罪を犯す時 ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネの手紙一1章5−2章6
 
【だれの奥さん?】
ある男の人が急に耐えられない程、神経質になり、慌てて、掛かり付けの医者へ飛んで行きました。彼は、「私は今日、一日中精神的不安定で、ノイローゼになってしまいそうです。その為に何か良い薬がありますか」と医師に言いました。医師は、患者の問題の原因を知る為、「最近、何か気を転倒させる事がありましたか。例えば、生活に大きな変化があったのでしょうか」と男の人に尋ねました。男の人は、「実は、今朝、この手紙が届いて来ました。」そして、彼は手紙をポケットから出して医者に見せました。その手紙には男の人に対して色々な激しい事が書いてありました。そして、手紙の最後にはこの脅すような言葉があったのです。「もし家の女房との交際を止めないと、あなたは命が無い」と書いてありました。
 
医者は、「あなたの問題の解決は簡単です。常識ですが、手紙を書いた人の妻とこれから会わない事ですね。その行為を早速止めたら、どうでしょうか。」しかし、そのアドバイスを聞いた男の人はあんまり喜ばなかったのです。「手紙をよく見て下さい。送り主は本当に馬鹿ですよ。何故なら、彼は自分の名前を書きませんでした。彼の名前が分からないと、僕はいったいどうして、その妻の身元が分かるはずですか。どちらの奥さんの事でしょうか。」
 
【古い、罪のある自分】
「早速止めたら、どうでしょうか。」ただ止めるのは良い事ですが、ある時、止める事は私達にとって簡単ではありません。私達、皆は神と人間に対する罪を犯す事を完全に止めたいと思います。キリスト者としてそれは私達の目標であります。神の光の中で歩んで、私達の生活の全ての事を通して主を喜ばすのは私達の最大の使命です。しかし、私達一人一人の中の古き、自然の人間は罪を好んでいます。神によって造り変えられた新しい私達の性質が罪を憎みますが、古い性質は罪に引き付けられています。その結果、罪は私達の魂に対して攻めてきます。

【誰しも罪を犯す】
私たち誰しも罪の経験があります。罪を犯さないように心から努めますが、誘惑され、怒らせられ、ついに罪に陥ってしまいます。悪魔は私達のそれぞれの弱さを探し、罪を犯すようにその弱さを私達に対して用います。使徒パウロは人間の状態をよく理解しました。罪の争いについてこのように書きました。

「私は、自分のしている事が分かりません。自分が望む事は実行せず、却って憎んでいる事をするからです。もし、望まない事を行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういう事を行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです。私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいない事を知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行出来ないからです。私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」

(ローマの信徒への手紙7:15−19)
 
皆さん、この使徒パウロの言葉を聞いて、心当たりがあるでしょうか。きっと私たち誰も、

「 自分が望む事は実行せず、却って憎んでいる事をする」


経験があると思います。今日与えられた御言葉はこの問題を直接に扱っています。
 
【罪に対する対策】

「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」


とヨハネの手紙一2章1節に記されています。私達人間は罪を犯します。天に召されるまで、罪の影響を完全に逃れる事が出来ません。しかし、罪を減らす為、罪の上に勝利を得る為に、今日の聖書の朗読には大事な対策が教えられています。この対策は罪に対して強い武器になります。
 
【罪を罪として認めること】
第一に、私たちは罪を犯すと、それは罪である事を認める必要があります。実は、罪を罪として認めないと、いつも罪に負けてしまいます。今日の朗読の1章8節にこう記されています。

「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私達の内にありません。」


常識ですが、問題を解決しようとしたら、先ず問題があると言う事を認める必要があります。そして、問題はどう言うものであるかをはっきりと理解しなければなりません。
 
考えて見て下さい。ある日、あなたは朝起きると、熱を出してお腹がすごく痛くなります。しかし、それを何とも思わなく、いつものように会社へ行きます。そして、痛みがだんだん酷くなっても、我慢して仕事を続けます。「これは本当の病気ではない。ただちょとした風邪気味なのだ」と自分に言いますが、急にふらふらになり、倒れてしまいます。当然、自分が病気である事を認めなかったので、その病気は深刻になり、病院へ運ばれてしまいました。そして、病院で病気が診断され、適切な治療を受ける事によって、やっと健康への道を踏む事が出来ます。
 
同じように、罪を罪として認めないと、罪と戦う事が出来ません。逆に、そうしますと、私達はいつも罪に負けて、だんだん罪が増えてしまいます。私たちはしてはいけない事をすると、正当化する傾向が強いのです。「皆もしているから、仕方がないのよね。大丈夫だから・・・」「誰にも迷惑掛けないから、良いじゃないの」など正当だと理由づける傾向があります。
 
