愚かな者にならないように ウイリアム・モーア

聖書:詩編53編2-3

【愚かな者】


「神を知らぬ者は心に言う、『神などない』と」

と今日の御言葉、詩編第53編に記されています。それは新共同訳聖書ですが、1955年改訳聖書はこのようにヘブライ語の原文を翻訳します。

「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。」

「神を知らぬ者」と「愚かな者」、相違があるから、どちらが良い翻訳かを調べました。原文を見ると「愚かな者」が正しい訳と思います。つまり、

「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」

の方が原文により近いです。はっきり分りませんけれども、恐らく、

「愚かな者」

と言う表現はあまり強いので、新共同訳聖書は

「神を知らぬ者」

を用います。しかし、聖書には、神を知らない事と愚かな事は全く同じ意味になります。例えば、箴言にはこの御言葉があります。

「主を恐れる事は知恵の初め、聖なる方を知る事は分別の初め。」(9:10)

逆に言えば、「主を畏れない事は愚かである、神を知らぬ事は分別のない表れになります。」結局、聖書に於ける「愚かな者」と「神を知らぬ者」は同じ者です。しかしながら、ここでの「愚かな者」はばか者、あるいは白痴ではありません。ここでの愚かな者は、現実について大間違いをする人です。つまり、現実について間違った仮定のもとに自分の判断と行いを築く者です。

【神の存在を疑う愚かさ】
ですから、今日の詩編第53編によりますと、「神はない」と思う者は大変間違った仮定の上に現実を判断してしまいます。その故に、彼らは愚かな者です。神の存在はあまりに明白な事実ですから、「神はない」と主張する者の理解力が乏しいと言う意味です。詩編第19編はこの事について聖書の思想を明白に表します。

「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話す事も、語る事もなく、声は聞こえなくても、そのひびきは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」

【神は設計者にして造り主】
事実、この世をよく見ると、神の存在の証拠が十分あります。特に、地球の美しさや、複雑さや、理法などは創造主である神を示します。例えば、地球の大きさは丁度良いです。もし地球が少しでも小さかったら、重力が足りない為、地球を取り巻く大気を保つ事が出来ません。その反面、もし地球がもっと大きかったら、その空気は生命を支えられません。また、地球と太陽の距離は完璧です。もしその距離が少しでも長かったら、私達は凍ってしまいます。そして、短かったら、燃え切ってしまいます。この事は設計者と造り主を表します。さらに、この世の複雑な生命も神の存在と力を物語ります。生命はただ偶然に現れた訳ではありません。私達は車を見ると、その車を設計したデザイナーがいる事は当然だと思います。また、本を読むと、その本の作家がいるとすぐ信じます。しかし、ある人は大自然を見ても創造主の存在を認めません。それは非常に驚くべき事だと思います。もし神を信じるのに信仰がいるのならば、この世は神なしで、ただ偶然に出来たと信じるのは、信仰がもっと、もっと、いると思います。

【無神論者】
無神論者であるロバート・ロウと言う教授は自分の本にこう書きました。「キリスト者は神を信仰で受け入れるように、私は信仰を通して神の存在を拒否します。何故なら、神の存在の証拠があるから、ただ理屈だけで神の存在を拒否出来ない。だから私は無神論を信仰で信じるから無神論者になりました」と書きました。

有名な物理学者とノーベル賞を受けた天才であるアインシュタインは1916年にこのように言いました。「宇宙は永久の物ではなく、起源があった事は私にはとても気に喰わない事です。宇宙に始めがあったのは事実ですが、その事は私をいらいらさせます。」しかし、アインシュタインは知恵と知識をもっと得た30年後で、こう宣言しました。「宗教なしに、化学は不十分です。そして、化学なしに、宗教は盲目であります。」

この世は神の御手の業をはっきりと示しますので、

「神などない」

と言う者は理解力があまりに乏しい為、聖書にはその人は愚かな者と呼ばれています。使徒パウロがローマの信徒への手紙に書いた通りです。

「世界が造られた時から、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知る事が出来ます。」(1:20)だからこそ、「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。」


【悪霊さえ神を認める】
キリスト者である私達はもちろん神の存在を認め、決して無神論者ではありません。しかし、その事を満足する前に、先程、学んだ事を思い起こすべきだと思います。つまり、神の存在があまりに明白な事なので、ただそれを信じる事は大した事ではありません。ヤコブの手紙にこう記されています。

