私達の避けどころ ウイリアム・モーア宣教師

聖書:詩編2篇(全)
 
【毎朝の新聞】
私は毎朝起きると、すぐメールボクスへ行って、新聞を取って読みます。それは私の永年の習慣になりました。何故なら、新聞は何よりも、私を眠りから目覚めさせる力があるからです。ある人はコーヒを飲む事によって目が覚めると言います。また、他の人はシャワーを浴びると言いますが、私には新聞を読むのが一番効果的な目覚め方です。と言うのは新聞を読むと、すぐに心拍数が上がり、目が大きくなります。恐ろしい事と、とんでもない事と、腹が立つ事と、涙を流せる事ばっかりで、眠気が完全に消え、すっかり目覚めて、新しい一日を迎えます。特に戦争の事はその効果があります。アフガンとイラクの終わりのない戦争、テロの事、又、北朝鮮とイランの核兵器問題は震えさせ、煩いの種になります。
 
【主に逆らう支配者たち】
以前より、今の時代は特別に恐ろしいようですね。確かにテロの脅しと核兵器拡散は新しい心配の種になります。しかし、考えて見ますと戦争の事と暴力行為と国際不安定は決して新しい現象ではありません。約2,300年前にある詩人が神の霊に導かれ、このように書き記しました。

「何故、国々は騒ぎ立ち、人々は空しく声をあげるのか。何故、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らうのか。」

【国々は騒ぎ立ち】
今日の御言葉を書いた人物は私達と同じようにニュースを読んで不安を深く抱いたのです。周りの国々は常にイスラエルを脅し、侵入しようとしました。敵の国は結束して、イスラエルの自由を奪う計画を立てました。実は、この世の長い歴史を振り替えて見ると、基本的にあんまり変わりがなかったと思います。大昔も、現在も、

「国々は騒ぎ立ち、人々は空しく声を上げ」


ます。人間の科学技術が進歩しましたが、実際に我々の心はあんまり変わっていません。残念ながら、人類の罪深さの故に、この世は今と2,300年前と略同じ恐怖感に捕われています。
 
確かにこの世の物質文化は進歩して参りました。10年前には考えられなかったことが可能性になっています。先日、聞いたんですが、今はホット•ドリンクの飲みコップの蓋が色が変わる事で、中身がどのぐらい暑いか読み取れるらしいです。技術はどんどん進んで来ていても私達人間はどうでしょう。国々はどうしてまだ騒ぎ立ち、人々は何故空しく声をあげるのでしょうか。この問題は科学技術のように何とかならないでしょうか。
 
今日の御言葉の2節を見ますとその答えがあります。

「地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らって、『我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう』と。」


 
ここでの「主の油注がれた方」は誰でしょうか。間違いなく、その方こそは救い主であるイエス・キリストです。聖書に言う主の油注がれた方は、特別に選ばれた、神によってこの世に遣わされた救い主です。それでは、主に逆らい、油注がれた方に逆らった人は誰ですか。その前を見ると、「地上の王、と支配者が結束して」と書いてあります。ですから、地上の王、支配者は、国々とその為政者です。つまり、国々とその為政者は平和の君イエス・キリストに逆らった為、この世は恐ろしい状態に陥ってしまったのです。
 
国々は主イエスの教えの代わりに、自己中心になり、自国の益の為、相手の国を左右しようとする傾向が強いのです。また、平和を第一に重んじるより、国々は軍事力を何よりも大事にし、頼ります。つまり、この世の国々は個人のように、唯一の救い主イエス・キリストが教えた平和と幸福の道に逆らった為、大変な結果をもたらしました。結局、国々は主に対してこのように言ってしまいます。

「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう。」

 
つまり、国々は神が存在していないように自由に自分の利益だけを考え行動したいのです。平和をもたらす主の掟を無視し、各国は相手の国の立場とニーズを考えず、ただ自分の立場と富を重んじるのです。神と結ばれた愛と服従の絆を断って、国々それぞれは自分の目に正しいとする事を行ってしまいます。
 
こう言う事は国と言う大きなものだけではなく、個人である私たち一人ひとりの決断と行動においても当てはまるのです。常に第一に自分の安楽と利益を求めているのではありませんか。それ故に世界は大昔から現在に至るまで混乱になり、戦争と不正義がごく普通のようになりました。
 
【主は笑い、嘲る】
こう言う状況を見て神は何と思う事でしょう。4節を見て下さい。神はその愚かな事を見ると先ず、国々とその為政者を笑って嘲ります。何故なら、御自分が造った人間が高ぶって、王の王、神に逆らって、主の目的を止められると思う人はあんまり馬鹿げているからです。御言葉に記された通りです。

「永久の王として、主は御座をおく。」(詩編29:10)

 
国々と為政者は移り変わり、ついに皆がいなくなりますが、全能の神の主権はいつまでも続き、反対されても、必ず最後には御自分の計画を完全に果たされます。ですから、人間のとんでもない態度と行動を見て、主は笑ってしまいます。
 
【主は裁かれる】
しかし、神はただ遠い王座から笑っている訳ではありません。主は人間の歴史に入り、御自分の御旨を果たします。神は御自分に対する国々と為政者の謀反を見て、それを裁きます。

