クリスマスの喜び ウイリアム・モーア

ルカによる福音書1章26−56

◆マリアの讃歌(ルカによる福音書1章)
46:そこで、マリアは言った。
47:「わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
48:身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、49:力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、50:その憐れみは代々に限りなく、/主を畏れる者に及びます。51:主はその腕で力を振るい、/思い上がる者を打ち散らし、52:権力ある者をその座から引き降ろし、/身分の低い者を高く上げ、53:飢えた人を良い物で満たし、/富める者を空腹のまま追い返されます。
54:その僕イスラエルを受け入れて、/憐れみをお忘れになりません、55:わたしたちの先祖におっしゃったとおり、/アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

クリスマスの喜び

【讃美歌 102】

もろびと声あげ、喜び称えよ、
神の恵み、 この世に表われ、
ダビテの村の いぶせき馬屋に、
きよき御子は 生まれたもう。

もろびと声あげ、喜び称えよ、
あめのとびら 今しも開かれ、
つきぬ恵みを 身に帯び給いて、
きよき御子は 生まれたもう。

もろびと声あげ、喜び称えよ、
死の恐れを 追いやりたまいて、
よき音ずれを あまねく伝うる
きよき御子は 生まれたもう。

【神の賜物である喜び】

先程私達はこの喜びの讃美歌102番を心から歌いました。また、アドベントリースの第三のろうそく、「喜びのろうそく」も灯しました。やはり何よりも、クリスマスには神の賜物、喜びが伴います。そして、私達人間は今、何よりもその賜物が必要です。実は、この時代は暗いです。この世の状況を見たら喜ぶ事があまりありません。人間は愛する造り主が教えて下さった命に至る生き方を忘れ、自己中心になり、色んな悲しい事が起きています。新聞とテレビのニュースを見るとあまり喜ぶ事がありません。戦争やテロや災害や殺人や恐い病気の発生やインチキなどの事ばかりです。皆さんは分りませんけれども、最近私はニュースをあんまり見たくなくなりました。特に、恐ろしい映像が目の前に現れると、すぐテレビのリモコンを持ってチャネルを変えます。しかし、いくらチャネルを変えても喜ぶ程の内容はありません。

さらに、私達は自分自身の中を見ても喜ぶ事が少ないのです。正直に見たら、自分の弱さと失敗、自分のわがままと不精(ぶしょう)は明白です。愛する神に対しても、隣人に対しても繰り返し罪を犯す私達は喜ぶ理由があるのでしょうか。

【マリヤの喜び】

今朝、与えられた聖書の個所に於けるマリヤと言う女の人は最高の喜びを経験しました。マリヤの喜びはどう言うものでしょうか。何処から来ましたか。そして、喜びの少ない時代に生きる私達もその同じような喜びを経験出来るのでしょうか。特に、喜びのクリスマス・シーズンにいる私達は喜ぶ理由を探しています。表面的のわいわいとデコレーションが心からの喜びを支えられないのを私達はよく知っています。その表面的出来事に基づいた喜びは遂には暗闇に負けるからです。

しかし、マリヤが経験した喜びはどんなものだったのでしょうか。実は、それは一生消えないもので、さらに死後、永遠までも続きます。今朝、マリヤの喜びを一緒に調べて見ましょう。そして、それと同じ喜びを私達の物にする秘訣を今朝一緒に学びたいと思います。

【天使がマリアに現れる】
今日の個所は非常に驚くべき出来事を記します。ルカによる福音書1章26の所を見て下さい。


「六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけである乙女の所に遣わされたのである。その乙女の名はマリアといった。天使は、彼女の所に来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』マリヤはこの言葉に戸惑い。いったいこの挨拶は何の事かと考え込んだ。すると、天使は言った。『マリア、恐れる事はない。あなたは神から恵みを頂いた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わる事がない。』」

マリアの立場を想像して見ましょう。彼女の年齢は記されていませんが、その時代、女性達は早く結婚しましたので、恐らくまだ若い娘でした。まだ17、18歳ぐらいのテイーンエージャーだと十分考えられます。マリアが生まれた家族の事については殆ど知られていませんが、多分ごく普通の家庭のようです。そして、彼女はナザレと言う田舎の町の大工ヨセフと許嫁(いいなずけ)になっていました。ですから、マリアは当時の普通なみの若い娘で、将来の結婚と家庭を築く事を楽しみに待っていました。教育も殆ど受けていないし、社会的地位もごく平凡でした。しかし、彼女はイスラエルの神を心から信じ、従おうとする意思が強かったのです。


天使がマリアに現れると、彼女の人生はすっかり変わりました。もちろんマリアはびっくりして恐れました。そのような天使の経験はまったく初めてですから、もちろん戸惑いました。そして、天使のメセージを聞くと更にもっと驚きました。

「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わる事がない」

と天使はマリアに知らせて下さったのです。つまり、マリアは妊娠して、何百年も前から神の預言者達が予告した救い主を産むと言う驚くべきニュースでした。

【聖霊によって身ごもるマリヤ】

マリアはその事を聞いて何と言いましたか。34節を見るとこの言葉が書いてあります。

「マリアは天使に言った。『どうして、そのような事がありえましょうか。私は男の人を知りませんのに。』」

それは当たり前の質問でした。まだ結婚していなかった乙女は妊娠するはずがありません。そして、天使はこのようにマリアの質問に答えました。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

