神は本当に私を愛するか ウイリアム・モーア

サムエル記下9章1-13

【旧約聖書のお話】
毎月のバイブル・クイズを通して私達は旧約聖書に於けるお話を少しづつ学んで来ました。ハンナとその息子サムエルの事や、イスラエルとペリシテの戦いや、国王サウルの政権や、ダビデと巨人ゴリアトの決闘などについて学びました。ある面でこのお話は面白いです。何千年前の人の考え方と行動が映画の場面のように目に浮かびます。その劇的な王と預言者のストーリは今を住んでいる私達に興味を起こさせます。しかし、旧約聖書のお話はいくら面白くても、その出来事の数千年後に生きる私達と何の関係がありますか。キリストの教会はその大昔のストーリを現在も、「御言葉」、すなわち、私達の為の神からのお話としてなぜ大事にするのでしょうか。

【選民イスラエル】
実は、旧約聖書のおもなお話は全能の唯一の神と御自分が特別に選んだ民イスラエルとの関係を記録してあります。つまり、その民の為の神の愛と恩寵が語られています。ですから、主イエス・キリストの贖いによって神の家族に加わえられた私達は、旧約聖書のお話を通して父なる神の愛が分って来ます。変わらぬ神はイスラエルを愛したように私達も愛して下さいますので、その古代のストーリは私達のストーリになって、それを学んで大事にします。

【サウル王の孫メフィボシェット】
今朝、与えられた個所は、ダビデ王とサウル家の物語ですけれども、実際にこのお話を通して私達に対する神の愛と恵みが悟らされます。

まだ小さい子供だったサウル王の孫メフィボシェットは、一生その恐ろしい日を忘れる事が出来ませんでした。戦地から宮殿にこの悲しいニュースが届きました。「サウル王と息子三人は戦死されてしまいました。」イスラエルの長年の敵ペリシテは戦争でイスラエルの王と息子達を皆殺しました。その上、内戦の相手ダビデはサウルに代って、イスラエルの王になりました。ですから、祖父サウルとお父さんヨナタンを亡くした若いメフィボシェットは自分の命も危なかったのです。その時代、王家が代ると、勝った方が負けた王家を全滅しました。なぜなら、前の王家を二度と立ち上がらせない為でした。

その時、神殿はパニックの状態で、メフィボシェットを


「乳母が抱いて逃げたが、逃げようとしてあわてたので彼を落とし、足が不自由になったのである」


と記されています。

その日を振り返えってメフィボシェットは嘆きました。その日の故に王子であった彼は家族を失い貧乏になり、しかも、元気であったのに事故で足が不自由になって歩けなくなりました。その最悪の日は彼の人生をすっかり変えて、悲惨な運命を決してしまったと彼は思いました。ですから彼は自分を

「死んだ犬」

と呼んで挫折した毎日を過ごしていました。

しかし、メフィボシェット自身も予想出来なかったことが、実際にその日よりも、思いがけない恵みと恩恵を頂く事になりました。

【神の恵みの福音】
神の恵みはキリスト教信仰の中心的な真理です。聖書にはイエス・キリストの良いお知らせは「神の恵みの福音」と呼ばれています。全能の神は罪深い「私」の永遠の救いの為に御自分の独り子をこの世に遣わし、十字架までも負わせて犠牲にさせた程「私」を愛する事です。その恵みは全く勝ち取る事もできず、受けるに値しない神の一方的な賜物です。

【ダビデ王】
ダビデ王はイスラエルの全ての敵を征服して、国と自分の政権もやっと安定になりました。自分の生涯を振り返って見ると神の豊な恵みに驚きました。羊飼いであった彼がイスラエルの国王になったのは全く神の恵みだと信じました。王になるまで、毎日のように危険に直面して、敵の手で殺されなかったのは奇跡だと思ったのです。間違いなく、神は王になる為、彼を特別に選んで支えて下さいました。その恩恵を受けるに値しない者なのに、神は自分を豊に祝福したとよく分りました。ですから、感謝の気持ちでダビデ王はその同じような恵みを誰かに現したかったと思います。大きな恵みを受けたダビデは、自然にその神の祝福を分ち合いたかったのです。

ダビデは早速サウル家に仕えていた家来を呼んで言いました。

「サウル家には、もうだれも残っていないのか。いるなら、その者に神に誓った忠実を尽くしたいが。」

そして、家来は、

「ヨナタン様の御子息が一人おられます。足の不自由な方でごさいます」

と返事しました。そうすると、ダビデ王は人を遣わし、ヨナタンの息子メフィボシェットを連れて来させ、こう言いました。

「恐れる事はない。あなたの父ヨナタンの為に、私はあなたに忠実を尽くそう。祖父サウルの地所は全て返す。あなたはいつも私の食卓で食事をするように。」

メフィボシェットはダビデから素晴らしい恵みを賜りました。不幸のどん底に沈んだ彼は失われた地位と財産を授けられて、王の息子のように扱われ、希望と生き甲斐が彼に蘇りました。

【神の恵み】
しかし、ここで私達はもっと意味深いストーリを発見出来ます。実は、これは私達一人一人のストーリになります。私達に対する神の恵みのストーリなのです。

第一に、このお話を通して恵みの源が現されています。

「サウル家には、もうだれも残っていないのか。いるなら、その者に神に誓った忠実を尽くしたいが」

とダビデ王は言いました。実に恵みは神の王座から始まります。そして、その恵みは私達を探し迫って下さいます。確かに、それはダビデの経験でした。詩編23編に彼はこのような証を立てました。

