「心の清い人々は幸いである」田村英典牧師/淀川キリスト教病院伝道部長

【心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る】
5章8節だけ、もう一度お読み致します。

「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」


何か私たちの心に静かな余韻を残す言葉ではないかと思います。
これは今から二千年前、神の御子イエス・キリストが真の信仰者の特徴と幸せについて語られた教えの一つですが、まだ洗礼を受けず、クリスチャンになっておられない皆様にも、さ程抵抗なく、受け止めていただけると思います。
 
心の清い人々が幸いであることを否定する人はまずいないでしょう。また、もし神を見ることが本当にできるなら、それは幸いだと思う方も少なくないと思います。私は10代の終り頃、生きる道を求め、20歳の時に初めて近くの教会へ行ってみました。とはいえ、最初は強く警戒し、極力深入りすまいと心に決めていました。しかし、それとは別に、私は教会の中に何か世間とは違う真実なものがあると感じました。少し大袈裟に言えば、それは私に別の世界のあることを気付かせ、心を洗われる気がしました。
 
そして、人間というものが、いいえ、私自身が罪深いことも素直に認めることができました。聖書が行なう人間や社会の分析、そして洞察についても、余り抵抗はありあせんでした。「これならクリスチャンになってもいい」と割合早い時期に思ったものです。

【神が見えたら】
しかし、最後まで残る問題がありました。どうしても決定的な確信がなく、モヤモヤしたものがありました。それは神存在についてでした。無論、神の存在を全面的に否定することなどできません。しかし、全面的に信じられるかというと、これもできませんでした。暫く続いたそういう悶々とした時期に、私は「神が見えたらいいのに。そうしたら全て解決するのに」と思ったものです。
 
皆様の中にも、神を見ることができたらいいのに、と思われる方もおありではないでしょうか。すでに洗礼を受けてクリスチャンになっている方の中にも、フッと信仰に迷いが出た時など、「あぁ、神のお姿が見えたらなぁ」とか、「夢にでも神が現れて、私に語りかけて下さったらいいのに」と思うことがあるかも知れません。「もし見えるなら、万物を、そしてこの私たち一人一人を造られた全知全能の生ける真の神にお目にかかりたい。ハッキリ神を知りたい。」このように真面目に思う方も少なくないと思います。こういう私たちにイエスは言われます。8節

「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」


そうです!神を見ることを私たちは許されるのです!
 
ただ、これには条件があります。「心の清い人々」、そう、これが条件です。これを聞いて多くの人はガッカリするかも知れませんね。「何だ、心が清くないと神のことは分らないのか。だったら、私はいつまでもハッキリしないだろうな。だって、私の心には清くない所がいっぱいあるもの。」
 
人間として様々なことを体験してきた人は、恐らく普通なら皆こうだと思います。大人の社会人なら、そしてこの世の奇麗な面も汚い面も、表も裏も見てきた人なら、自分を本気で心の清い人間と思う人はまずいないでしょう。しかし、今申し上げたような意味で、心に何の汚い部分もない完全に清い人しか神を見ることができないのなら、イエスのこの御言葉は殆ど意味がないのではないでしょうか。そこまで心の清い人など、この世に一人もいないからです。イエスの教えにケチをつけるのではありません。主が私たち人間の他でもない人格の座である心の清いことの大切さを教えて下さっていることは、本当に感謝です。
 
【聖書が言う心の清さとは】

「心の清い人々は幸いである。」


自分もそうありたいですよね。でも、自分の心がそれほど清くないことをよく知っている私たちには、ちょっと荷が重いというか、どう受け止めて良いのか分らない所があるのではないでしょうか。
そこで、「心の清い」という意味を確かめておきたいと思います。「清い」とは純粋で不純なものがない、という説明もありますが、今一つ分りません。真実な、誠実な、正直な、従って偽善のないこと、狡猾さのないことという説明もあります。多分そういうものを全て含むと思いますが、この言葉は何といってもまず神との関係を表わすものとして理解されるべきでしょう。例えば、聖書は清い書物と言われます。その通りなのですが、では、どういう意味で清いのでしょうか。
 
