霊の結ぶ実:平和 ウイリアム・モーア宣教師

ヨハネによる福音書14章15−27

◆聖霊を与える約束  15:「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。  16:わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあ     なたがたと一緒にいるようにしてくださる。17:この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18:わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19:しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。  20:かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21:わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」  22:イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。 23:イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24:わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。25:わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26:しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27:わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

ガラテヤの信徒への手紙5章22−23

「霊の結ぶ実は愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」。  


【シカゴ大火とスパーフォドさん】
アメリカのシカゴ大火は1871年に起こりました。その火事はシカゴの中心商業地区を全焼して、死者は300人、住む家を無くした者は十万人でした。シカゴ大火の一人の英雄は弁護士で実業家であるホレイショー•スパーフォドさんでした。彼は敬虔なキリスト者で讃美歌の歌詞も書く人でした。実は、スパーフォドさんは大火で多くの物件を失いました。その上、大火の年に幼い独り息子を病気で失くしました。それにも関わらず、彼は大火の犠牲者の為に色んな救援活動に参加しました。財産が結構無くしたのに彼は残った物を惜しまずに苦しんでいる住民の回復の為、寄付したのです。特にスパーフォドさんは家と肉親を亡くした人を慰めて、助けて下さいました。

大火の二年後、スパーフォドさんと奥さんはすっかり疲れ切って、その四人の娘と共にヨーロッパでのバカンスへ出掛けようとしました。しかし、その一家は出港する直前にスパーフォドさんは止む無い事情で皆と一緒に行けなくなりました。そして、奥さんと娘達が先に行って、彼は次の船で来る事になりました。しかし、悲劇な事に家族が乗った船は北大西洋で他の船と衝突し、スパーフォドさんの四人の娘も死者の中でした。そしで、生き残った奥さんは夫にこの悲しい電報を打ちました。「独りだけ助けられました」。
 
【讃美歌520番:こころ安し、こころ安し】
深い嘆きの中でスパーフォドさんは奥さんに会う為、ニューヨークを出港して英国へ向かいました。そして、スパーフォドさんは乗った船が娘達が溺れた所を通った時、私達が先程歌った讃美歌520番の歌詞を書きました。「しずけき河のきしべをすぎゆく時にも、うきなやみの荒海をわたりゆくおりにも、こころ安し、こころ安し、神によりて安し。むらがるあだはたけりてかこめどせむれど、いざなうものひしめきてのぞみをくだくとも、こころ安し、こころ安し、神によりて安し。」
 
驚くべき事ですが、深い悲しみの中でもスパーフォドさんは不思議な心の平安と平和を経験する事が出来ました。真心込めて、「こころ安し、こころ安し、神によりて安し」を歌う事が出来ました。
 
【聖霊の結ぶ実:平和】
今朝は神の聖霊の結ぶ実の学びを続けたいと思います。今まで、愛と喜びを学んで来ましたが、今日は「平和」と言う実が与えられました。ガラテヤの信徒への手紙に霊の結ぶ実のリストが記されています。それは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です。私達キリスト者は毎日の生活にこのリストにあるものを現すべきです。つまり、 愛と、喜びと、平和と、寛容と、親切と、善意と、誠実と、柔和と、節制を持って生きるようにと聖書に教えられています。そして、そのもの全ては聖霊の賜物です。だからこそ「霊の結ぶ実」と聖書に呼ばれています。キリスト者になると、神の霊は私達に宿って下さいます。そして、霊の導きに従って歩むのなら、すなわち私達の内に霊の働きを許すと、キリスト者は「霊の結ぶ実」を現します。
 
【聖霊降臨】
今日はペンテコストです。つまり世界の教会は今日、聖霊降臨を覚え記念します。イエス・キリストはこの世にいる間に弟子達に聖霊の降臨を約束して下さいました。

「私が去って行くのは、あなたがたの為になる。私が去って行かなければ、弁護者はあなたがたの所に来ないからである。私が行けば、弁護者をあなたがたの所に送る」


(ヨハネによる福音書16:7)と主がおっしゃいました。その弁護者、つまり、聖霊は私達の内に宿り、神の私達と共にいる存在として色んな大事な役割を果たします。第一にキリスト者を相応しく歩むように助けて下さいます。つまり、愛と喜びと平和などの霊的実を豊かに結ぶように導いて力を与えて下さいます。ですから、霊の結ぶ実を学びながら、今日ペンテコストの恵みを新たに覚え感謝する事は大変相応しいではないかと思います。
 
さて、今日、学ぶ「平和」はどういうものでしょうか。平和はキリスト者には聖霊の結ぶ実であるならば、私達はどう言う態度と奉仕を現すべきでしょうか。一般的には平和と言うと、戦争のない状態と定義されています。言うまでもないが、戦争は大変恐ろしい事で、人間の為の神のみ旨ではありません。戦争は国と国の間の問題解決方法として非常に原始的で被害者が多いのです。特に民間人の犠牲が多い イラクのような戦争は人間の失敗と罪深さを現します。キリスト者は誰よりもこの世から戦争を無くす事を祈って努めるべきです。イエス・キリストこそはこう言われました。

