神への道 ウィリアム・モーア

ヨハネによる福音書14章 6:イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。 わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」

【驚くべき主イエスのお言葉】
イエス・キリストの教えは人間の常識を遥かに超えるものですから、その教えを聞くと私達の耳に驚くべき事がよくあります。例えば、「自分の命を得ようとする者は、それを失う。」また、「受けるよりは、与える方が幸いである」と「柔和な人々は地を受け継ぐ。」そして、「敵の為に祈りなさい」と「迫害される時、あなたがたは幸いである。喜びなさい」と教えられました。そのイエス・キリストの御言葉は私達を驚かされますが、恐らく今日の聖句は最も驚くべき主のご発言であります。

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない。」

考えて見ますと、この主イエスの御言葉は本当にすごいものです。そして、あんまりにも大胆ですから、ある人々には躓きになります。つまり、イエスは御自分が神への唯一の道であるとおっしゃる事は、ちょっと傲慢な発言だと思う者がいます。了見の狭い、あるいは頑迷な主張と受け取る人もいるかも知れません。そう言う排他的な事を言ってはいけないのではないかと思う者が大勢おられるでしょう。

しかし、イエス・キリストは

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない」

と宣言されるとき、神の独り子として真理を語りました。そして、御自分の発言は傲慢ではなく、却って愛と憐れみの動機からなさいました。

実は、この宣言は全人類と私達一人一人にとって、最も貴重な真理であると信じております。何故なら、この教えは私達の永遠の救いへの唯一の道を示して下さるからです。

この主イエスの発言は躓きになる理由が様々あると思いますが、多分おもに宗教に関する誤解と言えば三つの事が取り上げられます。

この三つの誤解を抱く者が多いですから、恐らく皆さんも聞いた事があると思います。

【全ての宗教の頂点は同じか?】
第一の誤解は次のようです。「全ての宗教は結局同じです。表面的な相違を取り除くと、全ては同じ事を教えます。ですから、どんな宗教を信じてもかまいません。諸宗教の全ての道は同じ所へと導きますので、自分が選んだ道は別に問題ではありません。」

言うまでもなく、世界の宗教は共通点があります。道徳的教えは大抵似ています。例えば、「人を殺してはならない」と言う教えは一つの共通点でしょう。それにもかかわらず、宗教の中で大事な差もあります。実は、イエス・キリストは今日の聖句を持って、大胆にキリスト教を全ての他の世界宗教から超越させました。もしイエス

「を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない」

のなら、決して全ての道は私達を同じところに到着させられません。主イエスが説いた信仰はユニークであり、そして、その特有性はイエス・キリストのみに基づいています。ある宗教は真理の探し方を教えようとします。しかし、主イエスは、

「私は真理である」

とおっしゃいました。また、ある宗教は救いへの道を案内出来ると言っていますが、イエス・キリストは、

「私が道である」

と宣言されました。更にある宗教指導者は、「私に従ったら悟りへの道を教える」と約束します。それに反し、イエスは、

「私は世の光りである」

と発言しました。そして、多くの宗教は満たされた人生の秘訣を教えると約束します。しかし、主イエスはこのように言われます。

「私が命であるから、私に従いなさい。」

この世の宗教はおもに何を教えるのでしょうか。それは人間の努力と長所によって神の好意を勝ち得る事が出来ると言っています。つまり、巡礼して、儀式を行って、施しと献金をして、律法を守る事によって、神、あるいは神々から良いものを頂きます。すなわち、人間が神に手を伸ばそうとする事です。

しかし、イエス・キリストはその逆の事を教えられました。私達の救いの為、神は愛を持って、先ず人間に御自分の手を伸ばして下さいます。更に、どんなに善人であっても自分の長所を持って神の好意を勝ち得る事は出来ないと教えられました。実は、人間の罪の故に私達と全能の神との関係が壊され、私達は滅びに向かって、全く希望のない者になってしまいました。しかし、私達の悲惨な状態を顧みて神は一方的にイエス・キリストを通して御自分の救いの御手を私達に伸ばして下さいました。神は正義の神ですから、誰かが私達の罪の報いを受けねばなりません。ですから、罪の全くない神の御子主イエスは私達の身代わりになり、私達の為に御自分の命を捨て、十字架で死んで下さいました。その贖い死の結果で私達はイエス・キリストの義を頂き、神と和解され、永遠に愛する神の恵みと祝福を楽しむ事が出来ます。

この世の全ての宗教は全く不可能な事を説きます。それは独力で自分の救いを勝ち得る事です。それに反し、イエス・キリストは愛する神の一方的な憐れみを提供して下さいます。つまり、神が人間には不可能な事を私達の為になさいました。私達の救いを齎す為、御自分の一番尊い者、独り子イエス・キリストを犠牲にしました。主イエスは私達の罪の故、受けるべき罰を御自分の身に受け、救いの道を開いて下さいました。ですから、人間の救いの働きはもう既に成就(じょうじゅ)されました。私達はただ自由に提供されたその恵みを心から受け入れる事だけです。

