「お別れのことば」グラハム・スミス

グラハム・スミス

聖書1テサロニケ5章23−28節

23:どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。24:あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。25:兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。26:すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。27:この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。28:わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。


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1.お別れのことば

人間関係の難しさの一つはお別れの挨拶です。親しくなればなるほど、別れる時どんなことばを言うか、わからなくなります。宣教師として、何回もオーストラリアの家族から離れて、日本に来ました。空港で「さよなら」を言うことは辛いです。

妻キャシーの両親は空港の雰囲気が嫌いなので、いつも家から「バイバイ」をします。両親は3年間娘に会わなくなるし、孫さんと関わらないし、寂しい思いで別れます。私はその時、親に、何か意味があることばを言わなければならないというプレシャーを感じます。しかし、いつも、遠慮してしまって、つまらないことしか言えない。

日常生活のなかのお別れも大切にしなければならないと思われています。結婚のカウンセラーによると、夫婦関係がうまく行くために、一つ一つの別れの時と再会の時を大事にしなければなれません。玄関で言われる言葉はその日に残る印象になります。喧嘩(けんか)をして、そのまま別れて、嫌な気持ちが残りますね。

【パウロの別れの言葉】
最近,ある卒業生はアメリカに行くことになって、送別会に招かれました。その時、メッセージも頼まれました。今日の聖書箇所から話しました。なぜなら、この箇所はパウロのテサロニケ人々へのお別れの時の言葉のようです。

【帰国を前にして】
実は、私たちもこの夏にオーストラリアに帰ることになります。18年前に日本にきました。そのうち、15年間は伊丹に住んでいました。伊丹教会に行って、近藤先生ご夫妻を知るようになって、西谷集会のメンバーに大変お世話になりました。感謝をこめて、今日のみことばの説き明かしをしたいと思います。

ここで数回説教奉仕をしました。テサロニケの信徒への手紙を途中まで見ました。今日はその手紙の最後の箇所を見ます。

4つの部分に分けられます:祈り(23節)と約束(24節)と願い(25-27節)と最後の挨拶(28節)。

2.祈り
 まず、23節を見てください。パウロはテサロニケの人々のために祈っています。

「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」


17節ではパウロはすでに、テサロニケの人々が祈るように勧めました。

「絶えず祈りなさい。」


と。

【神への呼びかけ】
23節では、パウロ自身の祈りの姿が描かれています。パウロは平和の神に向かって祈っています。聖書ではいろいろな神への祈りの呼びかけ方がありますが、ここでパウロは「平和の神」を選びました。神と人間を和解させることが出来る神に向かって祈っています。罪のために敵であった私たちを友人と変えさせられる神、仲直りの神に向かって祈っています。

【パウロと祈り】
祈りはクリスチャンの特権です。教会は祈りの家と呼ぶことが出来ます。パウロは祈りの模範を示しています。パウロはテサロニケの町に行って、福音のメッセージを語りました。何人かの人々は信じるようになりました。パウロは一人一人の信仰者が主によって成長し、ますます神を喜ばせる生活を歩むように願っています。3章8節に書かれているように、テサロニケの人々の強い信仰はパウロの生甲斐になります。

彼らの信仰を励ますために、パウロはいろいろとしてきました。テモテを使わしました。この手紙を送ろうとしています。もう一つの励ましの仕方は彼らのために祈るということでした。パウロにとって、祈りは、人々の信仰を励ますものでした。パウロの模範から学びましょう。

パウロは平和の神が、テサロニケのクリスチャンたちのうちに働いてくださって、彼らが聖なるものとなるようにと祈っています。

【聖なる者になるとは】
聖なる者になるようにというはどういう祈りでしょうか。皆さんは聖なるものはどういうイメージでしょうか。神父さんでしょうか。断食をする者でしょうか。マザーテレサのような愛の行動をする者でしょうか。