マリアは奇跡的な神の力によって妊娠すると言う驚くべきお告げでした。けれども、それはただの驚くべきニュースではなかったのです。更にマリアにとっては、それは何よりも恐ろしいニュースでもありました。最近では、未婚の母と出来ちゃった婚は珍しくはありません。ある程度社会に認められています。しかし、マリアの当時、それは絶対にしてはいけない事でした。厳しく罰せられた事でした。社会から追放され、村八分になる程の恐ろしい罪でした。更に、自分の家に大きな恥を掛かせる事になりましたので、家族からの同情を受ける期待が全くありませんでした。赤ちゃんを産んでも助けてくれる人がないのです。特に、人のいいなずけになっている場合、他の男によって妊娠されると、大変でした。もし婚約した男によって訴えられたら、最悪の罰は石投げの死刑でした。マリアはその全ての事を知っていたはずでした。マリアは、「神の御子を産む為にどうか他の人を選んで下さい」と天使に言いかえしても、ちっともおかしくはありません。リスクがあんまり高いので、マリアがその役割りを断っても誰でも十分理解出来ました。

【お言葉どおり、この身に成りますように】

しかし、マリアはこのように答えました。38節を見て下さい。

「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」

と言いました。マリアの信仰は何と深かったのでしょう。つまり、「私を用いて下さい。どんな危険と恥と苦難を受けても、是非、救い主をこの世に遣わす為、私、主のはしためを使って下さい」と答えました。

【エリサベトの祝福】

そして、マリアは早速、親戚エリサベトの町へ出かけました。天使がマリアに知らせたように、長く不妊であったエリサベトも妊娠していました。その子はイエスの道を整える洗礼者ヨハネでした。マリアはエリサベトに挨拶するとエリサベトは神の霊に満たされこのように言いました。

「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。私の主のお母様が私の所に来て下さるとは、どう言う訳でしょう。あなたの挨拶のお声を私か耳にした時、胎内の子は喜んで踊りました。主がおっしゃった事は必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」

とエリザベトはマリアに言いました。

【マリアの讃歌】

そうすると、マリアはこのように神を賛美しました。47節の所を見て下さい。

「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も私を幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大な事をなさいましたから」

とマリアは歌いました。

実に、マリアの喜びは神にありました。神がなさった素晴しい事を見て、溢れる喜びを経験しました。神が御自身の独り子をこの世に遣わして下さる、この最も良いニュースを聞き、主を賛美し称えました。唯一の救い主としてイエスは生まれ、この世の人々が自らの罪から救われる福音に、マリアは心から喜びました。そして、更に、自分がその神の救いの働きに大事な役割りを果たしましたから、マリアは喜びました。神は身分の低い、ごく普通の娘である自分のような者を用いて、神の目的を果たすと言う事は最高の喜びでした。神は自分に偉大な事をなされたので、喜びで満たされ歌いました。

【幸せと喜びの違い】

喜びの源(みなもと)は始めから終わりまで神です。すなわち、喜びは私達の為に神がなさった事と私達を御自身の働きに用いられる事から来ます。その反面、「幸せ」と言う事はこの世の周りの環境から来ます。つまり、もし全てがうまく行って、あるいは特別な問題や心配がないと、ハッピーですね。しかし、そのような幸せはすぐ消えてしまう、一時的な状態ですから、またすぐに惨じめな気持ちになります。この世で歩む時、何の問題もなく生きる事はありません。小さい事でも、いつも問題や心配は付いて来るものです。そのようなものですので、幸せに頼れません。

実は、この世の人々の目から見ると、マリアは「幸せ」と言える歩みではなかったのです。イエスの母となって色んな苦労があったのです。馬小屋でイエスを産んで、そして、幼子を殺そうとする暴君から守る為に外国のエジプトまで逃避しなければなりませんでした。その上、自分の息子の十字架の死までも目撃したのです。決してこれはこの世が与える「幸せ」ではありませんでした。しかし、マリアは神が賜る喜びを常に経験出来ました。それは愛する神がなさった素晴しい御業に基づいているから、消える事がないし、いつまでも頼る事が出来ます。そして、神の独り子の母として主の働きに参加出来る事はマリアにとって大きな、大きな喜びになりました。罪深い自分が用いられて神の御旨が叶った事はマリアにとって比べる事が出来ない程の光栄と喜びでした。ですから、苦労と悲しみがあっても、主にある喜びによってしっかり支えられました。

今年のアドベントを通して私達一人一人もマリアが経験した喜びを知る事が出来ます。私達も神の愛と永遠の救いを頂きました。罪の故に滅びに向かった私達もイエス・キリストの贖い死のお陰で主の許された大事な子供になりました。誰もその喜びを私達から取り上げられません。そして、私達もこの世で神の働きに参加する喜びを経験出来ます。特に、主イエスの教えに従う時、喜びが与えられます。つまり、私達の隣人と私達を難しくする扱い難い敵をも愛すれば、主の喜びは更に大きく私達のものになります。また、弱い者を助け守ると主の喜びはすでに私達のものになります。そして、主の恵みを知らない人にその賜物を分かち合うと、神の働きに用いられる喜びが分ります。

これは一年中経験出来るクリスマスの喜びです。どうか私達だけではなく、この世の全ての人々も神の素晴しい賜物、喜びを経験出来ますようにと主に祈りましょう。

祈り--クリスマスの喜び

愛する天の父なる神様、あなたの賜物、本当の喜びを私達に豊に授けて下さり心から感謝します。あなたが下さる喜びはこの世が与える「幸せ」と違って、消える事がありません。永遠まで続きます。どうか私達はマリアのように私達の喜びをあなたの愛と素晴らしい御業に求め、そしてあなたによって用いられる事は私達の最高の喜びになりますように。特に、この喜びのシーズン、クリスマスには、私達が与えられた喜びを隣人に分かち合う事が出来、隣人も真の喜びの唯一の源、あなたを信じるように導いて下さい。主の名によって、アーメン。

2005年12月11日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

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