきことは、それら全ては神が必要と思われるから臨ませられるのであり、試練は私たちを愛する神の御心の故に必然的だということです。例えば、神の子とされたクリスチャンの地上生涯における訓練の一つとして、神は試練を臨ませられます。信者を矯正し、怠惰や気の緩みを懲らしめられます。

【将来の働きに備えさせるための試練】
また、将来の働きに備えさせるために、試練を与えられることもあります。これも聖書の示す原則の一つであり、長い教会の歴史と信者たちの生涯によって実証されています。ある人に神が特別な使命を遂行させようとされる時、まず試みをお与えになるのが普通です(創世記のヨセフ、出エジプトの時のモーセなど)。また、人を将来のより大きな試練に備えさせるためにもあります。前もって幾分耐えやすい試練を与え、将来の過酷な試練に備えさせる。それなら、これは必要なものです。以上が第一点です。

【今暫くの間】
二つ目は、短く触れておきますが、試練の性質についてです。すなわち、試練はいつまでも続かず、クリスチャンは必ず乗り越えられるということです。

ペトロは6節「今暫くの間」と言います。そうなのです。どんな試練も「今暫くの間」なのです。たとえ天に召されるまで生涯続くとしても、やがて私たちがキリストの再臨の内に必ず与る永遠の祝福に比べるなら、正に「今暫くの間」でしかありません。ですから、パウロもこう言えました。Ⅱコリント4章17「私たちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれ」ると。

【試練は一時的で、必ず益になる】
試練はいつまでも続きません。決して永遠ではありません。神は、試練の長さも私たちのためにコントロールしておられます。困難は神が定められた時に到来し、神が定められた時にまた去っていきます。全ての時間が天の父の御手の内にあり、究極的には私たちの益となる場合以外、決して試みられたり試練に会ったりしない。それ以上長くもならない。神は、試練を送るべき時と、その程度を見極めておられる。ですから、私たちはパウロと共に確信をもって次のように言うことが出来るのです。

Ⅰコリント10章13「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」

【試練は私たちの信仰を試す】
最後、三つ目の点は、試練の究極的な意義、目的です。試練は、私たちの信仰が本物であることを試すためにも必要だということです。7節「あなた方の信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちる外はない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」

第一点では、試練が信者にとって避けられない必然だという一般的な点を確かめました。しかし、第三点は、試練のもっと究極的な意義についてです。すなわち、それは私たちの信仰が本物であることを試すということです。興味深いことに聖書は、神が人の信仰を試されることを、しばしば貴金属の精錬と比較します。例えば、ヨブ23章10にこうあります。「神は私の歩む道を知っておられるはずだ。私を試して下されば、金のようである事が分るはずだ。」

【信仰の絶大な価値】
箴言17章3は言います。「銀にはるつぼ、金には炉、心を試すのは主。」要するに、信仰はそれ程尊く、絶大な価値があるということです。金は高価です。実際、これ程安定して価値のあるものは、この世に外にないと思います。しかし、信仰の価値とは比較になりません。信仰は朽ちず、永遠です。金は私たちの生涯のある時、ある部分を支えるかも知れません。しかし、信仰は私たちの全生涯を支え、決定的に意味あるものにします。

いいえ、私たちを永遠に救います。信仰は私たちを地獄から救い、天国に結び付けることができます。信仰は罪と咎の内に死んでいた者を甦らせ、イエス・キリストにあって全く新しい存在に造り変える神秘的で驚くべき力です。信仰ほど高価なものはありません。

【試練によって製錬される信仰】
それだけに神は、それが不純物を含まない完全なものであることを望まれます。生れながらに罪の内にあった私たちは、信仰を持っても多くの不純物を持っています。それらは取り除かれ、本物の信仰、純度の高い真実な信仰へと純化されなければなりません。つまり、信仰は試されなければなりません。それをするのが試練です。私たちが信仰によって義とされ、神の子とされた後、聖化され、ますます主イエス・キリストの御姿に似て、清められていく上で、試練は不可欠なのです。

【種蒔きの譬】
マタイ13章の初めに、種蒔きの譬があります。第一の道端に落ちた種は元より論外ですが、第二の石地に落ちたものと第三の茨の間に落ちた種は、形だけはともかく信者になった者です。しかし、試練によってその信仰が見せかけであったことが判明します。一般的に言って、試練は確かに私たちから神の御前に不要な物を取り除きます。「肉の欲、目の欲、生活のおごり」(Ⅰヨハネ2:16)などです。そして誤った自尊心や自分についての買いかぶり、古い自我を除きます。

【忍耐力の強化】
それだけではありません。試練は信仰が本来持っている最も大切な要素を一層純化し、強化します。例えば、神への信頼はキリスト教信仰最大の、そして最も祝福された美しい特質の一つですが、試練を体験すればする程、私達はますます神にのみ信頼することを学ぶようになります。忍耐力もそうです。忍耐力とは、聖書によれば、失望させられるような状況でも尚前進し、活動できる能力を言います。聖書において最も強調されている資質は、物事が思うように進まなくても前向きに生きることのできる忍耐力です。忍耐力は信仰そのものではありませんが、信仰が試練によって試され純化される時、確かに培われていきます。

私たちの信仰は、ますます純化され本物とならなければなりません。その結果、7節「イエス・キリストが現れる時」、つまり、世の終りのイエス・キリストの再臨の時、それは「称賛と光栄と誉れとをもたらす。」

【良い忠実な僕になるために】
あらゆる試練に耐え抜き、信仰が純粋で本物であることを明らかにした者は、来るべき日に神から称賛と光栄と誉れとをいただくのです。信仰によって耐え抜いた者は、その時、主からマタイ25章21「良い忠実な僕だ。よくやった」と言われ、主は御自身の栄光を纏わせて下さいます。私たちはそれを喜びながら、永遠に主と共に生きる者とされるのです。信仰が本物である度合いに応じて、私たちのいただく栄光も大いなるものとなります。以上が、試練の存在する究極的な意義、あるいは目的です。

今日、私たちには神の憐れみにより、紀元1世紀の信者たちが味わったような激しい試練はないかも知れません。とはいえ、試練は様々で、一言で表現できない辛いものもあります。どの試練が軽く、どの試練が重いなどと、簡単には言えません。しかし、幸いにも私たちは、試練がどういう理由で臨み、どういう性質かをも、御言葉によって教えられています。後はこれに立って、与えられている信仰の力を100%発揮するのみです。

【イエス・キリストの再臨の日に備えて】
神は、耐えられないような試練は私たちにお与えにならない。私たちにとって益あり、と神が判断されたものだけをお与えになる。そして試練は今暫くのものです。神の定められた時を越えることはできない。そして試練は、私たちの信仰をいよいよ清め、本物にして、イエス・キリストの再臨の日に「称賛と光栄と誉れとをもたらす...。」

パウロは言います。ローマ8章18「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います。」確かに私たちもパウロと同じように言うことのできる恵みの中に主により移されているのです。このことをしっかり覚え、いよいよ主に信頼して雄々しく、しかし、落ち着いてこの世の旅路を前進して行く者でありたいと思います。(おわり)

2008年08月17日 | カテゴリー: ペトロの手紙一 , 新約聖書

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