命を選びましょう ウイリアム・モーア

マタイ7章13-29

【豊かな命を与える主イエスの教え】
今朝の与えられた個所はイエス・キリストの山上の説教の結末になります。二ヶ月に渡って私達は山上の説教を通して、主イエスの基本的な教えを学んで来ました。主の八福や、心からの義と心からの敬虔や、お金の使い方や、人を裁かない事や、神に求める事などを一緒に学んで来ました。この主イエスの一番大事な教えを新に覚え毎日の生活に活用して、私達の信仰がよりもっと元気なものになったでしょうか。また、その主の教えに従う事によって、私達は周りの者に、よりもっと大きな祝福と証になりましたか。

イエス・キリストの教えを聞いて、それを実際に行うと、きっとその実を結びます。更に、イエス・キリストを心から信じ、主御自身の教えに従う事によって、私達は神が賜る本当の命を歩みます。すなわち、真の希望と目的、また力ある生活が与えられます。その意味で主イエスはこのように宣言しました。


「私が来たのは、彼等が命を受ける為、しかも豊に受ける為である。」(ヨハネによる福音書10:10)

【二つの門、二つの道】

山上の説教の結末にイエス・キリストは御自分のみが提供するその「豊かな命」を受ける為、色々な大事なアドバイスを私達に与えて下さいます。

今朝の御言葉の13と14節に、この主イエスの御言葉が記されています。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

第一のアドバイスとして、主イエスは滅びに通じる広い門の代わりに、命に通じる「狭い門から入りなさい」と私達に勧めて下さいます。ここでイエスは門と道のイメージを用いて最も大事な真理を私達にはっきりと掲示して下さいます。それは、私達の人生にはただ二つの到着地と二つの道のみがあると言う事です。そして、その到着地はどちらか、命かまたは滅びなのです。

滅びに通じる門と道は広いですが、真の命に通じる門と道は狭いです。そして、どんな到着地に着くかは、どちらの道を歩むかの次第であります。主イエスによりますと、道の選択は二つしかないから、知っていようがいまいが私達皆は今、どちらかの道を歩んでいるのであります。  

【滅びにいたる広い道】
広い門と広い道とはどう言う事でしょうか。簡単に言えばそれは人間が決めた命と救いへの全ての道です。歴史を見ますと、人間は数え切れない程の命と救いへの道を考え出しました。一つの道は自分の善い行いによる救いなのです。つまり、善い行動によって自分の救いを稼(かせ)ごうとします。自分が善い人、あるいは自分の善い行いは悪い行いより多いから、救われると思いたい人が大勢います。しかし、天地万物の造り主はそのようには計算いたしません。御言葉にこのお話があります。

「私達は皆、汚れた者となり、正しい業も全て汚れた着物のようになった。私達は皆、枯れ葉のようになり、私達の悪は風のように私達を運び去った。」(イザヤ書64:5)

私達は皆、神に対して、また隣人に対して罪を犯しますので、救いを自分の善によって勝ち得る事は全く不可能です。ですから、本当の命と救いの道を歩みたいなら、自分の善い行いに頼る事が出来ません。それは滅びに通じる広々した道なのです。

また、人間は色々な宗教を作り上げ、救いを求めます。しかし、救いの方法は人間によって決まるものではありません。救いは唯一の全能の神のみにあるのですから、私達人間が救いの方式を作り上げるのは極めて愚かで傲慢です。その広々した全ての道は滅びに導びきます。

そして、ある人はこのように考えます。「どんな宗教でも、また、どんな生き方でも私達を同じ目的地に案内します。もし真心こめてその道を歩むなら、大丈夫」と信じます。つまり、全ての道は同じ救いに至るから、どの道を選ぶのも構いません。道はただ好みの問題か習慣の問題になると言います。それは実は甘い考えです。全ての道は自分を同じ目的地に到着させる訳ではありません。それは誰が考えても常識です。

【命にいたる狭い道】
イエス・キリスト御自身は私達の救いと命に至る唯一の道です。イエスは言われました。

「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の元に行く事が出来ない。あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知る事になる。」(ヨハネ14章6--7)

主イエスが言われたように、その道は確かに狭いです。御自分以外には救いが全くないからです。けれども、考えてみますと、不思議にその道は同時に一番広い道になります。何故なら、その道を歩む資格が一つだけあります。それは信仰なのです。