【献金のためのお金は聖なる物とされるが】
聖なるものとは神のために特別に区別されたものです。

例えば献金のために財布を区別することとおなじように、私たちは神のために特別に捧げることは聖なる者になることです。でも、神様はある部分だけでなくて、すべてを聖別するようにねがっています。(Failure of illustration, the wallet for God, is the only wallet) Also, can't keep putting old money into it)

パウロはクリスチャンが神のものとなるように、神のために用いられるように、神に捧げた人生を歩むように祈っています。

その歩みはどういうものか、パウロは4章から語っています。それは生活の様々な面において実現されます。

5章の後半から、この聖なる歩みについての具体的なお願いが述べられています。

読むと、命令形が多いという感じがします:何何をしなさい...

· 指導者たちを尊敬しなさい。(13節)

· いましめなさい、はげましなさい、助けなさい、忍耐強く接(せっ)しなさい(14節)

· 気をつけなさい

· 善を行うよう務めなさい(15節)

· 喜んでいなさい、祈りなさい、感謝しなさい(16-18節)

· 大事にしなさい、遠(とお)ざかりなさい(21節)

 

パウロは信仰の実践を一生懸命、すすめました。でも、これはただ、自分の力で頑張りなさいという勧めとまったく違います。聖なる生き方は人間的には不可能です。無理です。神の恵み、聖霊の助けがなければ、その歩みはできません。ですから、パウロは祈っています、

「平和の神がそのような歩みが出来るように」。

【まづ祈ろう】
このごろ、私の子どもがもっと積極的に仕え合うように励まそうとしています。具体的に言うと、家での荷づくりなどを協力してもらいたいのです。それで命令が多い父になってしまいました。しかし、思う通りには行ってません。仕える心は神様から生まれるからです。ですから、子どものためにもっと祈るようにと決心しました。

信仰を始めた神様はその信仰を成長させる力を持っています。ですから、パウロは祈っています。私たちもそのために祈り合いましょう。

【終末の視点】
23節からもう二つのことに注目したいのです。一つ目は終末の視点です。信仰生活は神様のタイム・フレーム、神様のカレンダーの中で行います。神が定められる時、神のご計画のなかで行います。神様のカレンダーは終わりがあります。それは、イエス・キリストが再びこの世に来られる時です。

【キリストの再臨】
4章と5章では、パウロは主イエスの再臨について説明しました。その教えは慰めと励ましになります。私たちは将来のことをあまり意識してないのです。もっと意識したら、今の信仰生活がもっとうまくいけると思います。信仰のゴール、信仰の目標を確認しながら歩みましょう。そして、成長が見えない場合、フラストレーションが感じる時、心配しないで、終末の視点を覚えたら、もっと忍耐強くなるし、失敗があっても、待ち望む信仰が守られます。

【霊とたましいとからだからなる全人の救いのために祈る】
もう一点があります。パウロは彼らの霊とたましいとからだのために祈っています。すなわち、人間の全部のために祈っています。神様は人生のすべての面に関心をもっています。多くのクリスチャンは日曜日だけの信仰をもってしまいます。でも、神様は月曜日から土曜日までの主でもあります。

神様は私の肉体的な必要も与えようとします。神様は健康の主でもあります。

神様は精神も意志も心も救おうとしています。

救いのプロセスは信じる時から始まって、最後の日に完成されます。パウロはその長い救いのプロセスのために祈っています。

2.約束
パウロは祈りました。次にパウロは約束を語りました。24節。

「あなたがたを召きになった方は真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。」


23節の祈りは曖昧な希望ではありません。必ず起こることです。神様は必ず、テサロニケの人々を全く聖なるものとします。キリストの再臨の時、彼らを完全に救ってくださいます。根拠は神様のご性質のなかにあります。すなわち、神様の真実さにあります。

