「神に背負われる幸せ」 田村英典牧師・淀川キリスト教病院伝道部長

聖書:イザヤ書46章1~4節

1:ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ/お前たちの担いでいたものは重荷となって/疲れた動物に負わされる。 2:彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず/彼ら自身も捕らわれて行く。

3:わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。

あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。4:同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。

【キリスト教信仰が私たちに与える祝福】
キリスト教信仰が私たちに与える祝福には色々あります。一番大切なものはイエス・キリストの十字架の死と復活が、そのイエスを心から信じ依り頼む者に罪の赦しと永遠の命を与えることです。

しかし、これだけでなく、この中心的なものの回りに様々な祝福があります。例えば、ガラテヤの信徒への手紙5章22、23は、主を心から信じる者に御霊が結ばせて下さる実を9つ上げます。

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制で、どれも尊いです。これらが私たちの内に形成されるなら、どんなに幸いでしょう。

他に忍耐力もあります。聖書によると、忍耐力とは、物事がうまく進まず、万事が私たちの願っていることと正反対の状態にあると思える時でも、私たちが尚前進して行くことのできる力です。これもキリスト教信仰の与える優れた祝福の一つです。しかし、今朝はイザヤ46章4節の伝える

「神に背負われる幸せ」

を学びます。

【無力な偶像の神々】
ここはバビロンで崇められていた偶像の神々ベルやネボと比べて真の神はどういう方かを、神御自身が語られた所です。偶像は金銀で如何にうまくできていても、自分では動けず、動物に背負われて運ばれました。その動物が躓いたなら、偶像も転げ落ち、壊れます。偶像には何の力もありません。そんなものを信じていたら、人も疲れ、その挙句に悲惨な目に遭います。

【私たちを背負われる神】
真の神は違います。古代イスラエルは不信仰のために色々懲らしめを受けましたが、ここで神は、ご自分がどれ程慈しみ豊かであるかを示し、彼らに悔い改めを促されたのでした。それはともかく、ここで一番私たちの心に響くのは、神が私たち信仰者を背負って下さることだと思います。

少し想像してみます。親に背負われてスヤスヤ眠り、あるいは親の背中で嬉しさと喜びで一杯の幼子!何とも言えない心和む光景です。それを見る者にも温かいものが伝わって来ます。親に背負われている幼子程、平安で幸せなものはないでしょう。実はイエス・キリストへの信仰の故に神の子とされた者も、同じように神に背負われる幸せに与っているのです。聖書はこの素晴らしい事実を教え、私達を励まします。

【永久に変わらない神】
そこで、第一に教えられるのは、信仰者を担い、背負い、救って下さる天の神が、決して変ることのない方だという点です。この世は常に変っています。ここ10数年で世界は勿論、日本の経済も政治も随分変りました。今後もどう変るか分りません。道徳や価値観も20年前とは変りました。人は変り、私たちも変る。これが現実です。

では、私たちは何を拠り所に生きていけば良いのでしょう。富、健康、体力、能力、顔や姿の良いことでしょうかか。しかし、人一倍健康や能力に自信があっても、事故で重症を負ったり重い病にかかれば、たちまち失われます。また私たちは例外なく歳を取ります。この世は変り、私たちも変る。いつまでも同じではない。私たちは何を拠り所にすれば良いのでしょう。

ここに福音があります。

4節「私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう」

と言われる決して変ることのない真の神に背負って頂ける幸せが、私たちに提供されているのです。

親に背負われている幼子も揺れる。だが落ちない。神に背負われていても、辛い試練の時には私たちも揺れ、動揺する。だが落ちない。この世の全てが変り、私たちの健康やできることが変っても、永遠に変ることのない神が私たちを背負って下さるからです。

マラキ書3章6節「まことに、主である私は変ることがない。」

救い主イエス・キリストも変りません。

ヘブライ人への手紙13章8節「イエス・キリストは昨日も今日も、また永遠に変ることのない方です。」

この決して変ることのない神に背負われている幸せを改めて覚えたいと思います。

【永久に真実な神】
二つ目は、私たちを背負って下さる神が、どこまでも真実な方であることです。天地の造り主、しかも御子イエスを、神に背を向ける私たち罪人の救い主として遣わされた程に私たちを愛しておられる神は、御子を心から信じる者を、御自分の名誉と責任にかけて必ず持ち運んで下さいます。

実は4節のヘブライ語原文には「私」という言葉が5回も出てきます。これは神ご自身を指しています。私たちも何かを責任をもって引き受ける時、「私がやります。私が」と何度も「私」と言って強調しないでしょうか。何と神は信仰の弱い私たちに5回も「私」と言われ、力を込めて御自分が責任を取ると言われるのです。何という神の真実でしょう。

私たちはつい神を忘れ、神の御心が分っていても従わなかったりするいい加減な者です。それでいて、少し辛い目に会うと、たちまち取り乱し、祈れなくなり、自分の不信仰は棚に上げて、神に文句さえ言いかねない愚かな者です。それなのに神は「私」があなたを私の子として造ったのだから、

「私が担い、背負い、 私が救い出す」

と何度も力を込めて言われるのです。

これは私たちが一生懸命努力したり、自分の不信仰や弱さと真剣に戦う必要がないというのではありません。パウロがそうであったように、私たちも時に自分を打ち叩き、弱い自分と戦って努力します。でも、それは背負われながら神の背中の上でする努力のようなものです。神の恵みの中で努力させて頂くに過ぎません。