「平和を実現する人々は幸いである、その人達は神の子と呼ばれる。」


(マタイによる福音書5:9)
 
【聖書に於ける平和:シャローム】
戦争をなくす事によって平和を実現するのは、とても大事ですが、聖書に於ける平和と言う概念は遥かにもっと広いものです。日本語で平和と平安に訳された聖書のヘブライ語の原文はシャロームです。その意味は戦争のない状態、経済的安定、健康、心の霊的平安、永遠の救いなどです。つまり、全体的の「和」と福祉です。そして、シャロームはただ個人的の問題ではありません。つまり、自分の為だけではなくて、私達は全人類の為にシャロームをもたらしたいのです。例えば、もし自分は健康と経済的安定の状態であっても、近くの国には飢饉で悩んでいる人々がいれば、それはシャロームではありません。また、イエス・キリストの福音を受け入れ、自分が心の平安を得ても、回りの者の霊的苦しみをただ他人の問題と思うと、それもシャロームではありません。
 
今日のヨハネによる福音書の朗読には主イエスは御自分の平和、つまり御自分のシャロームについてこのように約束しました。ヨハネによる福音書14:27を見て下さい。

「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。こころを騒がせるな。おびえるな」


と記されています。主イエスによると二つの平和があります。それは主イエスが与える平和とこの世が与える平和です。
 
【この世が与える平和】
イエス・キリストの時代、ローマ帝国は平和を臣民に授けようとしました。帝国の軍隊と法律を通して平和を保ちました。敵の国と戦ってローマ帝国の安全を確保しようとしました。さらに、帝国内の反乱と犯罪を厳しく罰しました。実はイエス・キリストは「ユダヤ人の王」と呼ばれたので十字架に付けられました。その事によってローマ帝国は強制的に平和を保ちました。
 
そして、現在平和と言うと、それはもちろん戦争のない波風がたたない状態ですが、自由もその概念に含まれています。つまり、自分で自分の生き方と行動を決める事です。回りの者と当局からの邪魔を受けず、自由に生きる事は多くの人にとって「平和」となりました。結局、それぞれ自分の目に正しい事をするのは平和と思われています。言うまでもなく、そのような平和の理解を持つと、ある人の自由と平和は隣人の不自由と地獄になります。多くの個人的と社会的問題はかれらの平和理解から生じて来ました。それは世が与えるような平和であります。
 
【イエス・キリストが与える平和】
その反面、イエス・キリストが与える平和は何でしょうか。実は、主は、

「私は平和をあなたがたに残し、私の平和を与える」


と約束した時は御自分は十字架の死に直面して、弟子達をこの世に残して天国へ帰る時でした。父なる神の所に帰る前にその約束を通して弟子達を慰め、励ましました。イエスがこの世を去っても聖霊を通して御自分の生ける御臨在を残して、自分の賜物シャロームを約束して下さいました。そして、これは決してただの普通の人間が与える平安と平和ではありませんでした。主イエスのシャロームはどう言うものでしょうか。この世から戦争をなくすと全てが平和になるでしょうか。イエスの時代から現在まで数え切れない程の戦争と争いがありました。今も戦争が流行ってます。もちろんキリスト者は戦争をなくすように努めるべきです。また、主が再びいらっしゃると、戦争をこの世から取り除きますが、その時まで戦争があると思います。そして、イエスは「私のシャローム」と言はれます、御自分を信じる者がもう問題やトラブルがない訳ですか。そうではありません。私達皆は問題やチャレンジがあると思います。さらに、イエスの平和は、何でも好きな通りにする自由でもありません。主イエスのシャロームは私達と共にいて下さる御自分の臨在から来るものです。主はこのように約束しました。

「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


(マタイ28:20)。聖霊を通してイエス・キリストは私達と共にいらっしゃるからこそ、平和を経験出来ます。聖霊は私達に力と希望を豊かに授けて下さいます。共に私達と歩んで下さるから私達に勇気も力も慰めも与えられます。神の助けによって何でも耐えられ、勝利を得る事が出来ます。実に主が私達と共にいらっしゃるので、平和と平安があるのです。戦争の中にいても御自身の平和を経験出来ます。スパーフォドさんのように娘達の死の故に深い悲しみの中にいても、そのシャロームによって支えられ「こころ安し、こころ安し、神によりて安し」と歌う事が出来ます。
 
愛する皆さん、主イエスから離れて御自身の平和を受ける事は出来ません。だからこそ主が、

「私はこれを、世が与えるように与えるのではない」


とおっしゃいました。イエス・キリストを信じる者の平安と平和は人間が作れるようなものではありません。人間の努力は主のシャロームをもたらす事が出来ないのです。主イエスの平和は神の賜物ですから、世が与えるようなものとは違います。
 
皆さん、イエス・キリストは何よりも御自身の平和を私達に授けたいのです。だからこそ主はこの世にいらっしゃいました。そして、その平和への道は一つだけです。それは主イエスを救い主として受け入れ、主と共に歩む従う事です。つまり、あなたを造られた神の愛された子供として生きる事です。そうすると、霊の結ぶ実:平和をこの世にも、永遠にも豊かに知る事が出来ます。(おわり)

2007年05月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書

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