「神は、その独り子をお与えになった程に、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る為である」(ヨハネ3:16)

と聖書に記された通りです。神の御子として、また自分とこの世の唯一の救い主としてイエス・キリストを心から信じるなら、命と救いを得ると約束されています。つまり、私達は救いと真の命を自分の長所によって勝ち得る必要がありません。実は罪深い私達は救いを勝ち得る事は全く不可能です。それは初めから終わりまで神の賜物です。そして、信仰によってのみその賜物を頂けます。

【にせの教えを見分けるには】
また本当の命と救いを得るように主イエスは第二に、この大事なアドバイスを提供して下さいます。15節を見て下さい。

「偽預言者を警戒しなさい。彼等は羊の皮を身にまとって、あなたがたの所に来るが、その内側は貪欲な狼である」

と主が私達に言われます。ここでの偽預言者達は誰でしょうか。16節に「その実で彼等を見分ける」と主が教えられます。実は、主イエスが開いて下さった狭い門以外を勧める者の実は悪い訳です。彼等は偽預言者です。何故なら、彼等の教えはイエスがもたらした本当の命と救いの代わりに滅びに通じる門に導くからです。広い門と広い道を説く者のメセージは甘い言葉に聞こえるかも知れないが、実際にその到着地は救いの道ではありません。空しさと滅びに至ってしまいます。ヨハネの手紙一にこの御言葉が記されています。

「愛する者達、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたと言う事を公に言い表す霊は、全て神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分ります。イエスのことを公に言い表さない霊は全て、神から出ていません。」(4:13)

真の命に導く道から迷はないように、常に偽預言者を警戒しなければなりません。それは主イエスの第二のアドバイスです。

【生活の指針としてのイエスの教え】
今度は主は御自分の教えを聞くだけではなく、実際に毎日の生活にその教えを生かす重要性を強調します。私達の信仰はただ頭の中の概念ではないし、口先ばかりのものでもありません。もし主イエスの教えが私達の行動に影響しないと、大事な事が欠けていると主が言われます。21節をお読み致します。

「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の国に入る訳ではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」

と注意して下さいます。つまり、口先で「主よ、主よ」と言いながら、実際に主の教えを無視する信仰は足りないです。その信仰を持つ者は天の国の働きになかなか参加し難いです。日常の歩みに主から習った事を実行する必要がある訳です。ヤコブの手紙に記されているように、

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺(あざむ)いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブの手紙1:22)

この重要な事を悟らせて下さる為、主イエスはたとえ話を語られました。多分何度もこの有名なたとえ話を聞いた事があるでしょうが、新に聞いて下さい。24節から朗読します。

「そこで、私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている.雨が降り、川があるれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」

と主が語られました。

【末期がんの先輩牧師】
先輩の牧師は、60代前半ですが、今危険な病気と戦っています。体がだんだん弱って来て、動く事と話す事も難しくなって来ました。先のたとえ話のように、「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」先輩を襲いかかっています。しかし、彼は病気と戦いながら、出来るだけ与えられた責任と奉仕を果たしています。先週、私はこの先輩の牧師に会議で会って驚きました。体がかなり弱って来ました。しかし、彼は希望と生き甲斐があって平安のうちに自分の働きを続けています。彼は大学の理事長ですから、会議の始めに聖書を朗読して、奨励とお祈りをしました。その中で彼は御言葉を常に聞いて従う重要性を強調しました。後で一緒に帰りましたが、その時先生は私に言いました、「恐らく再びここに戻る事がないから、今日の話は私の遺言のようでした。どうしても、このメセージを残したかったのです。」

やはり、先輩は一生、主イエスの御言葉を聞くだけではなくて、実際に行う者でした。しっかりした土台に立つ事が出来ました。つまり、主イエスから学んだ事を毎日の生活に実行して来ましたから、信仰は自分の行動に根深いものになっています。どんな事が襲って来ても平安と希望を持つ、素晴らしい証を立てられます。そのような土台のみが私達を支え、豊かな命へと導きます。

どうか、私達も一人残らず、真の命を選んで、山上の説教で学んだ主イエスの教えを実行したいです。それこそが命に通じる門であります。

(おわり)

2005年11月20日 | カテゴリー: イザヤ書 , マタイによる福音書 , ヤコブの手紙 , ヨハネによる福音書 , 新約聖書 , 旧約聖書

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