私達が見たように、全ての宗教は同じである事は大きな誤解です。同じ事を説いてはいないからです。少なくともイエス・キリストが啓示された信仰は他の宗教と基本的に違うものです。神への道は全く異なります。主イエスのみが

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない」

と宣言されたからです。

【宗教が違っても、どの宗教も同じ程度に正しいものか?】
第二の宗教に関して誤解は第一の誤解と関連があります。それはそれぞれの宗教が違っても、全ては同じ程度に正しいという誤解です。「私には私の真理があるし、あなたにはあなたの真理もありますから、どちらかが正しかは言えません。もし誠実に自分の宗教を信じていたら、その信仰の対象と教えは問題ではありません」と。しかしいくら言っても、それは矛盾に満ちた立場です。救いとは、自力で得る事であると同時に神の恵みによって自由に賜るものではありません。両方を同時に不可能です。どちらかが真実で、どちらかは誤りです。宗教が真理と関係なかったら、全く無益なものになってしまいます。自分の永遠の状態を誤った信仰に賭けたら、悲劇と空しさに終ってしまいます。実は、真理であるからこそ、力と救いがあります。

イエス・キリストが

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない」

と宣言されるとき、それが真理かどうかはどうして分りますか。誰でもそのように発言しますから証拠が欲しいですね。

【イエスは救い主であるとの証明】

始めに、イエスは旧約聖書の救い主について全ての預言を成就しました。神様は主イエスの誕生の何百年前に預言者を通して救い主を約束しました。そして、イエス・キリストはその御言葉にある預言にぴったり合って、御自分だけがその救い主の条件を満たしました。

御自分の誕生の所と生まれた家、また地上のお働きと贖い死が詳しく預言されたのです。更に、イエスは神の御子として、力強い徴、すなわち奇跡を行いました。人々を憐れんで、彼等の病気を瞬時に治されました。また、水の上を歩いたり、人の過去を知り抜いたり、七つのパンと数匹の魚を持って何千人を食べさせたりしました。そして、イエスは御自分の十字架の死と復活を予告して、何百人が蘇られたキリストを目撃しました。更に、主イエスを知った者の証があります。弟子ヨハネは主についてこのように言われました。

「言(すなわちイエス・キリスト)は肉となって、私達の間に宿られた。私達はその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ福音書1:14)

キリスト教信仰は人間によって作り上げられたものではありません。イエス・キリストは神の独り子として、御自分の真理の証拠を十分にあげられました。

【イエス・キリストは神への唯一の道】
最後に、キリスト教に対するもう一つの誤解があります。それはキリスト者がイエス・キリストは神への唯一の道であると言うと、了見(りょうけん)の狭い、あるいは頑迷(がんめい)な人になります。もし、実際に神への道が沢山あったにもかかわらず、キリスト者がそう言う事を出張すると、確かに狭い誤った考え方と見られます。しかし、イエス・キリスト御自身が

「私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない」

とはっきりとおっしゃいました。もし我々はその宣言を無視して、あるいは、それは間違ってると語ったら、偽りを言って、主イエスの教えに逆らう者になります。キリスト者ならば、少なくとも主の言われた事を正しく申し立てる必要があります。

考えて見て下さい。自分が病気になって病院へ行きます。診察を受けてから先生は診断を下します。「病気はとても危ないですけれども、よく効く薬があります。薬を飲んだら、直ぐ治ります。」しかし、それは大変な病気にあんまり単純な治療だと思って、自分はその薬を断り、その代わりに入院して手術を受けたいと言い張ります。そして、先生はこう言います。「この病気には一つの治療法しかない。薬を飲まないと段々弱って亡くなります。あんまり簡単な治療と思って信じられないかも知れませんが、しかし実際によく効きます。私は医師として資格と経験があるし、この病気で悩んでいる患者を沢山治療して来ました。皆は直ぐに治りましたから私を信じて下さい。」もし、先生に聞いて進めた唯一の治療を受けたら、自分の考え方が狭いと思いますか。とんでもありません。証拠を見る事と資格を持つ先生を信じる事は当たり前の事です。

私達はそのような患者の立場です。神の御子、先生イエス・キリストが

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行く事が出来ない」

とおっしゃることを信じるべきです。そして、主イエスを心から受け入れ、御自分の救いを頂く事によって素晴らしい事を発見出来ます。それは主イエスは本当に神への唯一の道であります。その道は目的と確かな希望と永遠の命に至ります。そして、イエス・キリストが真理である事も分って来ます。どんな状況であっても神は知恵を与えて、御自分の真理は私達を導いて下さいます。更に、もう一つの事を発見出来ます。それは主イエスは本当に真の命である事です。イエス・キリストのみが私達の将来を保証します。永遠まで保証出来ます。(おわり)

2006年02月12日 | カテゴリー: ヨハネによる福音書 , 新約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/51