自分自身を超える事 ウイリアム・モーア宣教師

マルコによる福音書9章33−37
 
【兄弟喧嘩】
私は三人男兄弟の真ん中の子として大きくなりました。年があんまり離れていない私達は成長する時、色んな楽しい思い出が沢山あります。私達三人はお父さんが下さった段ボール箱で家の裏でお城を建てて、そこで一緒に一晩を過ごしました。また、毎年夏になると家族そろって休暇を山小屋へ行って、のんびりと日々を共に過ごしました。私達男兄弟三人は楽しい思い出が沢山ありますが、それ程楽しくない思い出も作ったのです。と言うのは、私達は喧嘩をよくしました。いつもつまらない事で喧嘩したのですが、ある時は結構激しくなりました。私達がアメリカの西部から東部へと車で旅行していた時の事ですが、私達三人は後ろの狭い席に座ると喧嘩になる事が多かったのです。余地があんまりないから、私達はお互いに「あなたは場所を取り過ぎる」と責めて大騒ぎになりました。特に、私達が眠くなった時、相手の領地に入ると、喧嘩になりました。又、おやつの事で私達は喧嘩しました。自分の分よりお菓子を沢山食べてしまうと、大変になりました。そして、喧嘩があんまり酷くなると、お父さんは我慢しきれなくなり、車を道路の肩に止めて、お母さんが後ろの席の真ん中に座り、そして、兄弟一人は助手席に乗りました。今、思えば本当につまらない事でよく喧嘩していたと思います。しかし、それが私達の旅の姿でした。
 
【誰が一番偉いか】
今日の御言葉によりますと、 旅の途中、主イエスの弟子達の間にも喧嘩がありました。主と弟子達はイスラエル北部の地方ガリラヤを通った時、歩きながら弟子達は激しい議論に入りました。車の後ろの座席に座っている子供のように口喧嘩をしたのです。そして、彼等の家カファルナウムと言う町に帰ると、主イエスは弟子達にこのように尋ねました。

「途中で何を議論していたのか。」


もちろん全ての人の心が分かった主イエスは彼等の議論の課題はもうすでに分かりましたが、弟子達を教える為にお聞きになりました。

【彼等は黙っていた】
しかし、主イエスに聞かれても、

「彼等は黙っていた」


と記されています。つまり、その答えは恥ずかしかったのです。もしその議論が、どのようにして神によりもっと忠実に仕える事だったら、あるいは、祈りの生活の改善についてのお話であったら、彼等は喜んで直ぐに主の質問に答えたはずです。しかし、その議論は、弟子達の中で誰が一番偉いと言う課題でした。つまり、地位が一番高い弟子は誰かと言う議論でした。私達はその議論を想像出来ます。恐らくユダはこのように主張した事でしょう。「私は重要な役割を果たしている。会計の担当で、地位が誰よりも高いはずだ。」そして、ペトロとヨハネとヤコブはこのように言ったでしょう。「私達は主イエスに一番近い弟子なので、一番偉いよね。主は私達三人だけを高い山へ連れてモーセと預言者エリヤを見せたもの。」それから同じように弟子達それぞれは自分の資格を説いて、自分が誰よりも偉いと論争した事だと思います。
 
その姿はどうでしょうか。ちょっと驚きますね。イエス・キリストの弟子達は主によって特別に選ばれ、普通の人より優れたはずではありませんか。しかし、御言葉によりますと、彼等はお互いにそのようなわがままな恥ずかしい議論に入りました。証拠を調べますと、主の12弟子達は私達のような普通の人間でした。特別に偉いから選ばれたのではなく、却ってごく普通の人なので主によって募集されました。と言うのは、神は普通の人を通して御自分の働きをなさいたいのです。なぜなら、普通の人を通して働くのなら、人間の力ではなくて、御自分の力が明白に現されます。更に、主イエスは弟子として普通の人を選んだのは、神には誰でも、また私達さえも用いて働く事が出来ると伝えたかったのです。
 
【自分中心】
とにかく、弟子達は他の人と同じように自己中心的になりがちで、自分の地位や、自分の力と名誉を何よりも重んじて、誰が一番偉いかと言う事をお互いに議論していました。そして、それは大昔の主イエスの時代の人々だけの問題ではありません。言うまでもなく、現在の人々も自分が誰よりも優れていると思いたいのです。他の人の立場と問題を忘れ、第一に自分の為に良い物と良い事を得ようとします。持ち物や仕事やお金や子供の成功などを通してさえも身分を張り合う事は当たり前の事になりました。「自分」と家族の者と仲間は全てになってしまいました。
 
他所の者の事と他人の問題はあんまり関心を持っていない傾向が強いのです。私達人間それぞれは自分の事ばかりに集中する根強い癖があります。そして、私達は常に自分を守る、自分の為に有利な立場を得る、自分を他の人よりも高く、偉くなりたがります。兄弟の間にも、友人の間も、親戚の間もキリスト者の間も例外無くあります。その結果は議論と争いです。結局、自分が一番になりたがる為に、廻りの皆は競争相手になり、不安と不満に満ちる生き方です。
 
