心からの敬虔 ウイリアム・モーア

聖書:マタイ6章1-18

施しと祈りと断食

主イエス・キリストの当時、敬虔なユダヤ人だと言う人は誰でも信仰生活で、必ず三つの事を行いました。それは施しと祈りと断食です。敬虔な信者は少なくともその三つの宗教的行為を実行しました。ユダヤ人はこの三つを大変重んじましたので、主イエスも山上の説教でこれを扱いました。施しと祈りと断食と言う行為を通して、イエスは神が望んでおられる「心からの敬虔」を教えられました。

さて、今日の個所の始めのところ、マタイによる福音書6章1ー4を見て下さい。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いを頂けない事になる。だから、あなたは施しをする時には、偽善者達が人から褒められようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼等は既に報いを受けている。施しをする時は、右の手のする事を左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせない為である。そうすれば、隠れた事を見ておられる父が、あなたに報いて下さる」

とイエスは言われました。

善行の動機

イエスも善行と施し、その行動を大事にしました。しかし、善行その行為よりも、善行の裏にある私達の態度と動機をもっと大切にしました。実は、動機が誤まったら、善行の霊的な意味がなくなるからです。主イエスによりますと、もし人の褒め言葉と賞賛を得る為と言う動機ならば、神はその善行を高く評価しません。更に、自分が他の人よりも偉いと言う気持ちで良い行いをすると、神はその善行をも受け入れません。

何故かと言いますと、人の賞賛と自分の優越感の為に良い行いをすると、その行為は基本的に神とは関係がありません。つまり、神の栄光の目的の代わりに、自分の栄光の為だったら、それは全く無宗教的な行いになります。そして、無宗教的な行いなのに、それを神と信仰の為だと主張すると、偽善者になってしまいます。また、人からの賞賛と言う報いをもう既に頂いたら、神からの報いがないと主イエスが教えられました。

優越感と虚栄心でなく

実は、イエス様の時代、ある人々は出来るだけ多くの人の前で施しをしました。人から褒められようと会堂や街角で貧しい者にお金や食べ物をやりました。そして主イエスによりますと、彼等は施しを与える時、「自分の前でラッパを吹き鳴らしました。」つまり、見せびらかすように施し物を貧しい者に恵みました。もし皆が善行を見てもらわなかったら、もったいないと言う気持ちです。動機が誤まっているから、それはしてはいけない事だと主イエスが言われました。結局、神を喜ばせる為にしたのではなく、自己満足させる為にしましたので、敬虔の現れよりも自分の優越感と虚栄心を明らかにします。

心からの敬虔

その自己中心的行為の代わりに、「施しをする時は、右の手のする事を左の手に知らせてはならない」と主はお勧めになりました。すなわち、静かに、密かに善行と施しをする方が良いと主が言われました。そして、動機が正しいですから「隠れた事を見ておられる父が、あなたに報いて下さる。」

本当にこの現代に住んでいる私達にはなかなかこのような事は見られません。今の時代は自分を自分でアピールする時代だと言われています。何でも全てを言葉と行動で目立たせてしまうのです。表に出ているものそれ以上は何もないような気がします。また、人々はそれだけで全てを判断する傾向があります。しかし、まだまだあるところでは神の働きが残っているようです。

ある親子の隠れた善行

ある男の人が畑をやって、秋になるとジャガいもを収穫しました。小さい息子と一緒にジャガいもを掘って、洗ってから乾燥する為、日差しの良い所に広げました。そして、乾いたいもを十個数えて、その中から一番大きい一個を別の紙袋に入れておきました。 「十分の一は神の物ですから、一番良い物を神様に捧げましょう」と息子に説明しました。その仕事が済んでから早速、一番良いいもを車に積んで、町で一番貧しい地域へ行きました。その所に入ると特別にみすぼらしい家を見つけました。そして物干し竿に子供の服が沢山掛けてありました。その家からちょと離れた所に止めて、静かにジャガいもを持ってその家のドアの前にこっそりと置いて帰りました。「本当に神様に捧げたような気持ちだった」と男の人は思いました。芋を頂いた家族は恩人が分りませんでしたが、その男の人と息子は主イエスが教えた心からの敬虔を実行して、大きな恵みを受けました。

祈りについて

次にイエスは祈りについて語られました。5節を見て下さい。「祈る時にも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者達は、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼等は既に報いを受けている。だから、あなたが祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた事を見ておられるあなたの父が報いて下さる」と主が言われました。

主イエスの時代、敬虔なユダヤ人はどんな事をしても、必ず午後3時に仕事を休んで、何処にいても、ちょっとの時間、個人的祈りを捧げていました。その3時はエルサレムの神殿で祭司が皆の為に生け贄を捧げたからです。その祈りは個人的なのに、ある人は3時になると、わざわざ賑やかな所へ行って皆が見えるように祈祷を捧げました。祈祷の内容は分らないけれども、イエスのある譬え話に一人の偽善者の祈りが残されています。「神様、私は他の人達のように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもない事を感謝します。私は週二度断食し、全収入の十分の一を献けています。」(ルカ福音書18章11)