【神の始祖アブラハムとの約束】
聖書の物語を読むと神様の真実さが明らかです。創造のわざを考えると、神様は被造物すべてに関心をもっています。堕落した人間に対してでも、救いの約束を与えました。その約束は特にアブラハムに語られました。聖書の物語はその約束の成就です。イスラエルの歴史の中で神様はその約束を守ってくださいました。イスラエルが罪を繰り返し犯してしまいましたが、真実の神様は愛し続けました。救いの約束を守りました。最後に神様はイエス・キリストをこの世に送ってくださいました。 キリストは旧約聖書の約束の成就にほかなりません。

【御子イエスをとうして与えられる神様の救いの約束】
キリストの生涯も神様の真実さを表しています。キリストは神様の計画通り、従順に、父なる神様に従って、十字架への道を歩んでいました。その苦しみの道を迷わずに最後まで歩みました。その結果、私たちは、救いの祝福にあずかることが出来ます。神様は独り子イエスキリストを十字架に付けられるほど、私たちを救おうとしているなら、救いの完成はなおさらなことです。「必ず、そのとおりにしてくださいます。」

【救いに至るパターン】
救いの完成にはパターンがあります。気がつきましたか:神の働きと同時に、人間の働きのパターンです。神の動き、人々の応答。

神がしてくださること:テサロニケの人々の救いへの導き。

テサロニケの人々の応答:信じること。

神の御心:聖なるものになること。それは神様が望んでおられること、そして、人間が従うこと、パウロが祈っていること、(人の応答)。

でも、聖なる者になることは実は、真実な神様がしてくださることです。

クリスチャン・ライフは神様の主権の下に行われています。神がなさることと、私がすることの関係は複雑です。人間には二つの傾向があります。頑張らなくチャーのレスポンスと何もしなくてもいいというレスポンスがあります。

学生から教えられた新しい言葉を紹介します。「シンバル」ということばです。漢字で書くと二つの可能性があります:「神」という字、と「信仰の信」の字:「神ばる」と「信ばる」。行動するという意味ですが、それは神様の力によって、また、信仰の行動としてする。神が私たちのうちに働いてくださいます。それは信仰生活のなかで、行動によって実現されます。

3.願い
祈りと約束の次に、パウロの願いか書かれています:「25−27節25:

兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください。26:すべての兄弟たちに、聖なる口づけによって挨拶をしなさい。27:この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。」


ここでは祈りの求め、挨拶のすすめ、と手紙の朗読のお願いです。

【兄弟たち、わたしたちのためにも祈ってください】
2−3章では、パウロとテサロニケ人々の間の関係が示されています。愛し合っている関係です。その関係の一部は祈りによって実現されています。パウロはテサロニケの教会のために祈っています。ここでは、パウロはテサロニケの人々が自分のために祈るようにお願いしています。キリストにある交わりは一方通行ではありません。互いに励まし合う関係です。たしかにパウロは与える部分は多かったです:パウロはみことば、愛、祈り、労苦を与えました。しかし、パウロはテサロニケ人々から受けた恵みも多かったです:受け入れられたこと、信仰の成長を見る喜び、そして、祈られる交わり。

祈りを求めることは別れる挨拶にふさわしいやり方です。これから、パウロはテサロニケの人々に会わなくても、祈りによって、主の交わりが守られます。

【日本を離れるわたしたちのためにも】
私たちはもうすぐ日本から離れます。礼拝に出る交わりから離れますが、祈りによる交わりから離れたくないのです。

15年間も、祈りによって支えられたことを心から感謝しています。どうか、これからも、私たちのために祈り続けてください。祈りによる交わりを続けたいのです。オーストラリアに戻るとどこに住むか、こどもはどこの学校に入れるか、文化にうまく馴れるか、どんな奉仕をするか...さまざまな不安のなかで帰ります。しかし、一人ではないのです。主とともに帰ります。そして、皆の祈りの支えのうちに帰りたいのです。私はパウロではありません、でも、パウロの気持ちをよくわかります。西谷聖書集会の兄弟たち。私たちのために祈ってください。