ご承知のように、聖書には人間のゾットするほど罪深く、醜い恥ずかしい部分も包み隠さず書かれています。そういう所だけを見ると気が重くなります。全然奇麗ではありません。
 
しかし、やはり聖書はどの部分を取っても清い書物です。この書物全体が清い。それはどの部分も全て神と関係があるからです。あるお話がただポツンと聖書の中にあるのではなく、どの部分も結局、私たちを造り、しかも罪深い私たちをなおも深く愛し、憐れんで下さっている神を教え、神の愛を示し、神に私たちを導こうとしているから、他の書物と違って清いのです。
 
心の清さも、何より真の神との関係が一番です。私たちがどんなに自分に正直で誠実でも、それで心が清いとは必ずしも言えません。自分には正直ですが、それでとんでもないことをしたり、周りに大変な迷惑をかけている人もいます。
 
【神との関係において心が清いとは】
では、神との関係において心が清いとは、もう少し分り易くいってどういうことでしょうか。要するに、神に対して心がへりくだり、素直で、また神の愛に応えて一生懸命神に喜ばれるように生き、聖書に教えられている神の清い御旨に何とか従いたいという熱心と誠実な姿勢のあることです。色々な弱さがあり、誘惑にも負け易く、失敗も多く、しょっちゅう「神様、お赦し下さい」と言っては赦しを請うのですが、心の姿勢というか心の向きが天の父なる神に向けられている。これが心の清いことと言えます。救い主なる神の独り子イエス・キリストを信じて全ての罪を赦され、やがて永遠の天国に入れられるだけではありません。「今この世で少しでも神に喜ばれる者になりたい。神に喜ばれる人生を生きたい。」
 
こういう意味で、絶えず心のアンテナが神に向いていることです。物事が順調な時には決して傲慢にならず、神の恵みに感謝し、物事が不調で逆境の時には、神はどうしてこういう辛いことが私の身に起きるのをお許しになるのかと、普段のどの時よりもへりくだって考え、そして最終的には神に委ねていく...。このように心のアンテナが神に向けられていることが、心の清いことの中心と言えます。
 
では、どうなのでしょう。

「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」


とイエスは言われます。本当に神を見るのでしょうか。そう、見るのです。見ることができるのです。但し、神は私たち人間のように体を必要としない霊です。すなわち、純粋に人格そのものですから、文字通り、直接肉眼で神を見るのではありません。心で見るのです。見えるのです。
 
【人は自分が関心のあるものを見る】
面白いもので、人間は自分の関心のあるものは見、関心のないものは見ていても見えません。服装やファッションに殊の外興味のある人は、どんなに混雑した所でも自分の好みの服をすぐ見出します。私はこれでも中学生の時、オートバイ気違いでした。警察官だった父の古いオートバイを内緒で乗り回したこともありますし、エンジンやキャブレターを分解するのが好きでした。中学2年生の時、当時としては大変素晴らしい250CCのオートバイが出ました。その名前を私は45年経った今でも忘れることができません。ホンダ・ドリーム・スーパースポーツ CB72・250と言います。その銀色の美しい形!私は夢中になり、街で止めてあるのを見てはスケッチし、頭の中に叩き込んだものです。面白いことに、そこまで好きですと、街の雑踏の中でそのオートバイのホンの一部が見えただけで、いいえ、見えなくても、エンジン音を耳にするだけで、「あっ、あれだ」と分ります。私の次男が8歳位の時、それはそれは昆虫好きでした。一緒に散歩していて、私には全く見えませんのに、彼には草むらの中に昆虫が見えるのです!すごい!人は関心のあるものなら、本当に見えるのです。植物を愛する植物学者は、踏みつけられている道端の草の中にも、貴重な素晴らしい花を見出します。心の卑しい不潔な人は、どんな所からでも下品で不潔なものを見つけます。子供を心から愛している母親は、どんなに騒がしい駅のプラットフォームや百貨店の中でも、自分の子供の泣き声を発見します。
 