【人に仕える者が偉い】
主イエスは御自分の弟子達にその自己中心的傾向を見ると、どうなさいましたか。彼等を叱りましたか。御自分の弟子として足りない者と責めましたか。そうではありません。直ちに彼等を集め、愛を持って彼等を教え始めました。今日の御言葉の35節を見て下さい。

「イエスが座り、12人を呼び寄せて言われた。『一番先になりたい者は、全ての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい』」


と教えられました。
 
それは 弟子達の常識に全く逆らって革命的な思想ですね。結局、弟子達はそのお互いの議論を通して一番先になりたかったのです。しかし、主は彼等の常識を引っくり返して、その反対を教えられました。実は、人に仕える者、又、謙遜な者は一番偉いのです。つまり、自分自身の事ばかりに集中する者ではなく、逆に廻りの者のニーズと気持ちに集中する人は偉いのです。神を喜ばす人はそのような者です。
 
ここで主イエスは、「あなた達は偉くなってはいけない」また、「成功しなくても良いのです」と教えられませんでした。私達が偉くなるのは神の御旨であります。主は私達の成功を大いに喜びます。しかし、主はここで偉くなる事と成功する事を定義しなおしました。自分自身に仕える代わりに、人に仕える事によって偉くなり、成功します。自分の地位と身分、自分のプライドと益を忘れ、喜んで他の人の僕のようになるとそれこそが私達は大物になると教えられています。
 
【主は一人の子供の手を取って】
その大事な教えを明らかにする為、主は一人の子供の手を取って弟子達の真ん中に立たせ、抱き上げました。現代の社会には子供達の存在と人権が相当に守られています。しかし、主イエスの時代、子供達は一番身分の低い者でした。子供はその父親の物のように扱われ、病気と飢えと酷使で死んだ子供が多かったのです。その社会にとって地位も人権も、力も全然持ってない子供達は全く偉くはなかったのです。だからこそ、主イエスは一人の子供を御自分の弟子達の真ん中に立たせ、その子を抱き上げる事によって大事にしました。考えて見ますと、小さい子供は私達の為に何も出来ません。助ける事も、私達の社会的地位を高くする事も出来ません。逆に、人は両親になる時から子供に与える事ばかりです。数え切れない程の子供の要求に応じる為、親は時間や力や財産などを犠牲にします。そして、親は子供が二十歳になっても結婚して年を取っても親はまだ子供達に一番良いものを与え続けます。その理由で主イエスは子供を弟子達の前で抱き上げこのように言われました。

「私の名の為にこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」


つまり、一番弱い者、要求が多い者、自分には何も役に立たない者に仕えると、イエス御自身に仕える事になります。又、私達がイエスに主として受け入れた印になります。その上、イエスが更にこの貴重な御言葉を語りました。

「私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」

 
やはり、お返しにも関わらず弱い者に使える事は主イエスを受けいれる印になります。その上、イエスを受け入れる事はイコール父なる神御自身を受け入れる事です。そして、神を知り、又、御自分の愛と憐れみと救いを受け入れる事は人間の最大目的と喜びになります。
 
愛する兄弟姉妹、この主イエスの貴重な教えにはまた大きな恵みがあります。実は、私達は自己中心的になり、自分の地位、自分の力と名誉、自分の問題を何よりも集中して重んじると、大抵惨めになります。空しくなります。なぜなら、そうすると私達は常に廻りの者の持ち物と財産と幸福を見て、自分と比べるからです。そして、私達が一番豊かでなければ不満を抱いてしまいます。又、自分より豊かな者のライバルになり、悔しい気持ちが芽生えます。そして、誰が一番偉いかと言う競争で人間関係も難しく、壊します。それは自分に集中する人、自分が全てであると思う人の悲惨な姿です。
 
【貧しい地域へ行って】
ある大会で誰かが有名な精神科医カール•メニンガーにこのように尋ねました。「もし鬱状態、あるいは神経衰弱(すいじゃく)になる気がしたら、どうすれば良いでしょうか。」その質問を聞いた人々皆は先生から、「なるべく速く精神科医へ診察を受けに行った方が良い」と言う答えが来ると思いました。しかし、メニンガー先生はこのように答えたのです。「その状態と思ったら、先ず自分の家を出掛け、貧しい地域へ行って、あなたの助けが必要である人の為に善い事をしたら、多分元気になるでしょう。」
 
【自分自身を超える】
自分の地位と身分、自分のプライドと益を忘れ、主イエスが教えたように喜んで他の人の僕になると、目的と喜びと満足を経験出来ます。自分が持ってない事と自分の問題を忘れる事が出来ます。つまり、自分自身を超える事が出来ます。そうしないと、イエス・キリストが賜る「豊かな命」を掴む事は難しいです。

「一番先になりたい者は、全ての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」


と主が教えられた通りです。
 
神の助けにより私達はきっと自分自身を超えられます。受けるよりは、与える方が本当に幸いであります。皆さん、主イエス・キリストの愛と寛大を持って廻りの者の祝福になりなさい。そうすると、私達皆も間違いなく豊かな、豊かな神の祝福が期待出来ます。

2007年09月09日 | カテゴリー: マルコによる福音書 , 新約聖書

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