【口ずける】
26節の「口づける」の勧めはどういう意味でしょうか。日本の教会はあまり適用されていないようです。それは文化の違いがあるからです。パウロの願いは挨拶をするように、という意味です。文化的に日本ではそれはキスで表すことではないのです。

【挨拶は社会ルールの基本】
伊丹小学校のルールの一つは挨拶をするということでした。社会的に挨拶の大切さが認められています。親は子どもに挨拶できるように育ちます。挨拶は相手の存在を認める行動です。挨拶しないことは人間を無視することになります。交わりの始まりは挨拶です。遠慮しすぎないように、積極的に話しかけて、励まし合いましょう。

ところで、私は全国の医療関係者の集まりで、ある牧師先生は、自分の患者さんの体験から、医師や看護士にいろいろアドバイスを言ってくださいました。たとえば、患者さんに会うときに、挨拶をするようにと、簡単な自己紹介をするようにと言いました。医者だけでなくて、社会の全体のレベルで挨拶をすることが必要とされている。挨拶の習慣の根拠は聖書にあります。聖書の世界観からでるものです。クリスチャンは挨拶をする模範を示すべきものです。良い証になると思います。

「聖なる口づけをもってあいさつをなさい。」


【聖書を日々読むこと】
27節はこの手紙の朗読のすすめです。パウロは神に任命された使徒です。彼は神様の福音を宣べ伝える務めがあいました。この手紙は、実は、神様のことばです。権威があるみことばです。パウロは主によって命じました、すなわち、主の権威をもって、命じました。パウロはこの手紙を読むようにと勧めていますが、もっと広く適用できると思います。みことば(その手紙を含めて)をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように。」

毎週、このように集まって、説教を聴くことは大切です。でも、自分で、聖書を読むことも必要です。

残念ながら、日曜日の礼拝に集まれない兄弟姉妹がいます。家庭の事情や就職の義務や社会の責任の結果、教会で語られるみことばを聞けない人が多いです。みことばをその人たちに読んで聞かせるようにどうしたらいいでしょうか。まず、すべての教会のメンバーが一人で聖書を読めるように励ましたりをします。すると、教会に集まれない場合聖書を読めます。もう一つのやり方は教会のメンバーがみことばを分かち合うことができるように育てます。

西谷集会のメンバーがますます聖書を読んで、分かち合うことができるためにどうしたらいいのかその課題を置いておきます。どうぞ、取り組んでください。

パウロは強く命じます。

「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように」。

【お別れの挨拶】
お別れの最後の挨拶まで参りました。28節「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたとともにあるように。」これは祈りでもあり、願いでもあり、また、神様の約束でもあります。

テサロニケ人々と親しくなったパウロの最後の挨拶です。主の恵みは神からの愛の贈り物です。十字架で死んでくださったイエス・キリストにある贈り物です。パウロはたくさん書きましたが、言いたいことがまだ残っていたかもしれません。でも、この挨拶で彼が伝えたいことは充分に伝えられています。

テサロニケの教会が始まったのは、ただ、神様の恵みによるのです。その成長も神様の恵みによるのです。ですからパウロは主イエスキリストの恵みがあなたがたとともにあるように、祈っています。

この手紙を通して神様は私たちにも、恵みを与えようとしています。読むことによって、恵みをいただいたでしょうか。私たちは日本から離れますが、私たちは神の恵みから離れられません。西谷集会が、続いて、ますます恵みのうちに歩むように願っています。

祈り

父なる、平和の神様、どうか、私たちをまったく聖なる者としてくださいますように。生活のすべてにおいて、あなたを喜ばせる生き方が出来るように。主イエスキリストの来られる日を待ち望みます。あなたの真実さを感謝します。最後まで、あなたが与える信仰を守ってください。教会の交わりを感謝します。挨拶によって、祈りによって互いに愛し合うことがますます愛し合うことが出来るように。私たちの主イエスキリストの恵みが私たちとともにあるように。イエスキリストの御名によって祈ります。(おわり)

2008年07月06日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

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