【アウシュビッツ強制収容所】
この前の戦争では、何と三百数十万人の日本人が死にました。しかし、第二次世界大戦の折、ポーランドのアウシュビッツ強制収容所では、信じられない数ですが、四百万人以上の大量殺戮が、ヒトラーの率いるナチスの手によって行われました。それはさながら地獄でした。そこでは、通常の人間の尊厳性を示すようなものの一切が停止していたと言われます。
では、アウシュビッツは地獄だったのでしょうか。戦後、ヨーロッパでいち早く、ある会議が持たれた時、「そうだ。あれは地獄だった。神はいなかった」と言う人々が続きました。しかし、最後にあるユダヤ系のオランダ人牧師は力を込めてこう言ったそうです。「私はアウシュビッツにいました。あそこで、神は死んではおられませんでした。賛美歌を歌いながらガス室に赴いた人々のために生きておられました。神は、信仰をもって死を超えて生きる人々のために、生きていて下さったのです。」他の人には絶対見えない事柄の中にも、実際、この牧師を初め、ある人々には神を見ることができるのです。

「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」

 
しかも、聖書によるなら、これだけではありません。心の清い人もやがては時が来て、この世を去らなければなりません。しかし、その時こそ、イエス・キリストの言われたことが最も完全な意味でそのままその人に実現するのです。Ⅰコリント13章12節は言います。

「私たちは、今は鏡におぼろに映ったものを見ている。だが、その時には、顔と顔とを合せて見ることになる。」

ヨハネ黙示録22章4節は、その時、信仰者は神の

「御顔を仰ぎ見る」

とも言います。本当にその時、栄光に輝く神を見ることを、それもとこしえに仰ぎ見ることを、

「心の清い人々」

は許されるのです。

「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」


【人間の本当の幸せ】
 私は、人間の本当の幸せの一つは、何を私たちが見るかにかかっていると思います。立派な家屋敷、財産、名声、社会的地位を持ち、また人一倍健康であっても、自分の周りに、美しいものでも安らぎでも愛でもなく、ただ自分の心の濁りが生み出したところの、人間の醜さと欲からなる地獄を見る人もいます。他方、貧しくて何もないのですが、でも、全てのことにイエス・キリストによって感謝でき、辛さの中でも尚、神の微笑みを見ることのできる人もいます。私たちは皆やがて、いつかこの世の自分の人生を終えなければなりません。その時、私たちは必ず自分の生きてきた結果を見ることになります。人生最後のその時、私たちは何を見るのでしょうか。特に死の彼方に何を見るのでしょう。頑なで不信仰なために、文字通り、永遠の滅び、永遠の絶望、永遠の地獄を見るのでしょうか。それとも、私たちのような弱い者でも、神を思い、神を慕うその思い、その信仰を私たちの主イエス・キリストが喜んで下さり、それ故、死の彼方に、諸手を挙げて私たちを受けとめて下さる愛に満ちた神を見るのでしょうか。どちらでしょうか。イエスは言われます。

「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」  


無論、神の御子イエス・キリストは、私たちを、今現在も、そして遅かれ早かれやがて必ず迎える死の彼方にあっても、この最高の幸せに与らせるために、このような大切な教えを下さっているのです。また聖書を与え、教会を与えて、ご自分を信じ、受け入れ、依り頼む者の心を、本当に清めようとなさっておられます。神の御子イエスは、こうして私たちを、最高の幸せ、つまり、この世が与えることもこの世が奪うこともできない真の幸せへと招いておられるのです。この招きに、ご一緒に喜んで応じたいと思います。神が私たち一人一人を励まし、祝福して下さいますように。

「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」

(おわり)

2006年11月19日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , マタイによる福音書 , ヨハネの黙示録 , 新約聖書

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