「キリスト者と迫害」
淀川キリスト教病院牧師 田村英典

聖書:マタイによる福音書5章1~10節

10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

 

【キリスト者と迫害】
3節から始まるイエス・キリストの幸福の教えを学んで来ました。今日は最後の8番目、10節に進みます。本当は11、12節も関係していますが、今朝は10節だけを取り上げます。
まず前後関係から気づくことがあります。
第一に、これは3節から始まった一連の教えの最後で、いわば締めくくりです。つまり、クリスチャンを完全な形で描く上で、迫害に触れない訳にはいかないということです。厳しいですが、クリスチャンと迫害は切り離せません。
 
第二に、これは9節

「平和を実現する人」


についての教えの後に来ています。クリスチャンが神の御心に従い、平和を実現しようと努力した結果が、しばしばこの世から迫害だということです。悲しいですが、これが現実です。
 
第三に、この教えに付いている約束は3節と同じで、

「天の国はその人たちのものである」


と主は言われます。主はまず3節で人々の心を永遠の天国に向けさせ、またこの最後の教えでもう一度人々の関心を栄光の天に向けようとされます。
 
「迫害はある。だが忘れるな。あなたが受けようとしているものは、生れつきの人が如何にしても手に入れることのできない神の永遠の祝福、天の国である。当座は辛い。だが迫害は決して永遠ではない。あなたは永遠のものを受けようとしている。だから、忍耐して戦い抜きなさい」と励ましておられます。
 
以上、前後関係から簡単に見ました。もう一度10節を見ます。

「義のために迫害される人々は幸いである。」


これが既に永遠の天の御国に国籍をいただいている幸いな人の紛れもない特徴の一つなのです。
主は正直です。「私を信じたら、何もかもうまく行く。いやなことなどなくなる」とは言われません。それは大嘘つき、またサタンの言うことです。サタンはマタイ福音書4章8節でイエスを誘惑して言いました。

「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これをみんな与えよう。」


「これ」とは「世の全ての国々とその繁栄」だ。要するに、何でも思い通りになる、万事OKということです。しかし、これは嘘です。イエスは事柄を曖昧にされません。率直に事実を告げられます。「あなたに信仰の故に迫害はある。それが激しいか緩いかは、天の父の御心による。だが迫害を受けるなら、それこそ、あなたが天に国籍を持ち、永遠の神の国の住民であることの明確な証拠である」と主は断言されます。

【迫害の原因】
ここでもう少し厳密に主の御言葉を検討します。主は単に「迫害される人々」ではなく、

「義のために迫害される人々」


と言われます。一口に迫害といっても、原因や理由は色々です。「義」のためにではなく、他の理由による場合もあります。その点を注意しなければなりません。例えば、その人が信仰を持つ前から持っていた良くない性格や気質のために、人々から嫌われ排斥されることがあります。怒りやすい、物事に対して性急、乱暴、礼儀知らず、わがまま、独善的、自己顕示欲が強い、人の心に鈍感、言葉が粗雑、怠け者、ずるい、慎重さに欠ける...。こういうことで人から嫌われ迫害されることを、主は言ってはおられません。
 
狂信的、熱心過ぎるために迫害されることも違います。狂信的、熱心過ぎるとは、聖書の教える正しい意味での熱心を超えた非聖書的な熱心さのことです。熱心、不熱心もあくまで聖書が基準です。狂信的とは、多分に自己満足また自己陶酔であり、聖書からはみ出ています。例えば、燃えるような祈りをし、絶えずアーメン、アーメンと言う人がいます。それはそれでいいのですが、他の人がそうしないからといって、「あの人は不熱心で信仰が冷めている」と言い、そのためにトラブルを起し、人から嫌がられたとするなら、それは仕方ありません。Ⅰペトロ4章15は

「あなた方のうち誰も、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい」


と注意します。みだりに他人に干渉することは、聖書の教えを踏み出しています。特別な政治的理由やイデオロギーのために迫害されることも、ここの意味ではありません。過去に迫害され命まで奪われたクリスチャンの中には、しばしばその人の持つ政治的見解の故にそうなった人もいます。それはイエスの言われることではありません。とにかく、義のためかそうでないかを注意する必要があります。
 
【「義」のために】
では「義」のためにとは、どういうことでしょう。義とは、神の律法、神の御心に従い、実践することです。造り主なる神を愛し、神の栄光のために御言葉に忠実なことです。一般的な意味で正義感が強く、物事を曖昧なままにできず、潔癖だというのではありません。自分があの十字架上で死んで下さったキリストにより完全に罪赦され、救われ、計り知れない神の愛と憐れみを知らされた人が、聖霊によって心を新しくされ、神と人を愛し、そのために御言葉に忠実なことです。生き方そのものにおいてキリストに似ている。その性質がキリストに似ていることです。
 
【クリスチャンは世に憎まれる】
キリストに似ているクリスチャンは確かに世に憎まれ迫害されます。イエスは言われます。ヨハネ福音書15章18~20

「世があなた方を憎むなら、あなた方を憎む前に私を憎んでいたことを覚えなさい。あなた方が世に属していたなら、世はあなた方を身内として愛したはずである。だが、あなた方は世に属していない。私があなた方を世から選び出した。だから、世はあなた方を憎むのである。...人々が私を迫害したのであれば、あなた方をも迫害するだろう。」


 
パウロも言います。Ⅱテモ3:12

「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」


実際、1世紀後半~4世紀初めまでのローマ帝国による迫害、弾圧はひどいものでした。日本でも戦時中、教会は治安維持法の下で取り締まられ、従わない教会は弾圧され、解散させられました。韓国・朝鮮の教会とクリスチャンは、日本の官憲により迫害されました。今日も一部の共産主義国や熱狂的なイスラム教国、ファシズムの国では、クリスチャンは迫害されています。
 
