洗礼の恵み ウイリアム・モーア宣教師

マタイによる福音書28章16−20節
(川合兄弟姉妹受洗をまえに)
 
【大きい鍋】
ある小学校の先生はクラスでshow&tell、すなわち「見せて語る」為、生徒達に、それぞれの家族に宗教の代表的物を学校へ持って来るようにと言いました。そして、翌日ある男の子はダビデの星を持って来て、ユダヤ教徒にとってその意味と重要性を説明しました。今度はイスラム教の生徒は新月旗を持って、そのシンボルについて語りました。また、ある仏教の子供は教室の前に来て、小さい仏像を皆に見せて、その意味を説明しようとしました。そして最後に、ある女の子は台所の大きい鍋を持って来て、皆に見せたのです。生徒達も先生もその鍋を見て驚きました。
 
それはどう言う宗教の代表的物がさっぱり分かりませんでした。女の子はこう説明しました。「我々キリスト者は洗礼を大事にするから、教会にある洗礼盤を持って来ようとしました。しかし、それはあんまり貴重な物だと言われ、持って来られなかったから次善の物、この鍋を皆に見せる為、持って来ました」と言いました。
 
ここ西谷集会で2003年クリスマス礼拝時に森田兄弟姉妹の洗礼式を行い、皆がクリスマスの大きなプレゼントだと大喜びしたのをよく覚えています。それからもはや三年半になりました。そして、ここ西谷集会にまた神からの大きな喜びが与えられました。今日は川合御夫妻が洗礼をこの礼拝中に受けます。川合御夫妻が今日の日の為に祈りを持って一日一日を待っていらっしゃった事を私はよく知っています。私達も皆この日の為祈って、嬉しく待ち望んで待って参りました。
 
先程のストーリの女の子が言われた通りです。我々キリスト者は洗礼を大事にします。今日、川合兄弟姉妹は洗礼を受ける際に、私達既に洗礼を受けた者も、まだ受けてない者もその礼典の恵みと意味を新たに学びたいと思います。それによって、私達皆は今日の洗礼式の恵みをよりもっと経験出来ると思っております。

【キリスト教会は何故洗礼を授けるか】
さて、キリスト教会は何故洗礼を授けるのでしょうか。今日の聖書の朗読はその質問にはっきりと答えます。この御言葉には蘇えられたイエス・キリストが御自分の弟子達に現れ、彼等に使命を与えたのです。このようにおっしゃいました。マタイによる福音書28章18の所を見て下さい。

「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、全ての民を私の弟子にしなさい。彼等に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいた事を全て守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 
実に、洗礼は「天と地の一切の権能を授かっている」神の御子、イエス・キリストの御心ですから、教会は洗礼を今日まで授けてきました。洗礼を受ける事と授ける事によって、

「私を愛する人は、私の言葉を守る」


(ヨハネによる福音書14:23)と言われた主イエスに私達の愛と服従を現します。
 
しかし、イエス・キリストは洗礼を礼典として設立したのは初めから終わりまで、私達を豊かに祝福する為です。つまり、主御自身の為ではなくて、私達の大きな恵みになるように主は洗礼を賜りました。
 
【洗礼の意味】
御存知のように、洗礼の一番基本的な役割は新しい信者をキリスト教会に受け入れるしるしになる事です。洗礼を授けられると、その者はキリスト者として認められます。礼典を受ける前に受洗者はキリスト信仰を神と教会の前で告白し、これから神の助けでイエス・キリストに従って、主と主の教会に仕える決心を表します。そして、洗礼を受けた信者として、教会の全ての特権が与えられ、聖餐の礼典にもあずかる事が出来ます。それは洗礼の一つの大事な目的です。
 
【洗礼の霊的意味:罪の洗い】
しかし、洗礼にはシンボルとして、豊かな意味もあります。イエス・キリストは洗礼の礼典を設立した時、どう言う意味を伝えたかったのでしょうか。主イエスはおもに二つの意味があったと思われます。「洗礼」と言う言葉の文字通りの意味はその一つを示します。やはり、洗うと言う事ですね。洗うという事を考えますと、自分の汚れた体やお皿や洋服などを奇麗にした時に何を使って汚れを取り除くのでしょうか。もちろん洗う為に水を利用します。水は垢を溶かす力があるから、私達の生活に絶対に必要な物です。洗礼式にも水を使います。その水は垢を洗うのではなく、私達から罪を洗うのです。と言うのは、イエス・キリストは受洗者から罪の結果を取り除く力があると言う意味なのです。主イエスは御自分の十字架の贖いによって信じる者には罪の赦しを授けて下さいます。罪の為に滅びに向かう私達は神の赦しを受けると、神と和解され、主の永遠の救いにもあずかります。ですから、バプテスマのヨハネはイエスを初めて会った時、このように宣言しました。