実は、偽善者の祈りは神に向けていません。神よりも周りの人、すなわちそれを見ている人の為でした。または優越感に溢れる自分自身に向けていました。ですから、主イエスによりますと、もし報いがあれば、その報いは神からのではなく、人間からのみ来るものなのです。つまり、祈りは神だけに向けるべきものですから、祈りを通して自分の敬虔を周りの人に見せるものになると、神はその祈りを受け入れませんと私達に教えられています。

先日、総理大臣は靖国神社へ行って、祈りを捧げました。言うまでもなく、靖国神社と小泉首相はキリスト教信仰とは関係がないですけれども、彼の行為は主イエスの教えをよく例証すると思います。つまり、首相によりますと、今度の参拝は公式ではなく、ただ一般市民としての個人的な参拝だったと主張しました。しかし、もしその参拝がただ一般市民としての個人的な行為、すなわち、自分と「神々」の間の業であるのなら、どうしてマスコミや公の前に神社参拝をひけらかしましたか。本当に一般の市民としての個人的な行為であるのなら、静かに行うはずです。小泉首相の動機は何処から来たのでしょうか。色々言えると思いますが、間違いなく、その靖国神社参拝はおもに人の目の為だと思います。

異邦人の祈り

主イエスは続けて祈りについてこのように教えられました。7節を見ますとこの御言葉があります。「また、あなたがたが祈る時は、異邦人のようにくどくどと述べではならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼等のまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものを御存知なのだ」と主がおっしゃいました。

イエスの当時、異邦人、すなわちユダヤ教従でない人は自分の神々に願う時、しつこく祈りました。そうしないと、神々が祈りを無視する恐れがありました。そして、神々が自分の願いを叶えてくれるように意味のないマジックのような決まった言葉を用いました。しかし、唯一の真の神はくどい話や無意味な表現で動かす事が出来ません。愛する神は全ての心からの祈りを聞いて下さいます。また、主イエスが言われた通りに神は「願う前から、あなたがたに必要なものを御存知なのだ。」ですから、祈る時には意味の分らない決まった表現を避けた方が良いのです。子供が親に直接に願うように父なる神に願うべきであります。

主の祈り

続いて、主イエスは手本になる祈祷を教えて下さいます。その祈りは「主の祈り」と呼ばれて来ました。私達はもう既に主の祈りを詳しく学びましたから、ここで扱うつもりはないけれども、二つのコメントをしたいと思います。先ず、手本になる主の祈りは「天におられる私達の父」、つまり、神のみに向けています。人向きの賞賛と批判、また人からの願いが全くありません。ですから、私達の祈る事も全て神を対象とするものになるべきです。ある時は人の賞賛や批判や願いなどが必要ですが、その目的でお祈りを利用してはいけません。祈りの内容全ては唯一の全能の神に向けていますので、人に言いたい事があれば、その人に直接言った方がましです。

また、礼拝の中、主の祈りを一緒に祈る時、その意味をあんまり考えなく、自動的に繰り返す場合があると思います。私もその傾向があります。主の祈りを唱える時、是非その意味を考えながら捧げましょう。

断食について

最後に主イエスは断食を扱いました。19節から読みます。「断食する時には、あなたがたは偽善者のようにしずんだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼等は既に報いを受けている。あなたは、断食する時、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れた所におられるあなたの父に見て頂く為である。そうすれば、隠れた事を見ておられるあなたの父が報いて下さる」と主が教えられました。

ユダヤ人は神の前の謙遜と宗教心を表す為に断食をしました。また、自分の祈願を強くさせる為、断食しました。ユダヤ教の律法は、毎年一回の贖いの日だけに断食を義務づけられていましたけれども、ある信者は毎週二回程、一日中何も食べませんでした。その人たちは断食によって、自分の敬虔を見せ付けました。つまり、断食を守るとき、洗面せずに出掛けて、人の前にわざと苦しいそうな顔をしました。その事によって周りの者の尊敬を受けようとしました。

主イエスはそのような偽善的行為をしないように注意されました。何故なら、もし断食が宗教的な行為であるなら、宗教的な動機が必要です。ただ自分の敬虔を見てもらう機会と思ったら、宗教上の意味がなくなります。ですから、断食をする時、密かに自分の断食を守るべきです。断食は人に気づかれずに、顔を洗って、髪をちゃんとして、普通の様子をした方が良いと主が教えられます。そうすると、周りの者の賞賛の代わりに、神からの報いを受けられると主は約束されました。

イエス・キリストは私達に心からの敬虔を勧めて下さいます。人からの報いよりも、神からの祝福が遥かに優れたものですから。心からの敬虔には本当の恵みと祝福があります。どうか神が私達の動機と思いを清めてくださるように願っております。

2005年10月23日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , ルカによる福音書 , 新約聖書

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