神は真実な方です。神は謙(へりくだ)って心からイエスを信じる者を、責任をもって引き受け、どんな困難が襲おうとも、必ず最後まで背負って下さる。御自分の名誉にかけてそうされる。

神は、御自分に寄り頼む者を

「白髪になるまで」

背負って下さいます。いいえ、本当は更に老いて髪の毛がもっと薄くなり、それどころか、老いと病のために寝たきりになり、もはや何もできず、自分のことも周りのことも認知できなくなる程衰えても、信仰者を背負い、永遠の救いに入れることにおいて、とことん真実であられる。

Ⅱテモテ2章13節が言うように、

「13:たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。彼は自分を偽ることが、できないのである(口語訳)」

それも私たちのためにそうでいて下さる。ですから、私たちも心から神に自分をお委ねして良いのです。

【力に満ちた神】
第三に、神は力に満ちた方でもあります。何があっても変らず、ご自分が責任を負うとまで言われる真実な方であることに加えて、神は最高に力に満ちた方でもあります。イザヤ書46章9~11節は記します。

「私は神、他にはいない。私は神であり、私のような者はいない。私は初めから既に先のことを告げ、まだ成らないことを既に昔から約束しておいた。私の計画は必ず成り、私は望むことを全て実行する。...私は語ったことを必ず実現させ、形作ったことを必ず完成させる。」

信仰者を背負うと言われる神は、御自分の計画されたことは、この世がどう変ろうとも必ず実現し完成させる力に溢れた全能者なのです。

旧約聖書の伝える通り、神は昔、エジプト、アッシリア、バビロンなどの強大な国からイスラエルを奇跡的力をもって救われました。しかし、神の力は何といっても特に御子イエスが処女マリアより生れられたこと、その生涯の偉大な御業、特に私たち罪人の救いのための十字架の死と復活に、最高に現されました。そしてその全てが旧約聖書に預言されていました。

大切なのは、歴史を貫いて働かれるこういう全能の神が、謙って心からイエスを信じる者に

「私があなたを担い、背負い、救い出す」

と断言しておられることです。この世で絶えず何かの困難に遭遇し、不安や悩みが尽きず、失望落胆することの多い私たちにとって、これはどんなに大きな慰めと勇気を与えることでしょう。昔から子供たちに歌われてきた讃美歌に、「主、我を愛す」(461番)があります。その1節は「主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ。我が主イエス、...我を愛す」という歌詞です。その通り、主イエスを心から信じ依り頼む者は、本当にこのように歌える恵みを頂けるのです。

万物を力ある言葉だけで無から創造し、私たちの救いのために十字架で死なれた御子を三日目に復活させらせた全能の神が、御自分をひたすら頼る者に「私があなたを担い、背負い、救い出す」と約束しておられる!神以上に強いものが、この宇宙のどこに存在するでしょう!この神に背負われる幸せを改めて覚えたいと思います。

【愛と憐れみに満ちた神】
最後、第四に、私たちを背負うと言われる神が、必ず救いを完成して下さる愛と憐れみに満ちた方である点を見て終ります。神は言われます。

4節「私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す。」

救いには、私たちがこの世で様々な困難や苦しみに耐えられるという面もあり、これも大きな恵みです。私たちは人生で常に予期しない困難に襲われ、それも一時に重なることがあります。弱い私達は潰れそうになります。しかし、イザヤ書63章9節は、神が

「彼ら(信仰者)の苦難を常に御自分の苦難とし」と言います。

子供が辛い目に会っている時、苦しまない親などいません。神も同じです。私たちが喜ぶ時、神も喜ばれ、私たちが苦しむ時、神も私たちの苦難を御自分の苦難として共に背負い、やがて私たちを必ず救い出されます。試練そのものは尚続くかも知れない。だが信仰者自身は支えられます。

でも、救いの中心は勿論永遠の救いです。罪の赦しと永遠の命への救いです。これがないなら、私たちの全人生が無意味になります。私たちには人生の最後に死という最大の苦難と神の厳粛な裁きが待っています。この世で私たちが行なった全てのことが公にされ、裁かれます。一体、誰が大丈夫でしょう。でも、ここで福音を思い起したいと思います。神はどんなに愛と憐れみに満ちた方でしょうか。

詩編103篇8~13節は言います。

「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。主は私たちを罪に応じてあしらわれることなく、私たちの悪に従って報いられることもない。天が地を超えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。東が西から遠い程、私たちの背きの罪を遠ざけて下さる。父がその子を憐れむように、主は主を畏れる人を憐れんで下さる。」

罪を犯しては悔い、悔いてはまた犯す情けない私たちですが、何度でも悔い改め、神に依りすがるなら、神は決して見捨てられません。むしろ、そういう私たちを憐れみ、罪赦し、背負って永遠の救いに必ず入れて下さる。誰も何もこれを妨げることはできない!

【まとめ】
神に背負われる幸せを見てきました。第一に私たち自身や周囲がどんなに変っても決して変らず、第二に約束されたことにとことん真実、第三に御自分が計画されたことは必ず全能の力をもって実現させ、第四にどんなに弱く頼りなくても、主イエスを心から信じ受け入れ寄り頼む者を、この世でも救い、かつ永遠の救いへと必ず入れて下さる限りなく愛と憐れみに満ちた真の神!

この神に背負われる幸せを改めて覚え、新たな歩みへとご一緒に励まされたいと思います。(おわり)


2006年08月20日 | カテゴリー: イザヤ書 , ヘブライ人への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

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