【速度違反】
この間、私はネズミ取りで、警察に捕えられ、罰金を科されてしまいました。日本で初めてそういう事があって、言うまでもなく私はあんまり喜ばなかったのです。私は警察が言った程速く走らなかったと思いますが、間違えなく制限速度の60キロは超えました。それにも関わらず、捕えられた途端に、私は自分を正当化しようと始めました。「広い有料道路なのに、制限速度の60キロは低すぎる。」「警察は時間を掛けて、ちょっとの速度違反する人よりも、人殺しや強盗に集中すべきだ」などをつぶやきました。実際は、私が制限速度から1キロでも超えたら、確かに違反者になるのは当然です。その道の制限速度を守る気がなかったら、別の道を走った方が良いのです。
 
とにかく、私達は罪を犯す時、神の前に、正直に、それを罪としてちゃんと認めるべきです。そうしないと、記された通りに、

「自らを欺いており、真理は私達の内にありません。」


更に、その罪を解決する道がない訳です。しかし、私達は心から罪を認めるときに、その問題を扱う事が出来、解決する道を歩んでいます。
 
【罪の告白】
罪を認める事だけではなく、もう一つの事が絶対に必要です。それは今日の御言葉の1章9節に書いてあります。

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私達を清めて下さいます。」


罪に対する第二の対策として、私たちは罪を神に告白しなければなりません。その告白はただ「自分が悪い事をした」と言う事だけではなく、神の目にはその罪の深刻さを認め、そして謝罪しながら、主の憐れみを乞うのです。更に、神の助けによってその罪をもう二度と犯さないように決心を現す事です。
 
【罪から解放されること】
そのように告白しますと、私達の心は楽になります。罪の意識があんまり重なると苦しいですが、告白を通して、その心の重荷を下ろすとき、解放されます。神の御旨は、私達は罪の意識を引きずって生きるのではなく、却って、その罪を御自分に告白し、罪の力から解放を受けます。
 
【罪の赦し】
そして、罪の告白の最も貴重な恵みは、もちろん神の赦しです。

「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私達を清めて下さいます」


と記された通りです。
 
【主イエス・キリストの十字架の贖い】
神の赦しはもちろん主イエス・キリストの十字架の贖いのお陰です。主イエスは私たちの罪の為の罰を御自分の身に受ける事によって、神の赦しが可能になりました。今日の朗読の2章1節から見て下さい。

「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私達の罪、いや、私達の罪ばかりでなく、全世界の罪を償(つぐな)ういけにえです。」

 
つまり、主イエスを救い主として受け入れる人、罪を犯したら、父なる神の御元に弁護者が居られます。その弁護者こそは救い主イエス・キリストです。主イエスは父なる神にこう言います。「私自身はその罪の罰をもう払いましたので、ウイリアム•モーアを赦して下さい。近藤春樹を赦して下さい。鈴木園美を赦して下さい。森田泰助を赦して下さい」と私達の為に願って下さいます。そして、神はその罪全てを帳消しにします。完全に忘れて下さいます。御言葉に記されたように、

「東が西から遠い程、(神は)私達の背きの罪をとおざけて下さいます。」


(詩編103:12)
 
【感謝:神を喜ばせる】
罪の赦しの恵みを受ける私たちは自然に感謝を現したいです。つまり、限りなく愛を経験する私達は神を喜ばせたいのです。そして、私達は神の掟を守って、すなわち、罪を犯さない事によって神を喜ばせます。今日の御言葉の2章3節から見て下さい。

「私達は、神の掟を守るなら、それによって、神を知っている事が分かります。『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、私達が神の内にいる事が分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。」


私達は愛する神によって赦されているからこそ、罪を犯さないように主の掟を守ります。
 
【神は全人類の罪を許す】
そして、その神の赦しはある特別な民族の為、あるいは、限られた人の為だけではなく、全人類の為です。2章2節に書いた通りです。

「この方こそ、私達の罪、いや、私達の罪ばかりでなく、全世界の罪を償(つぐな)ういけにえです。」


つまり、その赦しはあなたの為であります。
 
【主の祈り】
更に、赦しの恵みを経験する私たちはその大きな愛を隣人と分かち合う使命があります。先に祈った主の祈りにこの言葉があります。

「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ。」


ですから私達も周りの兄弟姉妹に限りない赦しを現します。(おわり)

2008年01月20日 | カテゴリー: ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書 , 詩篇

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