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。」


(ヨハネによる福音書1:29)そして、ヘブライ人への手紙にもこの御言葉があります。

「心は清められて、良心ととがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」


第一に、洗礼はイエス・キリストが受洗者の罪を赦す力と示して下さいます。
 
人間誰でも、自分の過去を振り返って見ると、罪の負い目を感じるはずです。愛する人を傷つけ、自分の弱さや我儘や過ちなどの故に人を苦しめた事が多くあります。その上、私をお造りになり、そして、昔も今もずっと支えて下さる愛する天の父なる神にさえも背を向ける時が多いのです。そういう罪の負い目から解放があります。イエス・キリストを通して神が奇麗に洗って下さいます。洗礼を受けると、その大事な、大事な事が具体的になり、神の許しの恵みを心から悟ります。つまり、御言葉の約束通りに、

「自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私達を清めて下さいます」


(ヨハネの手紙一1:9)と言う事は自分のものになります。
 
【洗礼のもう一つの霊的意味:古い自分の死と蘇り】
シンボルとして洗礼はもう一つの大事な意味を示します。それはキリスト者の霊的な生まれ変わりです。イエスはこのように言われました。

「はっきり言っておく。誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入る事は出来ない。」


(ヨハネによる福音書3:5)実は、ある意味では洗礼式はお葬式のようです。洗礼の水の下に入る事は古い自分の死を意味します。
 
カリブ海の島バルバドスへ始めて行った宣教師達が、福音を伝えた時の事ですが、現地の者数人が洗礼を願いました。そして、洗礼式の日が来ると受洗者と大勢の見学者と宣教師もある池で集まりました。しかし、宣教師達が受洗者を迎えるとびっくりしました。なぜなら、 受洗者皆はパジャマを着ていました。それは可笑しいと思った宣教師達は彼等を普通の洋服に着替えるようにと願いましたが、 受洗者は断って、パジャマで洗礼を受けたいと強く言いました。ですから、宣教師達は仕方なく、彼等がそのパジャマの姿のままで洗礼を授けました。
 
数日後、宣教師達は現地の人のお葬式に行きました。そして、故人はパジャマを着て葬られました。その意味を聞くと、この説明がありました。「我々は人が死ぬと眠りに落ちると信じます。その故に故人をパジャマに着せて埋葬します。」その説明を受けると宣教師達は洗礼式のパジャマの事が分かりました。洗礼の事をバルバドス人に教えた時、それは古い人間の死のような意味があると説明しました。ですから、受洗者達は故人の服を着て、洗礼を通して古い人間を葬ろうとしました。
 
しかし、洗礼は古い人間の死だけではなく、キリストにおいて新しい命も示します。洗礼の水から出る事は神から与えられた私達のキリスト者としての蘇り、すなわち、新しい命を示します。

「私達は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私達も新しい命に生きるためなのです」


(ローマの信徒への手紙6:4)と聖書に記された通りです。愛する神は洗礼を通して人生の新しい出発を与えて下さいます。これからは主イエスに生かされ、キリストの僕として毎日の生活を歩む訳です。神を信じ、頼りながら主は必要な愛と力や知恵や忍耐などを授けて下さいます。また、自分がキリストの名前で呼ばれるようになります。実は、クリスチャンは「小さいキリスト」と言う意味なのです。ですから、毎日の生活は自分の救い主の証し人となります。ですから、使徒パウロが書いたように、

「キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」


(コリントへの第二の手紙5:17)洗礼はその新しい人生の生き方の印になります。
 
【洗礼は出発点】
キリスト者は洗礼を生涯一度だけ受けます。しかし、私達の生活に毎日その礼典の約束と意味と祝福を確かめなければなりません。洗礼は信仰生活の到着ではなく、出発です。毎日、毎日自分の洗礼を思いながらイエスに似ていく、主をよりもっと信頼し仕える歩みなのです。
 
ポール•ハービーと言う有名なラジオコメンテーダーは自分の洗礼についてこのように述べました。彼はコメンテーターとして色々なアワードを受けて、大金持ちになりましたが、時分の心は空しかったのです。ある夏、ハービーさんは奥さんと一緒に田舎の小さい町で休暇を過ごしていました。日曜日が来て教会へ行った時、礼拝の前で急に御言葉を思い出しました。それは、

「神は、その独り子をお与えになった程に世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る為である。」


(ヨハネ3:16)
 
ハービーさんはイエスを救い主として信じましたけれども、洗礼をまだ受けていませんでした。その日の説教の題は洗礼でした。あんまり面白くない題とは思いましたが何となく聞く事になりました。そして、ハービーさんは神の不思議な導きを感じ、その場で洗礼を受けたのです。受けると言い尽くせない平安を感じ、神によって清められたと言う不動の確信を持つようになりました。「洗礼を受ける事によって私の生活は本当に変わりました。神は空しい心を満たして、喜びは溢れます。主イエスの証人になりました」とハービーさんは言いました。
 
皆さん、洗礼はこのような祝福です。主イエス・キリストは御自分を信じる者誰にでも、洗礼を受けるようにと招いておられます。(おわり)

2007年06月24日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネの手紙一 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書

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