「いきどおって、恐怖に落とし、怒って」


国々を裁くと5節に書いてあります。聖書を学ぶと神の裁きをはっきりと見る事が出来ます。そして、神はおもに国々の間の争いを通して御自分の裁きを下します。例えば、神はカナン人の邪悪な行動をイスラエルを通して裁きました。と言うのは、主はイスラエルをカナンまで導いて、イスラエルはその住民を征服しました。
 
そして、後で、イスラエルが神を忘れ、邪悪になった時、主はバビロンを通して御自分の民さえも裁きました。実は、全能の神は為政者を立てて、為政者を倒します。最終的に神はこの世を治めるので、ついに御自分の全ての目的が果たされます。
 
【御子イエス・キリストは王として即位される】
そして、主の目的は何でしょうか。6節を見ますと主は国々に宣言されます。

「聖なる山シオンで私は自ら、王を即位させた」


と記されています。つまり、父なる神は御自分の御子イエス・キリストを王として即位されます。この御言葉はイエス・キリストの預言です。主イエスをこの世に遣わされる約300年前に、ここで、この詩編を通して、神は御自分の御子の降臨を発表されました。
 
【福音は地の果てまで】
更に、父なる神は御子に使命と権限を与えられました。父なる神はイエス・キリストにこうおっしゃいました。7節の後半を見て下さい。

「今日、私はお前を生んだ。求めよ。私は国々をお前の嗣業として、地の果てまで、お前の領土とする」

と神の御言葉が記されています。つまり、イエス・キリストの福音は地の果てまで述べ伝えられ、この世の人全ては神の唯一の救いの道を聞く事が出来ます。そして、やがて、私達信者を通して、主イエスの影響と支配は全ての国々まで広がります。
 
【主の完全な勝利】
その状態になっても、まだイエス・キリストの恵みを拒否する国々はどうなるのでしょうか。神は忍耐強いですけれども、その忍耐が限られています。9節に神は御子にこう言われます。

「お前は鉄の杖で彼らを打ち、陶工が器を砕くように砕く」


と書いてあります。現在、いくらでも国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげても、将来、完全な勝利は神のものになります。ヨハネの黙示録11章15節に預言されるように、

「この世の国は、我らの主と、そのメシヤのものとなった。主は代々限りなくとうちされる。」

 
ですから、イエス・キリストに従い、信じる私達は国々の恐ろしい争いとこの世の混乱を見るとき、どう考えるべきでしょうか。確かにこの世の国々と人々は誠の神に対して強い反抗を示します。しかし、その反抗の中でも、主はこの世に働いて、静かに御自分の御旨を果たしています。主は御計画をたてて、やがてイエス・キリストの福音は地の果てにまで広がります。そして、将来、完全な勝利は主イエスのものになります。全ての国々と人々は主に従います。その時、戦争と争い、悲しみと心配は過去のものになり、全人類は全く恵みの時代を楽しむ事が出来ます。
 
【毎日の生活で主を愛し、主に仕える】
私たちはその来る時代を切に待ち望んでいます。そして、待ち望みながら大切な使命が神によって与えられたのです。11節と12節にその使命がこう記されています。

「畏れ敬って、主に仕え、おののきつつ、喜び踊れ。子に口づけせよ。」

 


私達は大きな喜びを持って主に仕えるべきです。神は私達一人一人を大事に造り、そしてイエス・キリストの贖い死を通して、私達の罪を清め下さり、神の愛された子供になりました。ですから、当然その愛する神に仕えるべきです。毎日の生活に喜びと希望を持って主イエスの教えを実行すべきです。つまり、主の助けで福音を述べ伝え、隣人を自分のように愛する事です。そして、更に私達は、子に口づけるべきです。それは子なる神イエス・キリストを愛する事です。主イエスは先ず、罪人である私達を大きな犠牲的愛を持って私達一人一人を大切にして下さいました。ですから、私達は自然に主を愛し主に従います。
 
 
【主を避けどころとする人は幸い】
この詩編第二篇はこのように始まりました。

「何故、国々は騒ぎ立ち、人々は空しく声をあげるのか。何故、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。」


それはこの世の恐ろしい状態です。
 
しかし、その状態は決して全てではありません。と言うのは、この詩編はこのような希望と慰めの言葉で閉じます。

「いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。」

 
私達は不安な状態の真ん中にいても、避けどころがあるとは今日の御言葉の素晴らしいメセージです。その避けどころに、私達は安心と休みを探し、保護をも受けられます。この世の状態がいくら複雑になり、どんなに恐ろしくなっても、私達は揺るぎない避けどころがあります。そして、全能の主なる神こそは私達の避けどころです。愛する力強い神は私達を見守り、どんな事があっても助けて力付けて下さいます。この世の嵐の中で平安と希望を豊かに与えて下さいます。そして、この世の歩みが終わると、その神は私達を完璧な避けどころに召されて下さいます。
愛する兄弟姉妹、

「いかに幸いなことか、主を避けどころとする人はすべて。」


(おわり) 

2007年10月07日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

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