聖書全体がこのことを証言しています。アベルはカインに殺され、モーセもダビデも迫害され、預言者エリヤやエレミヤは絶えず命を狙われ、パウロは度重なる迫害に苦しみました。彼らは気難しかったり、狂信的であったり、他人に干渉し過ぎたのでもありません。ただ、彼らが義人であり、神を人々に示したからです。
 
【イエス・キリストの受難】
そして何といっても、人となられた神の御子キリストがそうです。主はどんなに優しく、親切で、柔和で、気高く、御自身を誇らず、偽善のない方だったでしょう。どんなに天の父を表されたでしょう。しかし、主はむごい迫害を受けられました。
悲しいことに、迫害は教会の外からばかりではありません。宗教改革期には多くのクリスチャンが殺されました。当時の教会の名ばかりのクリスチャンたちから迫害されたのです。今日もこれ程ひどくはありませんが、迫害のようなことは、悲しいですが、教会の中でも起り得ます。
 
では、真のクリスチャンは何故迫害されるのでしょうか。キリスト教信仰に従って正しく生きようとする者は、何故いつでもこうなのでしょうか。それは普通の人と違う何かがあるからです。自分の正しさを人に見せつけたり、人を必要以上に批判するからでもなく、ただ、神の御言葉に従い、正しく生きようとする故にそうなのです。それがこの世の人には煙たく、理解しがたく、自分たちの罪を指摘されているように思えるのです。人は、低俗な生き方をしている人を軽蔑し馬鹿にしても、迫害までしません。
 
迫害するのは、無視できない何かを感じるからです。創世記19章に、堕落したソドムの町が神の裁きを受ける記事があります。人々は信仰者ロトを「こいつは、よそ者のくせに、指図などして」と非難しました。そう思えたのです。心のおけないよそ者、どこかで自分たちのことを非難しているように思えたのでした。イエス・キリストの時もそうでした。初めは快く主の教えに耳を傾け、素晴らしい先生だと言ってほめ、多くの人が群がりました。しかし、イエスがどういうお方かを知れば知る程、ある人たちの心は冷め、ついにイエスに唾を吐き、十字架につけました。
 
【天国を約束されたクリスチャン】
本当のクリスチャンとはどんな人でしょうか。

「天の国はその人たちのものである」


とまで主が断言されるこれ以上ない幸せな人とはどんな人か。たとえどんな死に方をしようとも、神が天国しか用意しておられない幸いなクリスチャンとはどんな人でしょうか。イエス・キリストに似ている人です。それは、心貧しく、自分と人の罪を悲しみ、柔和で、憐れみ深く、不純な動機がなく、心が神に向いて心の清い人、また不屈の信仰で平和を造り出す人です。それは皆に人気があり、誰にでもほめられる人ではありません。成程、クリスチャンで世の人々から尊敬され、ほめられる人もいます。しかし、それは必ずしも義の故ではないこともあります。社会や人々への貢献度に対する評価であって、神の御子イエスに似ているからとか義の性質の故にではありません。本当のクリスチャンは、誰からも「いい人だ」とは思われない。誰からもほめられる人は八方美人かも知れず、それはイエスに似ていません。イエスは言われました。ルカ福音書6章26

「全ての人にほめられる時、あなた方は不幸である。」

 


【義人はなぜ迫害されるか】
何故、義に生きる人は迫害されるのか。それは人々が神について語りはしても、本質的には神の事が嫌いだからです。自分の偽善や醜い欲、自己中心性や利己的なことなどを指摘され、認めるのがいやだからです。ですから、もしイエスがもう一度この世に来られたなら、人々は同じようにイエスを嫌い、憎み、手を上げるのではないでしょうか。それは人が自分の罪と不信仰を指摘されているように感じないではおれない程に、主が余りにも清く義なる方だからです。
 
【この世は闇を愛するもの】
問題は神の光を避けて闇を好むこの世にあります。光にさらされ、光の内を歩み、義を愛し、義に生きようとするより、神から離れ、この世の暗闇に隠れて楽しみたい...。問題はそこにあります。実際それは悲しいことです。それは天国と何の関係もありません。人は皆自分の罪のために裁かれなくてはならない。
だが、もし私たちが世に従わず、信仰によって神に誠実に従う者であり、義に生き、そのために人々から、時には肉親や隣近所からも煙たく思われ、迫害されたとしても、私たちは間違いなく永遠の天国に市民権を持っています。
 
【神の愛は私たちを勝利させる】
神は私たちの魂をお離しにならない。どんな迫害も、いいえ、死でさえも、私たちを神の愛から引き離すことはできません。ローマ8章35~39は言います。

「誰が、キリストの愛から私達を引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『私たちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています。私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。」

 
【信仰の先輩たちは迫害された】
自分の死を覚えることと、迫害を考えることは、恐らく私たちの信仰を最も深く探ると思います。信仰が問われます。
イエスは、栄光の天に至る足跡、道を残して下さいました。ペトロもパウロもヨハネもステファノも、そして主イエスに忠実な無数の聖徒たちも、私たちの前にそれを歩みました。皆弱く、たくさん失敗もしました。でも主の手に支えられながら、そして主が祈られたように、彼らも迫害する人たちのために祈りながら歩みました。このような者たちを、主の御霊が支えて下さらないことなど、どうしてあり得ましょうか。私たちの信仰を今一度強められたいと思います。(おわり)

2007年10月21日 | カテゴリー: テモテへの手紙二 , ペトロの手紙一 , マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

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