「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるであろう。」


ダビデ王がどん底にいるメフィボシェットを探したように神は罪深い私達を積極的に見つけ出し、御自分の恵みを自由に提供し救って下さいます。

実は、私達が神を探す前に、神を知る前さえも、主は私達を愛し、恵みを授ける為に、私達を探し出して下さいます。私達は主に選ばられ、メフィボシェットのように王の食卓でいつも食事をしようと言って下さいます。

考えて見ますと、ダビデ王はサウル家を思い出す理由は余りありませんでした。ダビデはメフィボシェットの亡くなった父親ヨナタンの友人でしたが、メフィボシェットを思い出して得になるメリットが何もなかったと思います。ただ神から受けた恵みの故にダビデは足の不自由なメフィボシェットを探し、大きな祝福を恵みました。同じように神は長所もメリットのない私達を探し、ただ愛の動機で私達を祝福して御自分の子供のように扱って下さいます。

第二に、私達は神の恵みを受け入れると、私達は自分の不自由な過去を捨てる事が出来ます。ダビデ王はメフィボシェットを宮殿へ招き出しました。しかし、その招きに答えるかどうかはメフィボシェットの判断でした。彼はダビデの招きを受け入れ宮殿に行きましたが、どんな気持ちで王の前でひれふしましたか。今朝の朗読の8節を見ますと、彼はダビデにこのように言いました。

「僕など何者でありましょうか。死んだ犬も同然の私を顧みて下さるとは。」

これはただ謙遜な挨拶ではなかったと思います。絶望した彼は困難と体の欠陥で、コンプレックスを持って自分を

「死んだ犬」

と比べました。しかし、ダビデ王の恩恵を受け、王の目に自分が価値のある者と悟ると、その態度を捨てる事が出来たと思います。メフィボシェットは王子の一人のように、常に王の食卓で食事を取る事によって新たなプライドと自尊心を得た事でしょう。

私が皆さんに「私達もイエス・キリストのお陰で王の子になりました」と言ったら皆さんはピンと来ないかもしれません。しかし、私達は神によって高く評価され、御自分の子供のように受け入れ、素晴らしい地位と特権を賜りましたので、私達の態度も良くなります。メフィボシェッとのようです。神の子として、勝利とプライドと目的を得て、どんな時でも、喜びを持ってまっすぐに立つ事が出来ます。唯一の神を「父」と呼ぶ事が出来るからなのです。

【神の恵みは御子イエス・キリストのお陰】
最後に、この聖書のストーリを通して、神の恵みは御子イエス・キリストのお陰である事を新に思い出す事が出来ます。メフィボシェットはもちろん自分がした事の故にダビデ王の恩恵を頂きませんでした。却って、自分のお父さんヨナタンのお陰でダビデによって思い出されました。7節にダビデは、

「恐れる事はない。あなたの父ヨナタンの為に、私はあなたに忠実を尽くそう」

とメフィボシェットに言いました。ダビデはヨナタンとの友好を覚え、メフィボシェットに自分の手を差し伸べました。同様に神の救いは私達の長所の故ではなく、全く主イエスの十字架の贖いのお陰です。キリストは私達の救いの為に高い値(あたい)を全部支払って下さいました。

ある牧師が鉱山で働いていた鉱夫と話した時、鉱夫は自分がイエス・キリストの赦しと救いを信じられない理由を語りました。「その救いはあんまり安いから信じられません。私はただイエス・キリストを救い主として受け入ると救われるなんて信じられない。永遠の救いはもっと高い値段があるはずです」と言いました。すると、牧師は鉱夫に聞きました。「今日、鉱山へ働きに行きましたか。」「もちろん、毎日行きますよ」と返事が来ました。「仕事が終わって帰る時、どのように鉱山から出て来ましたか」と牧師に聞かれると彼は、「いつものようにエレベータに乗って上まで上がれました。」そして、「じゃ、エレベータに乗る為、料金はいくら払いましたか」と訪ねると鉱夫は、「何も払ってないよ」と答えました。「何も払ってないのに、あのエレベーダが事故に合わないとどうして信じられましたか」と牧師が聞きました。「エレベータはとても良い物ですよ。鉱山は深いから会社は何百万ドルを掛けて優れたエレベータを備え付けました」と言うと、鉱夫はやっと悟りました。私達は自由に主イエス・キリストの救いを頂きましたが、実は、主はその大変な高値を払われたのです。

神の貴重な恵みは私達一人一人に迫っています。そして、イエス・キリストはもうすでにその恵みの高価を支払って下さいました。どうか、その比べられない程の恵みをここにいる愛する皆さん一人も残らず頂きましょう。

いのり
愛する天のお父さん、弱い罪深い私達の為のあなたの愛と恵みを思い出す度に驚きます。価値のない、あなたの敵であった私達の救いの為に、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、贖いとして十字架で死んで下さったのは、全くあなたの一方的な恵みである事がよく分ります。どうか、私達一人も残らず、心を開いて、あなたの比べられない程の救いの恵みを頂くように、導いて下さい。そして、その恵みによって生かされ永遠まであなたの喜びを満たして下さい。アーメン
(おわり)

2006年01月08日 | カテゴリー: サムエル記下 , 旧約聖書

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