「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構な事だ。悪霊どももそう信じて、おののいています。」(2:19)

私達は神の存在を信じています。それは問題ではないと思います。しかし、私達の問題はある面でもっと深刻です。私達は神の存在を知りながらでも、ある時、主が存在していないように生きたがっています。あるいは、神の存在を認めますが、毎日の生活に、神の恵みと神の要求を忘れ、御自分の存在は私達とあんまり関係がないように生活をします。そして、ある場合、自分を神の目から隠れる事が出来ると信じたいのです。つまり、神の存在を信じても、結局神はいないように生きる事は、無神論と同じ程度に愚かな事ではないでしょうか。

【ヨナ】
旧約聖書の預言者ヨナの事を思い出します。ヨナは神から使命がありましたけれども、その使命を受けたくなかったのです。なぜなら、その使命は敵の国ニネベの為であったからです。それは、邪悪なニネベへ行って神の裁きを知らせる事です。ヨナの心配は、もしその裁きを素直に受け取って、ニネベの人々が悔い改めたら、神は憐れんでニネベを赦す事になります。その場合、敵の国は罰を受けなくなります。ですから、ヨナは神から逃れようとして、ニネベへ行く代わりに、全く反対方向のタルシシュ行の船に乗りました。彼自身は、神から自分の身を隠れる事が実際に可能かどうかは分りませんが、逃げてしまいました。神はもちろんヨナを見つけて、海に嵐を起こしました。そして、ヨナは船を救う為、自分を海にほうり込まれるように同意しました。そうすると、神は大きな魚に命じて、ヨナを呑み込ませられました。その魚はやがって彼を陸地に吐き出しました。そして、神から逃れる事は無理であると悟られたヨナは、主が命じたようにニネベへ行って、使命を果たしました。

ヨナは唯一の全能の神の御臨在から逃れると思った、愚かな者でした。神が存在していないように、自分が好んだ道を歩みたかったのです。しかし、彼は試練を通してその愚かさを悟りました。彼は詩編の作者が悟った事を本当に知るようになりました。

【詩編第139篇:神の守りの確かさ】
旧約聖書の詩編第139編にこの御言葉が記されています。一節から朗読します。

「主よ、あなたは私をきわめ、私を知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くから私のはからいを悟っておられる。歩くのもふすのも見分け、私の道にことごとく通じておられる。私の舌がまだひと事も語らぬさきに、主よ、あなたは全てを知っておられる。前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置いていて下さる。その驚くべき知識は私を超え、あまりにも高くて到達できない。どこに行けば、あなたの霊から離れる事が出来よう。どこに逃れれば、御顔を避ける事が出来よう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、よみに身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。あけぼののつばさをかって、海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいますし、御手をもって私を導き、右の御手をもって私をとらえて下さる。」


全くその通りです。どこへ行っても神はいつも私達と共にいて、支えて下さいます。さらに、私達の全ての思いまでも御存知です。神を存在していないように生きようとするのは、とても愚かな事で、ただ自分をばかにしてしまいます。その上、主に逆らって自分が決めた道を走ると、空しさと悲劇に終えてしまいます。

神の正しい道から迷うとき、神に対して、また、隣人に対して罪を犯します。つまり、今日の朗読に記されたように、

「人々は腐敗している。いむべき行いをする。善を行う者はいない。」(詩編53:2b)

愛する兄弟姉妹、救い主である主イエス・キリストのお陰で、私達は神の愛された子供になりました。私達の全ての罪が赦され、神と和解されました。ですから、恥と罪の意識を捨て、喜んで神と共に歩む事が出来ます。神は私達を豊に祝福して、この世で御自分の働きに参加させて下さいます。そして、私達の為に天でも素晴しい場所を用意してくださいます。そこで永遠に神との直接の交わりを楽しむ事が出来ます。

皆さん、神はこのような愛の神ですから、私達は喜んで主に従い、常に共に歩みたいのです。この神から自らを隠す必要がないのです。また、神が存在していないように生活しなくても良いのです。どうか、私達は愚かな事全てを捨て、神の恵みと光りと喜びの中に生きましょう。(おわり)

2006年05月07日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 詩篇

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